TOKIO

別離2

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ぐいと拳で埃を拭った硝子の面にぐいと広げた掌を押し当てたあと、開いたキーボードを軽いタッチで8度押す。そう、パスワードは8文字。幾度となく居住を移す事を繰り返した流転の日々。

指認証・声紋・血管認証・角膜認証、様々なキーパターンを渡り歩きながらも、設定されるパスワードはいつも同じ。もっとも、アナグラムのようにアルファベットの順番はその都度違うのだが、そこにあるのは過ぎ去った過去へのノスタルジックなついえぬ想い。

 

 

 

目の前でゆっくりと開かれて行く扉を待ちわびたように、駆け出して行く小さな影に、山口は苦笑を零した。

あの人も、幼い頃はこんなにも元気な子供だったのだろうか と。

自分の知り得るあの人は、陽光にあたる事も少なく、灼ける事を知らぬ肌はいつもどこか青みがかり、いつ倒れるのではないだろうか といつも傍らではらはらしていたと言うのに。

 

自動クリーニング機能があるとはいえ、1週間、人気のなかった室内はどこか埃くさく、久しぶりに差し込んだ日の光に、軽い足音に呼応するかのごとく、舞った埃が綺羅と光る。

「あっち」

そう一言だけその場に残し、事務所の中央にでんと設えられた扉の向こう側にある私室へと走って行く小さな背は、どこまでも邪気がない。

「あんまり勝手にひっくり返すなよ」

ウィンと小さな起動音と共に立ち上がって行くコンピューターから、次々とチップを取り出しては、小さなケースへと放り込み、その傍らでは、机の上にどんと積まれた資料を次々へとシュレッダーにかけて行く。

国家機密、とは言わないが、あちこちにあるのは、過去に関わったクライアントたちの個人情報だ。かなり際どい手段を使って手に入れたモノも少なくはない。

「どうすっかなあ」

と、鼻歌まじりで、そのうちの一枚を軽く弾くと、それは綺麗な放物線を描いて手の中に舞い落ちてくる。

全てを持って行けるわけではない。何を選んで、何を捨てて行くのか。他人よりも少し長過ぎる生の中、幾度となく繰り返して来た取捨選択。その瞬間、自分の前にある道と背中に続く過去の道と、そして、己を取り巻く世界との連なりを手のひらの上で転がすのだ。尤も、世界との繋がり等、5年ごとに途切れて行くんだけどさ と思いながら、僅かに苦笑を浮かべた。

ああ、そうでない奴も一人居たか と。

だが、僅かに溢れた笑みは、次の瞬間頬に張り付くよりも早く消え失せ、山口は隣の部屋を覗き込んでいた城島の体を背に隠すように立ち位置を変える。と同時に、どこから取り出したのかしかりと握りしめられた掌の中、かちりと音を立てるのは小さなサイレンサー。

 

「やっぱり帰ってたんだ」

音もなく開いた扉の向こう側、きんと張りつめた一瞬の緊張は、ひょこりと覗き込んで来た穏やかな笑みと柔らかな茶色の髪の前に、瞬く間に息をひそめ、山口は、つと筋肉が弛緩して行くのを感じた。

「ご無沙汰~」

センターの人と消えてからさ、毎日「トリ」飛ばしてたんだよ、心配でさぁ といけしゃあしゃあと言ってのけるほんの僅かたれ目の眼を細めた目の前の男。

「ピーピング・トム」

「やだなあ、坂本君てば、トム君って呼んでってば」

何年経っても、他人行儀なんだから、そう、親し気に溢れる笑みに、一見他意はないように見える。しかし、

「何がトムだよ」

この覗き屋が と呟くと、人聞きが悪いなあ、とトムは僅かに眉を顰めてみせた。

一見、穏やかで人の良さげな風貌をしているこの男、通称、ピーピング・トムという。覗き屋トム。その名前の通り、情報屋だ。隣の家の赤ん坊がいつミルクを飲んだか、から、隣国で交わされた国同士の密約まで、この男の情報網は驚く程広い。

「大体、何が心配だよ。お前だろ、あいつに俺の居所教えたのは」

「教えてないよ。嫌だなあ」

僕はただ、1コインを窓の外に放り投げて、坂本君のところ って呟いただけなんだから そうにこりと笑った男に、確かにあいつをつれてきたのは近所の婆だったけどな、と山口は、はぁと態とらしいまでに大きなため息を一つついた。

 

 

 

過去の遺物にエシュロンという存在がある。軍事国家である米国が、世界中に張り巡らした盗聴システムだ。地球上のたった一人の人間がぽつりと零した音を拾い、場所、時間、個人を特定することができる恐ろしい代物だ。だが、と山口は、無意識のうちにポケットの奥を探ったものの、この一週間の間に消え失せてしまった存在を思い出し、行き場のなくした掌を腹にこすりつけた。

だが、こいつの情報網はそれにも勝るとも劣らないものがある。なぜなら、5年ごとに全ての痕跡を消して、名前を変え、存在を消し、全く違う場所に移ると言う暮らしをし続けている山口の、坂本という名前の前の「神谷」という名も、それよりも前の「丹野」と言う存在も、この男は知っているのだ。全てを変えた山口の前に何食わぬ顔で姿を現すこの男。その間、単純に考えても15年。ほとんど姿形が変わらない山口に気づいていないはずのない目の前の男もまた、この15年の間、ほとんど老け込んだようには見えない。

 

「ったい」

壁に押し付けられた背中が嫌なのか、目の前に立ちはだかる丸太のような足が邪魔なのか、言葉にならない小さな文句をあげながら、ほんの僅かな隙間からひょこりと顔を出した城島の眼が小さく瞬きを繰り返す。

「むしさん?」

柔らかみを帯びた小さな掌を彼の頭上少し上の位置に伸ばすと、何かを捕まえようとするかのようにきゅっと握りしめた掌の中。嬉々と顔を輝かせて、人差し指と親指の隙間から覗き込むが、やがて、ゆっくり開かれた掌の中には何もいない。慌てたようにあたりを見回して、きらりと光ったあたりに再び小さな両手を伸ばす。

「結構、諦め悪い人だね」

誘われるように山口の背後から這い出ると、そのまま飛び回る「とり」を追い掛ける小さな背に、山口はくくっと笑った。どれだけ動体視力が良く、運動神経が良かったとしても、城島が追い掛けている「とり」が人間に捕まるはずがないのだ。周囲5mを常に赤外線でスキャンし、障害物がないことを確認しながら飛び回る「とり」

「やってぇ、むしさん、う~」

とっとっとっと、軽い足音をたてながら追い掛ける背は、いとも、愛らしくもあるのだけれど。

「ま、ムシって方が確かに正しいわな」

「まぁね、元々俺もムシって呼んでたんだよね」

だけど、友人がねぇ と言いながら、掌よりも小さな箱をきゅっと指で操作すると、城島の目の前をふわふわと飛んでいたそれがトムの掌の中に舞い戻ってくる。

「ムシ嫌いでさ、これをムシって呼ぶなら絶対に使わないって、泣き叫ぶもんだから」

「で、トリなわけね」

あ~ と辺りを見回した後、山口の前に立つ男の姿に、きょとんと目をしばたかせると、慌てたように、もとの位置、山口と壁の隙間に滑り込もうと城島は、ぐいぐいと頭を押し付けた。

「いてぇって」

仕方ねぇなあ、そう、前へ歩いた一歩分の隙間に入り込んだ城島が、きょとりと小首を傾ぐようにしてトムを見上げた。

「随分可愛いけど、坂本君の子?」

んなわけねぇだろうが、と苦笑まじりの声をBGMに視線の高さを合わせるようにして座り込むと、こんにちわ、とトムはにこりと笑いかけた。

「お名前は?」

「ぼく?」

「おい」

トムの首根っこを掴もうとした山口に、城島は不思議そうな眼を向けたが

「シゲちゃん言うの」

次の瞬間には、恥ずかしそうに頬を染めながら、にこぉと笑う。

「シゲ君って言うんだ、お年はいくつ?」

「こんだけ」

山口が止める間もなく、差し出された3本の指と、な、と見上げて来た小さな顔に、山口はこりと顳かみを掻いた。

 

この幼子はあまりに聡すぎる。

年端もゆかぬ、そう、本来ならば1歳を超えたかどうかの赤子のはずなのに、周囲の表情を読み取り、求められた答えを返そうとするこの子は、年よりも体よりも、大人になる事を求められているのだ。ふと、そこまで考えて,山口は眉を顰めた。

抱き上げようとするトムの腕から、逃れるように足にすり寄って来た城島の姿に。

「もう、いいだろ」

ほら、とトムの視界から隠すように抱き上げると、そのまま城島の顔を自分の肩口に押し付けるようにして、腕の中に閉じ込めてしまう。

「なあ、ムシさんは?」

「あれは、ムシじゃなくてトリなんだってさ」

だから、ムシはおしまい、ね、と額をこつりと当てると、紅いグミのような唇がきゅぅと尖り、ん~んと頭を振りながら、山口の首に両腕を回し、すがりつくようにして顔を隠してしまう。その所作は、あまりにいとけなく、山口は、うん、と小さく頷きながら、その柔らかなお尻をとんと叩いた。

「これ気に入ったの?」

「トム?」

柔らかすぎる笑みを頬に浮かべ、ムシを仕舞った逆のポケットから小さな掌に乗る程のサイズのスチール製のケースを取り出した。

「なん?」

小首を傾げ、両腕を山口の肩に突っ張って、城島の目の高さまであげられた掌に、きょとりと眼を瞬かせた。

「あげる」

カチリ。小さな音とともにぱくりと開いた箱の中、グレーのクッション材の上に大切に置かれているのは、先刻まで城島の目の前を、ちちちっと飛んでいた小さな塊と同形状のもの。その隣には、小さなキューブ型のものが同じように仕舞われている。

「お前な、それで,俺らの回りを調べる気じゃないだろうな」

冗談じゃない と、山口は、おずおずと伸びた手から、トムの手を遠ざけるように体を捩った。

「心配ないって、これは,まだ、定義付けしてない新品だから」

情報は、僕のところにはこないよ、とからりと笑うと、仏頂面の山口を気にする風もなく、はい、と城島の掌にそれを置いた。途端に、その重さに大きく揺れた手を山口の掌が下から覆うように包み込む。

「信じらんねぇ」

世界各国の諜報機関が、喉から手が出る程に欲しいと望んでいるであろう代物だ。

「それ自体は、ただであげても問題ないからね」

「どういう事だよ」

ん? と人差し指をおとがいに当てて、軽く小首を傾ぎながら、それはさ、と銀色に光る箱を指差した。

「情報収集するだけの集約機、ま、原材料費は、まあまあ掛かってるけど、そこらへんのコンピューター程度なもんなわけ」

それより重要なのはね、と続く言葉に、それでも大概なんだがな と喉の奥で音になり損ねた言葉を苦笑に変える。

「暗号化されて集約された情報をデコードするソフトとシステムの方なわけよ」

「ちなみに、それはどれくらいするんだ?」

そだね~ と天井を見回しながら、んっとも一度小首を傾げて。

「セスナ2~3台ぐらいかな」

「セットで?」

「セット+一応使用方法説明付き、アフターケアは別料金」

良心的でしょ、とのど元を両手で抑えて、軽く瞼を伏せながらも、当然のような笑みを浮かべた。

「あ~ つまりそれがないと、こいつの本来の役には立たないってことだな」

「そ、ま、ちょっと高価な玩具ってぐらいかな」

羽根を仕舞っているために、完全な球体に戻っているトリを指で突いている城島を床におろすと、その目の前にトリをそっとおろしてやる。

「けどさ、それぐらいなら買いたいって奴もごまんといるんじゃねぇの」

特に悪どい系 と言いながらも、山口はトリの底部についている針の先ほどの小さなスイッチを押してやる。途端に、チチチと小さな羽音をたてながら飛び回りはじめたトリの姿に、城島は、わあ、と歓声をあげるとたどたどしい足取りでそのあとを追い掛ける。

「確かにね、問合せは引きも切らないけど」

「相手は選ぶわけね」

当然、と口角をきゅっとあげるようにして笑みを浮かべた後、トムは箱の中に取り残されたもう一つの存在を取り上げ、両手の人差し指でその両脇を軽く押した。

きょときょとと不思議そうに瞬きを繰り返す琥珀の虹彩の目の前でゆっくりと音もなく開いたそこにあるのは、モニタが一つ。

「シゲ君」

「ん?」

指をこうして、言われたままに城島は指先をそのモニタに押し付けた。

途端に光の筋が指先を包むように走り抜け、箱だったものは小さな起動音をたてる。

「これで、このトリの主人はシゲ君だよ」

「そいつの使い方は教えてくれねぇの?」

ちちちと城島の回りを飛び回るトリは、可愛くはあるが、闇雲に飛んでいるようにしか見えない。やがて、距離を置くように周回を始めたそれに精一杯手を伸ばそうとする城島の体を床に戻した。

「アフターケアは別料金」

「あっそ」

役に立たない玩具が増えただけか、と喉の奥で毒づいた山口にトムは、一冊の小さな冊子を手渡した。

「いつか、彼に渡したげなよ」

「何これ」

ぱらぱらと捲ったそこにあるのは、異次元の言葉がひたすら羅列している。時折、言葉の狭間に日本語があるのだが、そこだけ拾ってもわけがわからない。

「ほんっとに無邪気だよね」

覚束ない足取りで、両手を天に広げ走り回る姿に、トムは柔らかく眼を細めた。

 

世界のすべてがその掌の中にあるのだと、何の疑いもなく信じられる短き時間の中に息づいている柔らかな生。

その手が届かない世界がある等と思いも寄らない夢の子供。

「守ったげなよ」

「え?」

未だ、ページを捲っていた山口が言葉を捉え損ね、弾かれたように顔を上げる。

「シゲ君さ」

あの子が新しいマルタイなんだろ そう続いた言葉に、ああっと吃りながらも頷いた。

「でもなんで」

「一週間も事務所空けてさ、帰って来たかと思ったら、閉める準備でしょ」

その上に、あの子供 とにまりと口角をあげる。

「あれは、勝手についてきたんだよ」

気がついてたら、一緒に乗ってたんだよな、そうぼやいてはみたものの、振り返って手を振る城島に、自然溢れる笑みと振りかえしてしてしまう掌。ほだされたのか、それとも、あの子供があの人だからなのか、山口自身、未だわからないのだけれど。

 

じじっと小さな振動音に、やべっと顔を顰めたトムが、胸ポケットから携帯電話を取り出した。

途端に明滅を繰り返す光の渦に、まじやばいわ と顔を顰めた。

「俺、そろそろ帰るわ」

呼び出しが掛かったらしいその様子に山口も、そうか、と自分の膝をぱしんと叩いて立ち上がった。

「じ…しげ、俺らもそろそろ戻るか?」

トムの前では博士とも呼べず、ましてや、彼は当代随一の情報屋だ。城島等と唇に乗せれば、どこから彼の素性がばれるかわかりはしないと、呼び慣れない呼称に僅かな照れを覚えながら、山口は、小さなマルタイに声を掛けた。

それに呼応するように振り返るのは、ほんの少し驚いたような表情とふうわりと白い花が咲きこぼれるような嬉し気な笑み。

「かえるん?」

「そろそろな」

そう、もう戻らないと長瀬が設定した自動操縦でヘリが飛立ってしまい、帰りの足をなくしてしまう時間だ。

「いっしょやったら帰る」

躊躇う事なく差し出された手の温もりに、山口は、一緒だよと口角を緩めた。

 

 

 

もう、この事務所に戻る事はない。

そして、と扉を開けて、城島を抱き上げた山口が出るのを待っている男と会う事もないのかもしれない。

「jiomhsay」

何それ、と笑ったトムに、ああ、まあね、と呟いて。

「なあ、ここ、後始末頼んで良いかな」

「坂本君?」

ぴっと目の前に飛んで来た小さなチップを両手で受け止めたトムが驚いたように山口を振り返った。

「あんたなら信頼できるからさ」

情報屋を生業にしながらも、この男は、選ぶのだ。売るべき『情報』と『買手』を。

だから、と続いた言葉に、トムは、どこか面映気に頬を震わせると、了解 と受け取ったチップを軽く振ってみせた。

「それぐらいじゃ、報酬変わりになるかどかわかんないけどさ」

そう言って、鈍色の鍵を手渡した。認証設定を変えていない今、事務所に入ることができる唯一の鍵だ。

「元気でな、トム」

長い間、サンキュな と小さく笑う。

名を変え、住いを変えての15年。

振り返ってみれば、親の次に長い間、共に時を過ごした唯一の相手だったのかもしれない。

だが、もう、この男と会う事はない。腕の中きゅっと丸くなっている子供が大人になるまで、10年弱。山口は、あの屋敷を出る事はないだろう。全ての外界から閉ざされたジオラマのような世界に、自分は飛び込むのだ。

「長野」

「え?」

「今度会ったら、長野って、呼んでよ」

 

とんっと軽やかな足取りで、古びた階段を飛び越え、たんっと飛び降りた先は既に山口の手の届かぬ遠い距離。

 

「茂くんの事、守ったげなよ。彼の目の前に広がる未来と過去の彼から、今の彼自身を」

「おい、お前」

「じゃあ、元気でね。山口君」

大きく、頭上に円を描くように振り回された掌に、やられた と山口は顔を顰めた。

何を知っているのかと、問いつめてもあの男はけして語るまい。そんな男だからこそ、山口は信頼したのだから。

 

「しゃねぇなあ」

あいつらにバレねぇようにしないとな、と軽く背を伸ばすと、山口はぱたりと自分の過去の扉を閉じた。

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