TOKIO

始まり2

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ミルクをたっぷりと溶かした二杯目の珈琲で軽く舌を湿すと、さてと言わんばかりに両手を擦りながら、まず坂本が口火を切った。

「まずはさ、あの子供、なんで西の方の言葉な訳?」

その思いもよらなかった質問に、人よりは大きいだろう虹彩がぎょろりと坂本を正面から見据えると、思わずへの字に歪んだらしい口元が、は?という音を返した。

「だからさ、あんたら、完全標準語じゃん。なのにあの子供だけが違うだろ。なんかそれが先刻気になってさ」

それに、セントラルであれは珍しいでしょう と続く言葉に、

「ああ、そういうことですか」

と、漸く合点がいったように微かに首肯した国分は、ちらりと背後の扉を振り返った。

「子供の基本的な言語中枢は3歳児までに出来上がるというのをご存じでした?」

そのままゆったりと坂本への戻された視線の強さを僅かに緩めると国分は膝の上に組んだ手のひらに頬を預ける。

「まあ、これには反対意見も、まだ、少なくはないんですけどね」

否 という坂本の返事を待たずして、そのままゆったりとしたテンポのまま言葉を続ける。

「ちょうどね、その期間、彼の世話をしていた女性が一人いましてね」

「それが『おばちゃん』ってわけか」

その言葉に、国分はあからさまに眉を顰め、それから、ああ、と軽く頭を振る。

「博士か」

誰が教えたわけでもないのに、何故 という問いはなく、納得したような声に、先刻ね、と小さく笑う。

「いくらあの子供が天才だとしても、あの幼さだ。あれだけしっかりインプットされているならば随分と近しい存在のはずなのに、あの、松岡だっけ?が言ってたじゃん」

おばちゃんはもうここには来ない ってね、とにぃと弧を描く唇に、国分は両手を軽くあげてみせた。

「流石は情報屋ですね」

他愛もない、一見自分達とは全く関係なくみえる僅かな会話を聞き逃すことなく、幾重にも重ねられた事実の隙間によく研がれたナイフのように突き刺してくると。

「確かに、アナタのおっしゃる通り、彼の言うところの『おばちゃん』が博士の面倒を見ていましたよ」

どれだけあれが面倒見が良いと言ってもね、とぐるりと回る瞳子に浮かぶ苦笑に、賛成するかのように坂本は軽く頷いてみせた。

「で、それが西の訛りの持ち主だったって訳か」

「職場では、一切使ってなかったからね」

迂闊だった とどこか自嘲げな口調に、坂本はわずかに眼を細めた。『おばちゃん』は彼の職場の人間だったわけね と。

「でもさあ、なんで、『おばちゃん』が必要だったわけ?」

「誰にでも、『母親』は必要でしょ?」

坂本さんにも昔はそんな存在がいたと思いますけど? と、器用に方眉を歪めながら、さも当然のように返された言葉に、坂本は微かに口端をあげてみせただけだった。

「けど、あんたらの言うことを鵜呑みにしたなら、彼はクローニングなんだろ?」

ならば、胎児からそのままある程度の年齢へと肉体が育つまでの間、彼は玻璃の檻の中で育てられるはずだろ? と坂本は軽く眇めた眼を国分へと上目遣いで問いと共に投げかけた。

かつて、まだ、『クローニング』が完全に廃止される前は、そうだったはずだと。

「確かに、かつての『クローニング』はそうでしたね」

 

 

 

選ばれた女性から抽出された受精卵と、優秀とされる男性から種馬のように有無をいわさず搾取された精子。

それらによって、生命を生み出すというよりも、研究の成果だけを求める科学者たちの手によって、文字どおり創りあげられた子供と言う名の実験体は泡立つ硝子管の中によって、その成長過程を具に観察されるのだ。そう、その子供の性がXX型であろうとも、XY型であろうとも、彼等が『人』としての扱いを受けることはなく、時に成人してさえも、彼等は硝子の中で育つものもいるのだ。

 

 

 

「でも」

と国分はゆったりとした仕草で足を組むと軽くおとがいに人さし指をあて、何かを考えるように僅かに小首を傾ぐ。

「ねえ、坂本さん」

そのまま途切れた言葉とつと上げられた手に、床を擦るような軽い音共に、目の前にすっと差し出されたのは湯気が立ち昇る硝子のティー・ポット。

「珈琲」

その横柄なまでの国分の言葉に、光が透き通るような明るい茶色が目の前でほろりと揺れて、ふと、坂本の脳裡を過ったのは先刻の邪気のない光彩。

「あれ、本物だから飲み過ぎは胃に良くないよ」

緩やかに下向きの弧を描いた眉の下、困ったような笑みを浮かべているのは、先ほど松岡と名乗った面倒見の良い青年だった。

「お前ね」

一旦、その言葉に、不服気に歪んだ表情だったが、有無を言わさず、新しいカップに注がれていく液体に ふんと鼻先で笑うと、そう言えば城島博士のお好きな飲み物も紅茶でしたっけ?と三日月のように奇麗なアルカイックな笑みを浮かべながら、柔らかく薫る紅茶に唇を寄せる。

「まあ、これはこれで美味いけどな」

その言葉に安堵したような笑みを口元に浮かべた松岡は、山口の前にも新しい先ほどよりも華奢なティー・カップを置くとごゆっくりと軽く会釈を一つするとそのまま何を言うでもなく、その場を辞した。ただ、一瞬だけ、何か言いたげな視線をその場に残して。

 

「こんな話をご存じですか?」

あまり飲みなれない紅茶の薫りに漂うブランデーの芳しさを嗅ぎとったのかきゅっと上がった口角に、国分は眼をゆるりと細めてみせる。

「同じ種類の同時期に生まれたマウスを二つのグループにわけるんです」

一つのグループのゲージには、時間になると自動的に餌が与えられ、もう一方のグループは時間はさほど定期的ではないけれど、人の手を介して餌を与える と右の掌と左の掌を交互に空へと向ける。

「実験の結果、規則正しく餌を与えられたマウスよりも、人の手によって与えられたマウスの方が平均的に体が大きくて長生きをした」

片眉が器用にあげられ、高く掲げられた右の掌に、へぇっと返されるのは僅かな反応。それに国分は、もう一つ と唇を歪めた。

「昔、人手の足りない孤児院があったんです」

そう、薄暗く狭い部屋に、ずらりと並べられているのは赤ん坊のベッド。

経営状態も芳しくなく、与えられるミルクの量は極僅か、そんな劣悪な環境 と。

「で?」

だが、表情一つ変えることなく軽く流すような相槌が返ってくる。

「そんな孤児院でも、一応、掃除婦が毎週やってきたんですよ」

埃一つない、ただ白い空間にずらりと並ぶのは、のぺりと無表情なまま眠り続ける小さな赤子の群れ。声を掛けることもなくその間をただもくもくと掃除を続ける掃除婦は、仕事を終えた帰り際、出入り口の一番近くに眠る赤ん坊を一瞬だけ抱きあげるのを習慣としていた。それは疲れた己を癒す行為だったのか、全ての赤子を哀れと思い、その思いの欠片をその赤子に注いでいたのかは、誰もわかりはしない。だが、

「そこに住う子供たちは、ほとんどが大人になることもできず、栄養失調で命を落としたそうですよ。ただ一人の子供を除いて」

「それが、その入り口で寝ていた赤ん坊ってことか」

「察しの良い人は好きですよ」

裏のありそうな好意だよな と向けられた笑みに坂本はカップの影でぺろりと舌を出す。

「つまりはそういうことです」

「母親代わりの誰かが必要だったってことか?」

その言葉に、かすかに首肯して

「城島博士は短命でした」

三十路に手が届くかどうかの若さで、その生を終えています と微かに俯いた表情が淡い影描き、そこに存在するのはどこか訝しいほどに切ない微笑。

「大病に掛かったという記録はないんんですけどね。ただ、脆弱な方だったというだけのようで」

「つまりは、こういうことか」

軽く舌で唇を湿した後薄く唇を開いた坂本の、国分を見上げる眦が微かにきつくなったように見えるのは気のせいだろうか。

「あの子供が城島博士のクローンと仮定すると、その体質を受け継いでいる可能性も十分ある」

ならば、人の温もりを知らず、どこかのウィルスのようにシャーレの中で後生大事に育てられたならば、恐らくあの子供は20歳までも生きられはしないだろう。

「だから、少しでもその可能性を減らそうって腹なわけだ」

「体の弱い部分まで受け継いでもらっては困りますからね。ある程度、彼の塩基配列には手は加えていますけど」

その情報に坂本は体重を両手に預けるように前のめりだった上肢を勢い良くあげる。

「それって」

「私たちも、クローン種の短命にただ手を拱いていたわけじゃないですからね」

特に、と彼の命の長さはこの日本の命の長さに比例するといって過言ではないのでね そう続けた言葉に苦さが混じる。そう、小さなティ・スプーンで僅かに落としたぐらい僅かに舌先を焼く程度のものだったが。

「そんな理由なら、別に女じゃなくてもアンタたちが抱きしめてやれば良かったんじゃねぇの?」

事実子供の世話というならば、ある程度人の手を介する必要性はない。ただ、一日一回抱きしめてやる程度ならば誰がと限定する必要ない、とどこか揶揄するような口調に国分は僅かに眉を顰めてみせたが。

「私たちはあくまでも『研究者』なんですよ」

あの子供に対して、けして、一人の個としての『情』を抱くことはない、と口元に浮かべた笑みを消すことはなかった。

「けどさ、『おばちゃん』も学者先生なんだろ?」

その言葉を聞くまでは。

「あんたが言ったんだぜ。職場では、西の訛りじゃなかったって」

ちっと軽い舌打ちは誰に向けたものか。

微かにぎろりと広がった三白眼に鋭くなった視線と小刻みな曲線を描くように歪んだ唇に、ずいぶんと年若いと思っていた面立ちに明らかに刻まれた年輪の数。それに坂本は眉を潜め、何かを考えるかのようにつと人さし指で己の唇を撫でた。

「確かに、彼女も『研究者』でしたよ」

「で?なんでその『研究者』を追い出したわけ?」

どう見てもあの子供は、まだ親の手が必要な年代だろ? とすっかりと冷めた紅茶に、口元を歪めながらも、それをゆっくりと飲み干しながら、目の前の男の表情を伺うように視線を移す。

「『研究者』の前にただの『女』でしかなかったからですよ」

ああ、『女』というよりは『母親』か と呟いた。

「それって」

「そうですよ。彼女は『研究』の一環であったはずの対象である博士を『情』与える存在として、その手を握りしめるようになってしまった」

侮蔑、と呼ぶべきか、あからさまなまでに潜められた眉とへこりと歪んだ頬、そしてどこか苛立たしげに己の腕を小刻みに叩く右の指。

「けどさ、普通に考えりゃその感情の方が自然だろ?三年も面倒見りゃ誰だって『情』の一つや二つも湧く」

ましてや、子供として最も愛らしく、向けられるのはどこまでも無垢なまでの信頼と無償の愛情なのだ。その温もりに触れて何も感じぬ方が人として欠陥があるのではないかと。

「三年?」

くくっと喉の奥で笑いを殺す男の眉月のように細められた眼の冷ややかさが静かな室内の空気をわずかに揺らした。

「そうじゃないのか?」

「さあ、どうだったかな」

でも、と一瞬伏せられた瞳が、再び柔らかさを取り戻したような色合いを浮かべると、

「でも、結局、彼女の抱いたものは、私たちには不必要な感情でしかない」

 

 

 

柔らかな丸みを帯びた頬に浮かんだ微笑、やんわりと細められた切れ長の眦に浮かぶ幾重もの皺。

腕の中の温もりに愛しげに細められた眼と舌っ足らずの言葉は、ただ、苛つきだけを齎し、その声を聞くだけで広がる不快感。

 

 

 

「しかも、彼女は博士を研究室から外へ連れ出そうとしたのでね」

このプロジェクトから外れて貰いました と告げた言葉に人の熱はない。

「約束された将来を見据えることもできず、目の前の温もりに感情を捕われるなど、どこまで愚かなのかわからないものですね」

秘密裏のプロジェクトから外れる その台詞に、だんと叩いた机の音と、僅かに空に浮いた坂本の腰に、国分は表情一つ変えることなくどうされました? と唇の端を軽くあげてみせた。

「あんた、まさか」

「まさか、何です?私たちが彼女を殺したとでも?」

違うのか? と荒げられた声にも、目の前の男はくっと喉を鳴らすような笑声をこぼし、軽く首を振っただけだった。

「ご心配なく、法に触れるような事は一切していませんから」

「どうだか」

「心外だな。言っておきますけど、嘘は一つもついてませんから」

その台詞自体が嘘くさいんだけどね、と坂本は、軽く肩を竦めながらもソファに深く座り直した。

「なら、その女博士はどこに居る訳?」

このお屋敷のどっかに閉じ込められてるのかな とぐるりと見上げた天井は懐古趣味を表したように、深い漆黒の格子によって句切られたくすんだベージュ色をしていた。

「ねえ、坂本さん、いえ、山口さん」

「あんたね」

一オクターブほどトーンの下がった言葉を張りつめた空気に似合わぬ国分の笑みが遮った。

「我々があの子供が城島博士だと言うことを何故すんなり貴方に話したと思います?」

「それは、アンタらがボディーガードとしての俺の腕が欲しかったからじゃないのか?」

国家的なトップシークレットを? と両手の人さし指が唇の前で交差する。

「それは」

気付いていた。

この男が自分を神谷と呼び、坂本だと否定した時に、少しも驚いた様子を見せなかった時から、途切れることなく感じていた違和感と脳の奥深く出鳴り続ける警鐘。そして、一見、有無を言わせず連れてこられた風を装っていた坂本だが、恐らく、本気で抵抗したならば、雑作もなく逃げられたことも分かっていた。

だが、この男は明らかに己の消してきたはずの過去を知っているのだ。そしてその過去を掌の上で転がしながら、それと同等の機密を、否、それ以上の蜜を自分の前にちらつかせていたことも。

「山口さん、もう、諦めて腹を括りませんか?」

「何の?だ」

その言葉に重なるように、控えめに室内に響いたノックの音に、坂本はぎりと唇を噛み締め、目の前の男を睨み付けた。

「何?」

「あの、夕食の支度できたんだけどさ」

遠慮がちに開かれた扉から、僅かに覗いたひょろりとした男の曇りがちな顔が国分と坂本との間を数度行き来する。

「ああ、了解、でもさ、その前に博士連れてきてくれない?」

その言葉に、松岡の足下に隠れていたらしい幼子の好奇心一杯に見開いた丸い瞳が扉の影から勢い良く飛び出してくる。

「こっちに来てくれます?博士」

はかせ と呼びかけられた子供は、躊躇うことなく軽い足音を立てながら、国分の傍らに走りよると、なあに?と小首を傾ぐ。

「先刻の質問に答えましょうか」

おいで、と伸ばした手に抗うことなく、子供らしい丸い体が跳ねるようにその膝の上によじ登ると、その琥珀のように透き通る真っすぐな瞳はそのまま目の前の坂本へと注がれる。

「私は彼女の命を奪ってはいないし、彼女と約束した地位はちゃんと準備してありますよ」

ただ、その時間を先送りにしただけです と目の前でほわりと揺れる栗色の髪をゆううるりと撫でる。

「先送り?」

「博士が大きくなって、その地位を確固たるものとするまでの時間分ですよ」

飽きることなく流れる手の温もりが心地よいのか、目の前の子供はその背を国分の薄い胸板に完全に預けたまま、あふりと小さな欠伸をすると、そのぷくりとした小さな手で眼をきゅっとこする。

「それは、何十年先のことだ?」

「ご心配なく、たかだか10年ほど眠って貰っただけですよ」

10年、それだけの時間、冷凍睡眠に入ったというならば、この一瞬ごとに目まぐるしく変わる研究という分野の彼女の未来は恐らくはないに等しい。だが、

「ちょっと待て、あんた、先刻、この子供がある程度の地位と年齢になるまでと言ったよな」

目の前の子供は、どうみても幼児と呼ぶにも抵抗がある幼さだ。

「ねぇ山口さん、この子、いくつに見えます?」

「どう見ても3〜4歳だろ」

あんたが、そう言ったんだろうが とあがった語尾に国分は頭を振ると

「それにしては言葉が辿々しいと思いません?」

常人を遥かに凌ぐ知能指数を誇る博士のクローンにしては と、今日何度目かのアルカイックな笑みを浮かべてみせた。

「この子は、生まれてまだ一年足らずなんですよ」

「まさか、成長促進剤」

それに、にこりと深くなった笑みが声にならないいらえを返す。

「けど、そんなもん使ったら」

「ええ、10年後のこの子をこんな風に抱き上げることはできないでしょうね」

人の生の3倍の速度で成長をし続けている幼い子供の擦れて赤くなった目元をきょとんと見開く、そのあどけなさがいっそ哀れなまでに稚い。

「ああ、でもご心配なく、成人ほどまで成長したら年をとる速度は遅くなっていきますから」

でなけでば、目の前の男がセントラルを引退する頃には、この子供は齢100を超える老齢となるのだ。

ただでさえ、夢を食べて生きることが許される子供の時は短いというのに、この子供は と自然に伸びた手の下で邪気のない微笑が咲き染めの花よりかけそく揺れる。

「この子供には、まだ、彼を抱きしめてやる存在が必要なんですよ」

ね、と頬に触れた指に、ほとりと嬉しげな笑顔はどこまでも無邪気で。

「でも、私たち以外に人を知らぬこの子は、驚くほどに人見知りで、恐がりなんですよ」

でも、ほら、と差し出された子供に、表情を歪めながらも思わず出した両腕にかかる確かな重み。

「あなたにはこんなにも懐いている」

博士の記憶のおかげかな そう続く、その言葉の真偽はわからなかったが、坂本の腕の中の子供は、怯えることもなく、どこか照れ臭そうな笑みを浮かべながらも、坂本の頬にその手を伸ばしている。

「そして、私たちには、唯一城島博士の事を知る貴方の存在が必要なんですよ。山口さん」

頬を滑る小さな指と首筋に押し付けられる柔らかな頬の感触は、坂本、否山口の知る博士のものではない。

だが、 真っ直ぐに見上げてくる光彩は、彼と同じどこまでも深い太古の色をたたえていた。

「俺がどんなに否定しても無駄みたいだな」

ゆったりと立ち上がった国分が、同じ目線の高さで薄い微笑を浮かべると、ついと差し出された手のひらに、山口の分厚い手が不承不承ながらにも重なった。

 

「精々仲良くやりましょう」

 

 

この子が、城島博士の大いなる遺産を受け継ぐその日まで。

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