憮然とした面持ちのまま、どしりと鞄を傍らに落とした鷹揚な態度の山口に、二歩前を歩いていた監視官が、ちっと小さな舌打ちと共にじろりと背後を振り返った。
だが、その男がどう思おうとも意に返す事などなく、山口はくっと歪めた口元のままふいと横を向くと繋がれたままの縄を弄ぶようにふらふら揺らす。
その態度に忌々し気な色を浮かべたが、面倒な事がいやな男はそれ以上何も言う事なく目の前のグレーの扉をやけに気取った手つきで軽やかにノックした。
その後ろ姿の滑稽さに山口は喉の奥でくくっと小さく笑う。途端に、再び振返った射るような視線をさっくりと無視をすると、扉の右上に設えられた小さなカメラに向かってへろりと舌を出した。
ここの中の住人は、自分達が来ていることなど、先刻承知のはずなのだ。なのに、焦らすかのように一向に開かぬ扉に、向う側の主の性格が見て取れるようだと。
それから、かっきり30秒後の事だった。イライラとブーツの踵を鳴らす音の挟間を縫うようにジーっと耳を澄ます程のモーター音と共に鍵の外れる音がしたのは。
漸く許された次の行動を起こすために、はっと男が小さく呼吸を整え襟を正した後、ゆっくりともったいぶるように押し開いた扉の奥から、さっと筋のように流れ込むのは柔らかい暖色を帯びた優しい光だった。
「失礼します」
やけにしゃちほこばった、まるで棒でも飲んだようにピンと真っ直ぐな姿勢のままで、歩みを進める男の後を、軽く肩を竦めたまま山口が後を追う。
ここまで来たら、どんな奴がこの部屋の主であっても自分にとっては同じこと。せめて、以前の研究者よりS気が少ない事を祈るのみ。そう半ば諦めの混じった面持ちで、所謂『博士』という呼称を当然のように受け止める男の薄い背をじろりと睨み付けた。
だが、柔らかな暖色の光を背に振返ったのは、学者全としたお偉方を思い浮かべていた山口の想像を簡単に裏切る、まだ、三十路になったかならぬかの年若い男の柔和な笑みだった。
「君が山口君?」
黒縁に包まれた分厚い硝子の奥で、淡い朝の露を浮かべたような虹彩が呆然と彼を見つめる男をくるりと映し込みながら、ほとりと綻んだ。
「はじめまして」
目の前に躊躇うことなく差し出されたのは自分のものよりも薄く、だがごつりとした感触の男の掌。
「私が城島です」
記 憶
よろしく 山口君 と差し出された手を、山口は握り返すこともせず眇めた視線で見下ろした。
「山口君?」
一向に伸ばされぬ手に困惑気味に柳眉を顰めながらも呼ばれた名前に、山口はにやりと口端を器用に上げてにやりと笑う。
「申し訳ないんだけどさ、これじゃあね」
いくらなんでも失礼でしょ と身体の前で縛られたままの手首を持ち上げてみせた。
すると城島と名乗った男は、黙って踵を返すと抱えていた荷を背後の机の上においた。そう言えば、と背後を見やると先刻まで、山口を威圧するように睨みつけていた監視官は既に姿を消している。そのまま値踏みをするかのように不躾なまでの視線で室内を眺めていた山口に城島が片手を差し出した。
「こっちへ」
多少命令がかったその口調に些かむっとしたものの、ここで逆らったとて何の益もないと山口は素直に城島に近づくと、ぐっとその目の前に堅く縛られたままの手をぐいと突き出した。
目の前で柔らかな栗色がかった髪がふわりと揺れる。
随分と固く縛られていたのか、5分が過ぎても一向に解けぬそれに、部屋の中央に突っ立っていた二人は部屋の右端においてあったソファに位置を移している。
三人がけのソファに座った山口の足下に膝をつき、その膝に肘を預けるようにして結び目を覗き込む城島を山口は複雑な面持ちで見下ろしていた。
「博士」
「ん?何ですか」
正直なところ解いてくれるとは思わなかったのだけど と山口はやけに真剣なその横顔に眉を寄せる。
「まだ、かかります?」
「あと少しだと思います。思うんですけど…」
きゅっと寄せられた柳眉がふわりと解け、ふう と溜め息をつくと同時に目の前であげられた綻ぶような視線に、僅かに身を引いてしまう。
「取れました」
ほら、と持ち上げられた手の中で揺れる縄に、思わず安堵の溜め息をついたのは、手首の痛みから逃れられただけではない。
「随分と不自由な思いをさせてしまいましたね」
どうも気の利かない性格らしくて、と笑いながら、解いた縄をそのまま本の上に放り出した城島が多少慌て気味に珈琲を注いだカップは二人分。
「あの、博士?」
「もしかして、クリームが必要でしたか?」
失礼、かちゃりと目の前に置かれたものは、誰の目から見ても明かに自分のためのものだと言うことに山口は戸惑いを覚えた。
「いや、そう言うことじゃなくて」
緩やかにたゆるような空気に渦を描くように立ち昇る湯気に薫は、今時、珍しく豆から挽かれた本物の珈琲のもののように思えた。ふっと伸びやかな香りのままに鼻腔をくすぐるそれに、知らず楽しむように瞼を伏せる。
「美味い」
舌に纏いつくように残る仄かな苦味と喉に広がるまろやかさ。そういえば、珈琲を味わうなんて、一体どれぐらいぶりになるだろうか。
「それは良かった」
溢れた賞賛は自然なもので、その言葉に斜向いに座った城島はにこりと嬉し気に微笑を浮かべた。
「それで、山口君、君のこれからの事なんですが」
だが、次の瞬間には頬を引き締めた城島の言葉に、山口は訝し気な表情になる。
「山口って、俺のことですよね?」
そのまま、僅かに挙げられた視線と返された言葉に、
「山口達也さんではないんですか?」
これにはそう書いてありますけど、と怪訝そうに城島が手許の資料を見下ろしている。
「いや、確かに俺は山口達也ですけど」
逡巡するように途切れた言葉に、城島は先を急かすことなくカップに唇を寄せる。
その 優雅なまでにゆったりとした仕草で傾けられて行く陶磁器に比例するように規則正しく上下する喉の動きを山口はじっと見つめた。
「本当は、紅茶の方が好きなんですけどね」
ふと己に向けられた視線に気がついたのか、山口君はどちらが好きですか? そう、再び真っ直ぐに向けられた言葉と柔らかい虹彩に僅かに視線を逸らしたものの、山口はくしゃりと髪を掻き混ぜながらも、先刻からの疑問を唇に乗せた。
「貴方は俺のことNO.で呼ばないんですね」
「私が君をNO.で呼ぶんですか?」
何故? と眉月のように綺麗な弧を描く唇が言葉を紡ぐ。
何故って と、掠れたような声が零れ、山口はそのままソファの上にある己の姿を見下ろした。
それから、おもむろに立ち上がると、己の身体を覆うサイズなどあってなきがごとしのだぶりとした白い服を見せつけるように両手を広げて、自分の胸元をとんと叩いてみせた。
「ここに書いてあるでしょ。NO.19720110って」
これが俺のNO. と山口はやや自嘲気な口調で呟いた。
「確かに書いてありますね」
僕は目が悪くてね と城島がアルカイックな表情を崩す事なく山口を見上げた。
「君がそう呼んで欲しいなら、そう呼びますが」
「いや、別に呼んで欲しい訳じゃないけどね」
なら何の問題はありませんね、と言う言葉に気が抜けたように山口はソファに腰を降ろすと、目の前で変わらず珈琲を愉しむ男の顔をじろりと睨みつける。
「あのさ、貴方判ってるの?俺、実験体だよ。実験体」
繰り返した己自身の言葉に、自然に怒りが滲む。
そうなのだ。
自分、山口達也、否、NO.19720110と過去10数年に渡って呼ばれ続けて来た男は、政府の研究機関の保護下という名前の虜囚であり、研究室という名の監獄に閉じ込められた彼らの研究を手伝うと言う名目の実験動物。
「確かに、君は私よりも年上だというのに、随分と若く見えますね」
その肌も姿形も、そしてその表情さえも、と城島は、どこか幼子を慈しむかのような眼差しで山口を捕らえた。
「それは私たちにとっては確かに羨むべきことであり、その素晴らしい肉体と能力に憧れることはあれど、けして蔑む対象にはなりえない」
違いますか とどこか億劫気に立ち上がった研究者はやけに重そうなファイルを取り出して山口の前に積み上げた。
「君は、人が何故、衰え老いるか知っていますか?」
「そりゃ、年食うからだろ?」
ところで と投げかけられた突然の質問に憮然とした表情のまま返された、あまりに端的な答えに城島がくすくすと笑う。
「正論です。では、何故、年を食うと老いるのか」
そんなの と言いかけて、硝子に写る己の顔をマジと見つめた。
「俺は」
そこにある老いを止めた男の顔を。
「人の体はミスを犯すコピー機のようなものなんですよ」
城島は、皺一つない、だが、感情の揺れを表すように僅かに震える己の手を見下ろす男の甲に、ざわめく波を宥めるようにそっとその指を重ね合わせた。
人の細胞はコピー機のようなもの。
人の肉体の中で、この瞬間にも多くの細胞が壊れ、同時に新たな細胞が生まれ、それを繰り返す。
「失われて行く部分から新たに生まれるものへと、情報がコピーされる時、情報の一部がミスコピーされるんです」
それが老いの原因 と城島は己の眦に刻まれた薄い皺を指先で辿ってみせた。
「それが、山口君、君の場合、ほぼ正確に細胞のコピーをし続けることができるんです」
だから、老いることもなく、成長を止めた時の姿のままの『山口達也』が存在する。
「つまりは、山口君、君は僕よりも素晴らしい能力を持っているということ」
わかりますか?と傾げられた小首に、山口は暫し何かを考えるように瞼を臥せ、それから、ゆっくりと城島を正面から己の瞳の中に写し込んだ。
「じゃあ、俺は、不老不死な訳?」
だが、その言葉にきょとんと見開かれた瞳が、ぱちりと瞬きをすると、くすくすと笑い出す。残念ながら と。
「ほとんどの生き物において心臓が脈打つ回数は20億回と言われています」
それはネズミも象も人も同じ と掌が鼓動を繰り返す命の源に触れる。私もここも、そして君のここも。
「だから、君が老いることを知らず、このまま年を経たとして、それが不死に繋がるとはいえません」
「先に内臓がやられちまうってこと?」
思わず己の上肢を見遣り、不安げな表情をひたりと浮かべた。
「それはわかりません。その肉体同様、臓腑を含め、君の体の事は未だ誰も解明できていませんから」
それを調べるために貴方はここに来られたのでしょう と。その言葉に、山口はちっと横を向いた。
「結局、同じなんだ。番号で呼ぼうが名前で呼ぼうが俺があんたの実験体ってのは変わらねえ事実なわけだ」
そのどこか拗ねたような口調に城島は僅かに首肯した。
「確かに貴方は私の実験対象としてここに移されたのは事実ですし、一週間に一回は、君の血液と細胞を少し頂かなくてはならない」
「週一?」
「ええ、サンプルとして」
不満だとは思いますけど、と続いた言葉に山口はあからさまに眉を顰めた。
「それだけで研究の役に立つ訳?」
昨日までの己の上に課せられていた日々の責め苦とのあまりの違いに、十分に、と答える人好きのする穏やかな笑みにも、ただ瞳に浮かぶのはあからさまなまでの猜疑心。
「私は確かに遺伝子分野、ゲノムの研究をしていますが、主題はヒトゲノムではありませんから」
「不老不死の追求とかじゃないの」
その言葉に城島がからりと明るい笑声を響かせる。
「不老不死は古代より、権力者の持ち得る最後の願望であり、人にとっての永遠の夢幻ではありますけれど、残念ながら、私が紐きたいと望むのは植物の生命ですから」
ただ、遺伝子学について詳しいということで、貴方の事も任されたと言うだけです。背で手を組み合わせながら、僅かに前のめりになった姿勢のまま城島はひょこりと窓の外を見上げると眩し気に瞳を細める。
「ですから、貴方は実験体である前に私の体の良い助手と言う事になりますね」
これからよろしくお願いいたします と振返り、頭を垂れた男を山口は半ば呆然とした面持ちで見下ろしていた。こんな調子の良い話があって良いのかと。
「博士」
「ああ。それともう一つ」
部屋へ案内します とじゃらりと鍵の束を手にとった城島が素直に立ち上がった山口をくるりと振返る。
なんだ、と小さく心の中でごちる。助手だなんだと良いながら閉じ込められるのは今までと同じかと。
「申し訳ないんですが、月曜日が採血の日になりますので、前日の晩から食事を抜いていただきます」
で、これが君の部屋の鍵になりますから、そう差し出されたのは一枚のカード鍵。
「飯抜き?」
渡された部屋の鍵より、食事抜きの方が重要問題であった事は後々まで笑い話としてからかわれることとなるのだが、それはまた別の話であり、これが城島と山口の出会いであった。