澄み渡る空、というもを見たのは初めてかもしれない。
人が大地を捨てて、空を望んだのはいつの事だったろうか。
だが、どこまでもどんよりと曇った青と呼ぶには烏滸がましいほどに、くすみを帯びた鈍色の空は、人が願った世界の成れの果て。
結局は、大地の温もりを求め、鮮やかな草木の色を願い、今再び、彼らは、空中都市から降りたいと祈る。
「仕方ねぇよなあ」
人間って生き物はさ、と山口は、大きく切り取られた目の前の青を見つめ、その遥か下に茫洋と浮かぶ掠れた雲の世界に眼を細めた。
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「だからさ、事務所引き払って来ねぇとなんねぇの」
わかる? と目の前に山と積まれたパンをぷしりとひきちぎりながら、山口は、目の前で、でもぉ とへしょりと眉を顰めたマッド・サイエンティストの異名を持つ科学者のやけに幼めいたその表情に、あのなあ とぼりぼりと頬を掻いた。
「大体さ、俺、こんなに長居するつもりなかったから、なんの準備もして来てないわけ」
わかる?着の身着のまま、と広げた両腕の先、指の途中まで掛かった上着は、その長さに反して、どこか張りつめた印象を与えている。
「必要なモンとりに帰りたいだけなんだけどなあ」
頼むよ、とパンと音を立てるようにして顔の前で両手を合わせながら、自分よりも一つ分高い位置にある男の顔を細めを開けてちらりと見遣る。
「でもぉ、今日から、太一君とマボ、二人とも出かけて居ないんすよ」
ぐっさん、行っちゃったら、俺と博士二人だけになっちゃうじゃないですか、と長瀬の隣、幼児用の支えのついた高い椅子に座り、プラスチックの柄のスプーンで柔らかなオムレツを食べている幼子は、二人の会話の意味を捉えられていないのか、きょとんとした表情で、自分を見下ろしている長瀬を見上げた。
「二人だけって、お前さ」
「だって、太一君とマボ、二人一緒に出かけちゃうなんて、久しぶりなんすよ。しかも、一週間なんて」
俺たちの飯どうすんですか、 と情けなさそうな表情で、力強く拳を握りしめた長瀬に、山口は苦笑を浮かべた。
「俺だって飯のしたくなんてできねぇよ」
まして、子供用の食事等、と料理人の化しているもう一人の博士号を取得している男に、二人の事頼むね、と言われた時に、文句を言ったのは自分も同じだ。だが、そんなことは百も承知とばかりに、見せられた冷蔵庫と冷凍庫の中には、きちんと調理された料理が所狭しと並んでいたのだ。
「時間になったら、温めて出すだけだぞ」
これも、と指差した先に並んでいる、城島用の皿には、卵一個分のオムレツとミルク粥。山口と長瀬の前に置かれた皿には、ボイルされたソーセージが2本とサニーサイドエッグと山と積まれたクロワッサン。
珈琲ぐらいは大丈夫だよね、と言いつつも、今日一日分は十分に思えるぐらいたっぷりと沸かした珈琲が備え付けのポットを満たしていた。
「俺、ダメなんすよ」
腹が減ったら、なんでもそこらへんのもの片っ端から、食っちゃうし、一度、作業に入っちゃうと時間感覚も何もなくなっちゃうんです。そう、軽く突き出した唇の端をぐいと歪めると、だから、と言葉を濁す。
「お前さ、今までだって、あいつら居なかった事あったんだろ?そん時どうしてたんだよ」
今でさえ、と見た城島は、あぐりと食べ損なったプチトマトを両手で掴み、あ〜んと口を開いていたが、山口の視線に気がついたのか、嬉し気に両手を振り回した。途端に音もなく、床の上を転がって行く紅い色。
「博士、乳飲み子だったんじゃないのか?」
「だって」
弾かれたように顔を上げた長瀬が、一瞬、傍らの城島を見下ろし、それからゆっくりと頭を振った。
「俺、一人じゃなかったんすよ」
ずっと、とその言葉に、ああ、そうか と山口はがりりと髪を掻き回した。
この空間には、もう一人、居たのだ。今の山口のように、まだ、いとけなく一人で何も出来ない幼子を守り慈しむ手の持ち主が。しかし、今は、とため息をつく。
「わかった、わかったよ」
「だったら」
ぱぁっと明るくなった表情に、山口は思わず苦笑を零したが。
「昼飯の準備はここにしておいてやる」
「でも」
「で、夕飯までには帰ってくる」
珈琲を最後の一滴まで飲み干すと、そのままかたりと椅子から立ち上がった。
後20分もすれば、目的地に着陸か、と僅かに高度が低くなったヘリの高度計を見て、軽く伸びをする。
結局、え〜だの、でもぉ だの拗ねた子供みたいな態度をとる長瀬を言いくるめ、ヘリの自動操縦の設定をしてもらうまで、1時間。
「このボタンを押したら、帰路に設定が変わるようにしましたから」
そう、にぱっと笑いながら、長瀬が指差した黄色いボタン、ココ と大きくマジックで書かれたそれに、ったくさ と小さく笑う。国分たちには、極力ばれないように行きたかったのだけれど、仕方がないっちゃあ、仕方ないよな。
「日が暮れたらそれでも危険っすから、4時までには出発してください」
そしたら、一緒に夕飯食えますね、そう嬉し気に笑った表情は、頭脳集団の一人とは思えない邪気のなさだ。
「とりあえず、飯でも食っとくか」
操縦をしないとはいえ、一応、運転席に腰を下ろしていた山口は、ぎりと腰をねじるようにして、後部座席に放り込んでおいた鞄をとろうと後ろを振り返った。
と、座席と座席の細い、人一人入れるだろうか? と問いたくなる細く小さな空間に見える小さな光のような眼をみつけ、山口は、ぐっと息を飲み込んだ。
「なんで」
「つや」
小さな紅葉のような手を思いっきり伸ばし、サンドイッチの入った袋をとるために差し出した手をきゅっと握りしめて来たのは
「博士、あなた」
絶句、としか言いようのない状況だ。
そもそも、山口が国分に、あの家に連れて行かれたのは、目の前で、ほんの少しだけ、唇を尖らせながら上目遣いに見上げて来ている幼子を守るためだ。なのに、よりにもよって何故、その当人がここにいるのかと。
「あんも、いた」
「ずっとここにいたんだ?」
こっくりと頷きながら、慌てたように抱き上げられた腕の中、んん、と伸びをする様はいとけなくも愛らしいが、それに頬を緩めている場合ではない。
「どうしてここにいるのかな?」
膝の上に抱きおろし、いぃ〜 と足をぱたぱたとする城島の頭の上にとんと掌を置いた。
「あっこからのったん」
指差す先は、普通にヘリコプターの入り口だ。そのくせ身を隠していた賢しさを、この幼子は既に身に付けているのかと。
「勝手に外出たらだめだって、言われてるだろ」
「つや、おんもん」
とりあえず無線のスイッチをぱちんとあげて、最大ボリュームで受信側に音が届くようにする。
「ながせ〜」
その音響に、城島がびくっと体を震わせた後、ぎゅうと山口の腹に顔を押し付けてから、2分。
がたがたという音と共に、ぐっさ〜ん と情けなさそうな声が室内にひびい板。
「よぉ」
小さなモニターに写るのは、声に負けない程に情けない表情の男前。
「これ」
その長瀬に良く見えるようにと山口は、カメラに背を向けたままの城島の背をひょいひょいとつっついた。
『博士、いた〜』
「お前ね、カメラには手、入らないから」
次の瞬間、長瀬の掌いっぱいになった画面にため息をつくと、未だ長瀬から顔を隠し続ける城島を反転するように抱き直す。
『帰って来てくださいよ〜』
すっげぇ心配したんすよ、俺 と朝見たよりも情けなさ倍増の長瀬は少し悲壮感さえも漂ってはいたが。
「無理、既に着地態勢」
『だったら、ついたら速攻、リターンで』
「んな、めんどくさい事できるかよ」
また、こっちまで出てくんのなんてさ、と静かな着地音とともに、頭上で止まったらしい羽音に山口は、ついた、と外を指差した。
『でもぉ』
「心配すんな、仕方がないから、この人も連れてくわ」
腕時計を確認すると、昼を少し回ったあたりだ。
「こいつが自動運転始める前には、帰るようにするから」
ぐっさ〜ん と反泣きの長瀬に、ばいばい、といとも愛らしく手を振る城島を肩に座らせて、山口は、一週間ぶりの古巣に足を下ろした。