「ええ、はい、無事におっしゃる通りに終わりました。…いえいえ、それはもう。ええ、ご安心ください。では報酬はいつもの所に」
どこか薄暗い懐古的な空気を漂わせる室内の中、受話器を持ったまま、ガタイの良い男は椅子がぎしりと悲鳴を上げるのにも構わず、机にかけた足をぐらりと揺らす。
ペーパーレスが日常と化した昨今には珍しく、古びたアルミ製の机の上に積み上げられたファイルに挟まれた黄ばみを帯びた書類の山の中、モニタの電源が入れられる事のない電話から微かに漏れ聞える声に、男は薄く笑みを浮かべる。
ああ、鬱陶しい依頼人だったなと。
「ええ、折角なのですが、顔を見せたらやりにくい仕事もあるものでね」
ご心配なく、 手が後ろに回るような後ろ暗い過去はありませんから と言葉を返しながらも左手が一つキーを押すと空中に浮かんだモニタには電話の向うの情報が羅列をする。
まあ、時折、アンタのように真っ黒な背景を背負った人間の依頼を受ける事になってもね とは心の奥で呟かれるは誰にも届かぬ僅かな雑言。
「はい、それでは、また」
どこか相手の優越感をくすぐるように媚た口調を崩す事なく叩ききった受話器が、がしゃりと壊れそうな音をたてたことさえも気にせずに、傍らのエンターキーを押した。
★★★★★
「あの〜、すいません」
とても静な低い声が雑多な事務所に響き渡ったのは、画面の情報が消えた瞬間だったか。
鬱陶しい程おしゃべりな電話の相手にらしくもなく、苛ついていたからか と、その存在に気付けなかった男は、舌打ちをしながら声のした方をゆっくりと振返った。
己の失態を転換するかのような鋭い視線の先、薄く開いた扉の向う側から、短髪黒髪の、男よりも多少年下に見える青年が顔をひょこりと覗きこんでいる。
「ここ、万屋の神谷さんの事務所…ですよね」
「神谷?」
男は青年が確かめるように口にしたその名に、逡巡する間もなくそんな名前は知らねえなあと僅かに眦を釣り上げる。
「え?違います?」
だが、男の不機嫌な表情にも気が付かぬ振りで、っかしいなあ と青年は大きな瞳をきゅっと見開くとSDメモリカードサイズのデジタル手帳を見下ろしながら態とらしい程の仕草で小首を傾げた。
「ところで、あんた、どちらさん?」
「ああ、失礼しました。僕は国分太一といいます」
柔らかいグレーのニットの上着を羽織った青年は、男の言葉にするりと事務所内に滑り込み、軽く会釈をしてみせた。差し出した手を握り返す男の掌がないことは気にならなかったのか、行き場を失った手を来にすることなくにこりと浮かぶ空々しい笑み。
「国分?」
知らない名前だね とじろりと男は国分を無遠慮なまでの視線で値踏みするかのように頭の先から足先まで一瞥する。
「悪いんだけどさ、俺、セントラルに知り合いはいないんだわ」
座れ とも言う前から、勝っ手にソファに座り込んだ失礼極まりない男のどこか人なつっこい風貌に、軽く顔を顰めたものの、男は出て行けと怒鳴る事もせず、珈琲をカップに注ぐとその前にどんと置いた。
「すいませんね」
受けとったカップに僅かに手を添えると、国分と名乗った男は愛想良い笑みを頬に浮かべる。
「それに悪いんだけど、俺、神谷って名前じゃないんだよね」
誰に気いたか知らないけど、表札見なかった?坂本ってなってたでしょ? そう言いながら足を組むと男は自分用のマグから新たに注いだ珈琲を口に含んだ。
「ああ、今はそうみたいですね、でも、5年前は神谷って名前だったでしょ?」
違いましたっけ?と事もなげに言葉を綴る男に坂本と名乗った男は僅かに眉を上げると、もう一度飄々とした表情の男をじろりと睨み付けた。
「それに、僕、セントラルから来たって言いましたっけ?」
「あんたの」
え、と返された言葉に、坂本はそれ と指し示すように顎をしゃくった。
「そのエンブレム、セントラル=中央都市のもんだろ?」
しかも、随分とエリートのもんだ と溜め息に近い声が零れる。
「へ〜、流石は、何でも屋さんだ、よくご存じですよね」
そう、にんまりと言う表現がぴったりとくる表情を浮かべると坂本に倣うように国分も珈琲を一口飲む。
「ここの町の人は、誰も僕がセントラルから来たなんて気付きもしませんでしたよ」
へえ、えらい遠いとこからお越しで、とセントラルから来たのだと告げた自分を驚いた表情で案内してくれたのだと、眦を細めた。
「で?そのセントラルのお偉いさんがこんな辺鄙なところまでその『神谷』とかいう男を捜しに来た理由って言うのは?」
良ければ捜してやるよ、その男、と坂本は両肘を足に預けると僅かに前に身を乗り出した。もちろんお足はちゃんと貰うけどね と親指と人さし指が円を描く。
「ああ、そうだ、忘れるとこだった。貴方、情報屋から失せ者探しの他にボディーガードとかも確か生業にしてましたよね」
まあ、その腕を見れば一目瞭然だけどと言う国分に、
「俺はね」
と冷たく言い放つ。
「それでね、神谷さ」
「坂本」
間髪入れずに否定された名に国分は僅かに眦を上げるがすぐさま、口角を緩めると膝の上で手を組んだ。
「それで、その、坂本さんにお願いしたいのは、V.I.Pのボディーガードなんだけど」
「V.I.Pだ?」
捜してたのは神谷だろうが と一瞬視線を強くしたが、坂本はそれ以上口を出すつもりはないらしく、国分の言葉を重ねるように繰り返した。
坂本のいかにも鬱陶しいと言わんばかりの表情に、今度は国分が一層人なつこい表情を浮かべてずいと前へと身を乗り出した。
「頼めます?」
「わざわざこんな田舎のなんでも屋に頼まなくても、そっちにはいくらでもプロがいるだろうが」
物騒な世の中だ。そんな生業の奴なら、掃いて捨てるほどいるんだろ と言い放つと坂本は話は終わりと言わんばかりに立ちあがった。
「ちょっと訳ありでね、なまじのSPには頼めない」
セントラルの人間は、どこの息が掛かってるかわからないからね。だからさ と上目遣いの表情は可愛らしいと表現しても違和感のないものだったが、坂本は気にもせずにうすぼんやりと曇った硝子の向う側へと視線を逸らすと、片手でどんと書類を叩いた。
「話だけでも聞いてくれない?」
だが、無言の拒否にもめげる事のない声に、冗談じゃねえよ と吐き出されたのは苦々しい迄の声。
「なら、なおさらお断りだ。んなもん聞いちまったら何に巻き込まれるかわかったもんじゃねえ」
「それならご心配なく、今のところ全てが秘密裏に行われてる事なんでね。アンタがこの先一切この件に関わらないって約束してくれたらその点は十分に考慮させてもらうから」
そう言うと、にこりと微笑んだ。
眼下に広がる新緑の海に、坂本はある種酩酊にも似た感嘆を覚える。未だ、これほどの緑の地が残る場所があったのだと。
「すごいでしょ、これが今の青木ヶ原樹海だよ」
迷い込んだら計器が狂い、逃れる術を持たぬ死の森と呼ばれたかつての森。
「この森も後10年も持たないんじゃないかな」
硬質硝子に両手をついて覗き込む男に倣うように、眼下を見下ろした国分の呟きは頭上で激しい音をたてる羽根に吸い込まれる。
「で?」
ヘッドフォン越しに交わされる会話は、これほど近くに居ても随分と意思の疎通を妨げる。
「何?」
「こんな事までして連れて行っても、俺、アンタの依頼受ける気なんてさらさらねえよ」
「それはさ、マルタイ見てから決めてくれたらいいって、先刻から何度も言ってるだろ」
大概しつこいね、そう返された言葉に苦笑を零し、それでもヘリに乗ってから1時間が過ぎた今、無理遣り宥めすかされて渋々ここまでついてきた男は、漸く諦めたように肩を竦める仕草を一つすると、滅多にできぬ体験と崩れかけた富士を見下ろした。
「でさ、マルタイってそんなに美人な訳?」
マルタイを見れば気が変わるってあんた信じてんだろ と短い会話を交わしてほんの数分後、坂本はヘリから一足先に降りた国分の背に声を掛けた。
「美人じゃないかもしれないけど、まあ、可愛い事は確かかな」
僅かに思案するように小首を傾げたものの、それは一応保証するよ と振返る事なく片手を挙げる。
「可愛いねえ、健康的な可愛い子だったら、気ぐらい変わるかもしれないけどさ」
「健康も健康、ったく。こっちがついていけないぐらいに走り回ってるよ」
「ちょっと、待て走り回ってるって」
だから言ったでしょ 焦ったような声とともに追いついてきた男に悪戯が成功したような視線をくれる。
「受けるか受けないかは、あんたの自由」
顔を見てやっぱり好みじゃないからどうでもいいって思ったら、そのまんまヘリに乗ってくれていいからさ、そんな会話が交わされる間にも、背後ではエンジン音が途切れ、ゆっくりと回転が落ちていく行くヘリの羽根。
二人を包み込むように吹き上げる砂がゆっくりと重力に従い舞い降り始めた頃、国分の手が黒檀を思わせる深い色合いをした木製の扉のドアのノブをゆっくりと回した。
ひゅう、思わず坂本が口笛を吹く。
まるで坂本を焦らすかのようにゆっくりと開かれた扉の向う側に広がる空間は、かれこれ数百年ぐらい前に、懐古主義なお偉いさんによって建てられたように見える深い、黒に近い温かな焦げ茶色とオフホワイトの壁によって設えられた広い玄関とそれに連なる優雅なこちらも豪奢にして繊細な迄の彫が刻まれた手摺に彩られた螺旋階段。
森が消え、林が失われた現在、『木製』と言う言葉さえもがレアな存在となったこのご時世に、よくもまあこれほどまでに木造建築を模した屋敷が造られたものだ感嘆する。尤も、指先で弾いた壁の奥、どこか軽い音を返すそれは一枚表皮を剥ぎ取れば、何が残るかさえもわからいフェイクの世界なのかもしれないが。それでも、これを作ったものはよっぽどの物好きか、それとも莫迦かと坂本は肩を竦めてみせながらも、滅多と見る事が出来ない広々とした空間に、物珍しさも手伝って、一歩、二歩と招かれるように高い天井を見上げながら玄関の中をぐるりと見回した。
「ほら、駄目でしょ。一人で玄関に行ったら」
そんな坂本をどこか冷ややかなねめつけるような視線で見る国分と、それをすっぱりと黙殺した坂本の頭上から聞えたのは、まだ年若い男の声と
「やって、たいちみえたもん」
やから、ひとりちゃうもん と言い返す拗ねたような、どこか辿々しさが残る幼い声だった。
「お客さんが一緒かもしれないから今日は太一君が帰ってきてても駄目」
やっと捕まえた と僅かに甲高い声が響くのはぐるりと見上げる螺旋の上か。
「おばちゃん?」
男の言葉に弾んだ声に返されるのは、ごめんね とどこか困惑を隠せないもの。
「違うよ、おばちゃんはもうここには来ないっていったでしょ」
やや〜 とそれに答える駄々を捏ねるような僅かな泣き声。
「いいよ、松岡、それ離して」
「太一君、お帰り」
お疲れ様、と螺旋の階段の手摺からひょいと覗き込んだ細面の顔が、国分の隣に立つ坂本を見下ろして軽く口笛を吹いた。
「流石、もう見つかったんだ」
「当然だろ」
交わす言葉の合間にも、空に放たれた軽い足音を響かせた小さな影が駆け降りて来るのが林立する手摺の影からちらちらと垣間見える。
「おか〜り〜、たいちぃ」
間延びしたどこか舌ったらずな口調と共に最後の一段を勢い良く飛び降りるとそのままの勢いを保ったまま、鞠が跳ねるように飛びついてくる小さな肢体。
それを見て確かに健康的な可愛子ちゃんではあるけどね、と坂本が苦笑を浮かべた。
目の前の子供の性別を抜きにしても、流石にここまで年齢が低いのは圏外でしょう と。
そんな坂本の心情を知ってか知らずか、ただいま、遅くなったね と掛ける国分の声は先刻までに反し、とても優しいものだった。
「でもね、漸く見つけたよ。山口君を」
だが、次の言葉に、マルタイを確認したら帰っても良い、その言葉通り、踵を返しかけた男の足がぴたりと止まる。
「あんた、今、なんつった?」
「本当は、アナタが生まれる前に見つけたかったんだけどね」
そう、子供に語り続ける男の言葉に、『山口』と呼ばれた男、坂本と名乗ったはずの男の顔が般若のように険しく歪む。だが、ぎりり と睨み付けた先にあるのは、ん? と細められた眼に、浮かぶは獲物を捕らえた蜘蛛の糸。
「アンタを見つけて来たよって報告しただけさ、ヤマグチ君」
ね、城島博士と腕の中の子供、否、未だ幼児と言った方が正しい幼子をあやすようにその名を紡ぐ。
「じょうしま…はかせ?」
国分の腕の中、柔らかい猫毛の子供の頭が男の声に反応したかのようにもぞりと動く。さらりと頬に落ちる髪の毛をそのままに、小さな指を銜えた子供が男を捕えて、琥珀の瞳が蕾が咲き染めるようにほとりと綻んだ。
「やあぐち…いうの?」
途端に視界に広がるは果てをを知らぬ琥珀の光。
「ぼくなあ、じょーしましげるいうねん」
押し開いた扉の向う側で、柔らかな暖色の光を背に振返ったのは、学者全としたお偉方を思い浮かべていた山口の想像を簡単に裏切る、まだ、三十路になったかならぬかの年若い男だった。
「君が山口君?」
黒縁に包まれた分厚い硝子の奥で、淡い朝の露を浮かべたような虹彩が呆然と彼を見つめる男をくるりと映し込みながら、ほとりと綻んだ。
「はじめまして」
差し出されたのは自分のものよりも薄く、だがごつりとした感触の男の掌。
「私が城島です」
無意識のまま差し出された手を握り返した山口の、何処か呆然とした表情に、城島は穏やかな微笑を浮かべた。