柔らかな日差しだった。
透き通るような青空に、ぽかりと浮かぶ白い雲。時折、吹く風にそよぐ枝がかさりと鳴る。
「外は、寒いんやろね」
村は雪景色やろか と眩しげに細めた眦に幾重もの皺を刻み込みながら、くふりと笑みを浮かべる横顔に、山口はどんと机を叩いた。
「どないしたん?」
ほんの少しのび過ぎた襟足を緩やかに揺らしながら振り返ったそのやんわりとした表情に、うっとこぼれる小さな嗚咽。
「なんで」
どん、と先ほどよりもほんのわずか押さえられた音が鳴り響き、ぎりりと歯噛みするような音が耳に届いた。
「山口?」
「山口、じゃねぇよ、なんで、なんでそんな平気そうな顔してんだよ」
なんで、と思わず身を乗り出して掴んだ肩の薄さに山口は、あっと悲鳴のような声をあげて両腕を背中に隠した。
「平気そうやなくて、平気やで?」
僕、と小さく口元を綻ばし、するりと白すぎる包布の隙間から滑りおりるようにベッドを抜け出して、そのまま、大きく切り取られた窓の傍へ行く。
「なあ、ええ天気やと思わん」
道行く人は、深く纏ったコートの襟をきゅっとたて押さえた手をそのままに、ほんの少し曲がった背をそのままに前のめりになって歩いていく。
「こんな日ぃに、ひなたぼっこしてええ身分やなあ」
ぼく と窓の外を覗き込むようにして、からりと笑う。
「身分って、あなたね」
勢いのまま、再び伸びそうになった手をぎゅっと握りしめ、そのままわずかに反らされた相棒の視線に城島は、糸のように淡い吐息を零した。
ああ、そうだ。
この男は近しい存在を失う痛みを知っているのだと。
それも、まだ二年ほど前のことだ。陽光のように明るい笑みの下、未だ、薄く張った瘡蓋に隠されたその傷は未だじゅくじゅくとうずくような痛みを持って、山口を苛んでいるのは知っていたのに。
「すまんかったな」
自分はなんとひどい行為をこの男に強いたのだろうかと。
「なんで謝んの?」
「せやかて変な話聞かしてしもた」
苦笑にも似たその笑みは、あまりにも優しくて、山口は軽く下唇を噛み締めた。
「変な話、じゃねぇだろ」
唇を開けば、こぼれ落ちそうになる嗚咽を押さえるように、毀れた声は、掠れを帯び、紡ぐ言葉も途切れ途切れで、その情けなさに、山口は、くそっと悪態をつくと額をどんと壁に押し付けた。
城島が、ここ、都内にある病院に運ばれたのは、おとついの晩のことだ。某テレビ局での仕事の後、ゆっくりと頽れていく城島を抱きとめたのは、他でもない山口だった。
翌日、そう昨日一日、ひたすら行われたのは検査に継ぐ検査。
頭部の痛みをふまえ、頭部CTをはじめ、腹部エコー、胸部CT、胃カメラ、心電図等、行われたあらゆる検査。
丁寧に説明されたはずの病名は、なんだかわけのわからない横文字の羅列で聞いている横から忘れてしまった。
ただ、判ったのは、すぐに手術を受けなければ、城島はそれほど長く生きられないという現実。ならば、すぐに手術を、というには、ヘビースモーカーの上、常人よりもアルコール摂取量の多い男だ。手術には、一か月の体力的な準備期間が必要であり、同時にそれは、手術の成功率を大幅に下げるのだということだった。
「あんなぁ」
どん、と勢いに任せて壁にぶつけられた拳に、城島は眉を潜めるとゆったりとした仕草でそれを己の手で包み込むと赤く擦れた皮膚にふぅと柔らかな息を吹き付けた。
「そないな顔せんといてぇな」
「なんで、あなたはそんな呑気なんだよ」
20%だと言われたのだ。
山口は、子供の頃から算数は得意ではない、否、むしろ大嫌いだったけれど、100-20=80 それぐらいの計算はいくらなんでも間違えない。
つまりは、 と山口は自分の拳に連なるぬくもりの主をゆっくりと振り返り、ぎりと見開かれた眼でそのふうわりと微笑を浮かべたままの男の顔を見た。
一か月後、自分は80%の確率で、目の前のこの男を失うのかと。その想像に、あ の形に開かれた唇がふるりと震え、競り上がるような鼻孔の熱に、頬の肉がびくりと引きつる。
「やまぐち」
「なんで、なんで笑ってられるんだよ」
なんで、とぐいとつかんだ両肩の薄さに、体が震えたがそのぬくもりから手を離すことができなくなる。もし、この熱源が消えてしまったら と脳裏に横切った思いに、喉の奥が引きつるような痛みを覚える。
「自分、前向きな男や思てたんやけどなあ」
僕なんかよりずっと、と城島は肩にしかりと張り付いたままのその甲をことりと叩いた。
「頼むから一か月後の僕の未来を奪うような想像はせんといてくれ」
あんなあ、そう柔らかな口調を、とぎらせたあと、城島の唇から毀れた声は、いつものそれよりも一段低く、深い怒りのようなものを帯びた色をしていた。
「しげ」
「一か月後のことを自分が心配するのはわかる。分かるけど、今、僕はここにおってちゃんと生きとるんやで」
いつも猫背のためにあまりかわらぬ位置にある視線を、今はわずかに見上げるような状態のまま、山口は壁にとんと背を押し付けた。
「その僕を、否定せんといてくれ」
ほかの誰でもない自分が、と続いた声に答えることができたのは、でも、というただの一言だった。
普段、温和なまでの柔らかな光を宿す虹彩に、写り込む情けなく歪んだ己の表情に、足の力が抜け、ずるりと壁に背を擦り付ける。
「いうとくけどな。山口、一か月後、自分が生きとう確率かて50%ってことに気付いてるか?」
「へ、お、俺?」
きょときょと辺りを見回し、それから自分の鼻先を指差しながら、俺も病気なの、とひょうと気の抜けた風のような声になった山口に城島は口元に微笑を浮かべると、しゃあないなあ と床に座り込んでしまった男の前に膝をついた。
「病気ちゃうよ。そうやなくて、人が明日、生きてられる確率の話や」
今日の帰り、交通事故に遭うかもしれない、明日のロケ先で火事に巻き込まれるかもしれない、数週間後、突然の地震で命を奪われるかもしれない、人の生など思うよりも儚いのだと。
「そんな先の見えないこと、わかんねぇだろ」
「そやろ?」
強くなった語尾に、城島は、ふわりと眦をほころばした。
「確かに先生は、20%の成功率やておっしゃったんや」
せやろ?確認する言葉に、こっくりと頷く。
「余命1か月やて言われた癌患者が10年生きた言うことは聞いたことあるやろ?」
「あるよ、あるけど」
「やったらなあ、今、できることしようや」
そういうと、城島は山口の両手を握りしめ、そのまま引っ張るように山口を起こす。
「僕の死を悲しみ嘆くのは、僕がおらんようになってからしてくれへんやろか」
「結構、あなた男前だよね」
そういうとこ、からかうように言いながら、それでも頬の裏を噛むような表情になり、山口は自分の両頬をぱしんとたたいた。
「惚れ直したか?」
「そういう台詞は、松岡に言ってやんなって」
俺、ちょっと顔洗ってくるわ、そうこすった眦を赤く染めながら山口は、漸く淡くではあったが、微笑を浮かべた。
すまん、と静かに閉められた扉に向けて、城島は頭を垂れた。
医者の話を一人で聞く恐怖に耐えられず、さりとて老いた母に聞かせたくなくて、お前を選んでしもうた と。
ああ、違う。自分は、と城島は、ぐいと握りしめた手の甲でくすんと鳴る鼻先をついとこすった。
まだ、デビューの欠片さえ見えなかった頃、悲観的になりそうな自分にいつも綺羅とした眼を向けて、まっすぐな未来を信じて疑いもしなかった山口に、ろうそくの炎のようにかけそい自分の未来を共に信じて欲しかったのだ。