TOKIO

Nobody knows-4-

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見上げた空はあまりにも高すぎて、どんなに伸ばしたって指など届きはしない。

ふわりと浮かんだま白な雲も、地から抜けることのできない人間のことなどそ知らぬふりで、ただ、己の心のままに行き過ぎる。

ああ、なんとちっぽけな存在かと、思い知らされるその一瞬、瞼裏に浮かぶはどこまでも柔らかな色を写す笑み。

テレビのCMだろうか、あなたに会えて良かった と切なげな旋律の曲が耳に届いた。

 

 

 

夏の盛りを迎えぬ海辺には行き交う人の姿もなくて、それでも途切れることのない波間の渦に、ぽつりと浮かぶは、それに惑うた人の影。もう、そんな季節ではないだろうと思うのだが、と国分は目の前に置かれた瀟洒なティカップを摘むように持ち上げると、視界一杯に広がるのは透き通るような琥珀色。誰かを思わせる色だと、僅かに眉をひそめながらも、ゆっくりと唇を白い縁に近付ける。

「旨いだろ」

そう、目の前で、国分よりも幾分あっさりしたデザインのカップを傾ける男の悪びれないにこりとした明るい笑みが、な、と同意を求めるように小さく笑う。

「まあね」

「だろだろ」

こっちに来てさあ、すぐ見つけたんだよね、あの人も気に入ってんだ、ここの紅茶 そう言いながら目の前の山口が飲むのは、乳白色のクリームが渦を巻くここ特製のブレンド・コーヒーだ。

「これもさ、なかなかいけるんだぜ」

むっと歪んだ唇に何を思ったのか、持ち上げたカップが小さく揺れて、視線がカウンターの奥、小さなテレビを見つめているマスターのちらりと振り返る。

「で?」

静かな店内は、午を少し回ったところで他に人影はない。山口の視線が自分の方へと戻ってくるのを待つように、一つため息を深くつくと、国分は組んだ足をそのままに、背を僅かに反らせるようにして少し古びた一人がけのソファに背中を押し付けた。

 

今朝は、ラジオの収録があった。小さなブースに座り、アナウンサーと顔を突き合わせるようにして、ハガキを読んで、リスナーの声に頭を捻るようにして答えて。それはいつもとなんら変わらぬ日常の風景だった。

だが。

いつもどおりの収録の後、国分がタクを飛ばして訪れたのは、DASHのロケでも訪れたことのないような小さな漁村だった。

「太平洋に面してるから、波、見るよりも結構迫力あるんだよな」

昨日から今日の午前中に掛けて、村で撮影だった山口が細い路地をきょろきょろと忙しなく周囲を見回しながら歩いている小さな人影に、僅かに眉をあげながらも、ワンボックスカーを止めたのは村の入り口だった。

 

「そろそろ来るかなって思ってたからな」

山口はちらりと目の前で、ずずずと行儀悪く紅茶を啜る音の主のどこか据わったような視線に苦笑を浮かべる。

「松岡、聞き回ってたろ?俺のこと」

ぴっとボタンの一つを押して、国分の前に差し出したのは、携帯の画面だ。

「松潤とかさ」

-松にぃが約束忘れてんだよね〜 って探してましたよ?ちゃんと連絡とってくださいよ-

見せられた文章は、後輩からのものらしく、可愛いだろ?とククッと喉の奥を震わせるように笑うと、松岡のどじ と毒づく国分に、人徳人徳と眼を細める。そんなどこか余裕げな仕草に、国分はじろりと下からねめつけるようにして山口を見上げた。

「でさ、あの人はどこ?」

「ん?病室に決まってるだろ」

細めた眼をそのままに、そんなの、と答えるチェシャ猫のようにきゅっと上がった口端。太陽のような笑顔と称される男のイメージからはほど遠いそれ。

「倒れた晩に、病院に居たのは確かみたいだね」

井ノ原から裏はとってある、とぐいと底に残っていたそれを飲み干して、傍らのティポットから勢い良く注いだ紅茶は、先刻のものよりも2段ほど、濃い色をしている。

「俺ら、毎日病院に通ったんだよね」

案の定、口に含んだそれは、口元を歪めるほどに渋みを増し、国分は軽く舌を出した。

「愛されてるねぇ、しげちゃんは」

「山口君!!」

その揶揄するような言い種に、だん といささか激昂したような声と叩かれた机の上のカップが音もなく揺れる。

「あの人は、今もあの日も変わらず病室に居るよ」

「だったら、なんで俺ら会えないんだよ」

何度行っても、どんなに足を運んでも、面会謝絶って、そのくせ、人気などひとかけらも感じられない真白い扉の向こう側。広がるものは掌を押し当てても、何の反応もない無機質な空間。

あんなところは正常な人間のいる場所じゃない。

ぬくもり一つない、そう、聞こえるのは足音を消すために看護士が履いた軽いシューズとワゴンの車のどこか乾いた音。そんな場所にあの人がいるはずがない と、国分は唇を噛み締めた。

「太一、面会謝絶も本当、病室に居るのも嘘じゃない」

ただ、とわずかに言葉をきると山口は、透き通るような青さの空の向こうに浮いた白い雲を見上げた。

 

20%

医者から告げられたはずの難しい病名等、記憶の欠片にも残らなかった。ただ、認識したのは数字を表す音だけ。

嘘だと山口が、一瞬にして水分を失ったような喉から、言葉を絞り出すよりも先に、わかりました と妙に冷静な声で答えたのは、隣で同じように椅子に腰を下ろしていた城島だった。

「しげ?」

迷い子になった子供の声よりも弱々しい声に、にこりと笑みを浮かべて、ぽんと甲を叩いてきたその手は、テレビの中で思われているどこか頼りなげな彼からは想像できないしかりとした肉と熱を持っていた。

 

「助かる術は手術だけ、けど、その成功率が20%」

笑えるだろ? そう、ふぅと僅かに丸くした唇から、吐き出されたものは、白すぎる一筋の煙だった。

「たばこ」

「ん?ここ一か月で戻っちまった」

突っ込むところはそこじゃないだろうと、国分は、山口の言葉をずれた位置で受け止めた自分に気付き、吊りぎみの眉を歪める。

「手術、したの?」

俺ら聞いてないけど 拗ねたような口調に、山口が笑う。

「すぐにはさ、できねぇんだと」

脳にできた腫瘍のようなものを切除するのだとそう説明されたように思う。

「体力がさ、いるんだわ」

なのに、あの人、と丸っこい指をきゅっと伸ばして自分の腹の辺りをぽんぽんと叩いて

「酒、飲み過ぎでさ、肝臓の数値が悪すぎるって」

信じらんねぇだろ? ここの手術するのに、こっち先に治さなきゃなんないって、ほんと信じられねぇ とスプリングの良くない椅子の背に体を預け、天井を見上げた男の表情から、国分は視線を反らせた。眼を隠すように置かれた掌の下のその感情は、けして他人が見て良いものではないからだ。

「会えないぐらいに、悪い?」

「脳、なんだよな」

こっくりと子供のように素直に頷いた国分を見ることなく、山口は、はっとため息をついた。

「井ノ原と坂本が、シゲを見舞ってくれたの、知ってるんだよな?」

「聞いた」

「わかんなかったんだ」

「え?」

「シゲ、よく知ってる、大事な友人が来てくれたってのはわかったらしい。すごく知ってる誰かだって」

でも、名前がわからなかったんだ。

 

オフホワイトの優しい色は、病人の精神を圧迫させないための配慮だと聞いたことがある。そのくせ清潔さを固辞するような白いシーツの上でそれに負けないほどに色をなくし、ぎりぎりと握りしめた拳が震えていたのを思い出す。

 

「あの人は、お前らが恐かったんだよ」

 

こわいのだと吐息よりもかけそい声が空気を震わせたのは、翌日の昼のことだったか。

精密検査の上に重ねるように繰り返される検査の途中、仕事の合間を抜けて、顔を覗かせた山口に零した彼の隠された心内。

「朝、寝てる間に松岡が来てくれたて、看護士さんに言われたわ」

昨日の夜よりも、色のない表情で、それでも口元に浮かべる薄い笑み。

「忘れることが恐いねん」

どないしよう、そう震える唇に、ただ、その名を呼ぶことしかできない自分の情けなさに唇を噛む。

 

「会って、松岡や、長瀬、そしてお前の事が分からないかもしれない現実を見ることがあの人は恐かったんだよ」

 

目の前に突き付けられた自分の生の長さの危うさよりも、あの人は、仲間の、愛すべき誰かの事を忘れてしまうかもしれないという目の前の未来に脅えたのだ。

「だから、面会謝絶にした」

誰にも会わなければ、忘れた誰かに気付くこともないと緩慢な時間のはざまに揺れていることを望み、同時に、己と世界を繋ぐか細い道の上に、自らの手で鍵のかかった扉を作り上げた。

「そんなの」

脳裏には、渦巻くように言葉が蠢いているのに、舌が縺れて言葉にならくて。ああ、こういうのを絶句というのかもしれないと、国分は、つと息を浅く吸い込むと落ち着くように、一段と渋味を増した紅茶を半分ぐらい飲み干す。

「今、リーダーどこにいんだよ」

それでも漸く絞り出した声は、かさかさに掠れ、いつもよりも音程だけが低いものだった。

 

 

 

 

 

車を茶店の駐車場に止めたまま、一車線しかない道路を並んだままで、ほてりほてりとどこか鈍いまでのスピードで歩いていく。

あの人の担当医の紹介でさ、山口がどこかアルカイックな笑みのまま、つと指差したのは喫茶店の窓の向こう側、小さな浜辺沿いにあるマッチ箱のようなコンクリートの建物だった。

ただ、肝臓の数値を抑えるために寝ているだけならば、ここにいる必要などないと。頑に病院を出たいと、我がままと知ってなお駄々を捏ねる幼子のように、だが、頑固なまでに医者の説得に耳を貸さず、目の前で退院の支度を始めた城島に、妥協案を指し示したのは、その必死さに折れた医者の方だった。

年老いた漁師ばかりの住う小さな町に小さな診療所があるのだと。

彼以外、入院患者などいない小さな小さな診療所で、大人しく療養することが条件と。

「まだ、手術できねぇの?」

一か月と国分は指を折る。

「ん?」

そういえば、こんなに長い間あの人に会わなかったことってあったっけと。

「酒止めてんでしょ?」

タバコも、そしたら、といつもよりもゆっくりとした足取りの山口の顔をちらりと見上げる。

「一応な」

少なくとも俺は見てないよな、と軽く考えるように小首を傾げ、この一か月間と小さく頷いた。

「もしかしてさあ、山口君、一か月、家帰ってないの?」

ポケットに片手を突っ込んだまま、ん?そだよ と前を行く背に、国分はきょとんと眼を見開いた。

「だって」

「現場行って、こっちに帰ってきて、また撮影って感じかな?」

ああ、必要なものとかは、取りに戻ってるけどな、とすっかりと短くなったフィルター部分をぎゅうと力任せに携帯灰皿に押し付ける。

「それって」

「ああ、あの人のとこから勝手に拝借中」

男の合鍵なんてさ、初めて貰ったわ、そう指先でくるりと、銀色のアルミのケースを振り回し、慣れた手つきでポケットに押し込んだ。

「ったく、山口君が結婚できないわけだよね」

その仕草に溢れた苦笑混じりの言葉に、わずかにむっと口角を歪め、人に言えんのかよ とふいと横を向きながらも答える声はどこか拗ねているようにも聞こえ、まあ、お互い様といえばお互い様なのかもしれない と不承不承国分もまあねと軽く頷いてみせた。確かに、彼のことは言えないかもしれない。公的な彼女がいる自分と、マスコミに探られるようにしてちらちらと途切れることなく女の影が見える山口。それらを全ておいて、あの人の元へ歩いている自分達。

「こんなんで、俺ら、いつかちゃんと家族なんてもてんのかな」

ふつりと浮かんだ疑問に、山口は、ふとさまよわせた視線を一点に止めると国分をゆっくりと振り返る。

「なあ、太一にとって家族って何?」

「俺にとって?」

ここのもうちょい先な、と路地を一つ曲がる山口が国分を振り返る。

「『彼女』ってさ、もしかしたら家族になるかもしれない存在なんだよな」

「まあ、そうだよね」

特に、三十路を過ぎてつきあっている相手ならば、互いに結婚を視野に入れていて当然だ。現に国分だって例外ではない。

「けどさ、俺もお前も、現実には、まだ結婚してない」

長いつきあいの相手がいるんだぜ、とうに子供の一人や二人居てもおかしくない年齢なのにな と、とんと両足で跳ねるように階段を跳んだ滞空時間の間、二人の間に落ちたのはきんと張ったような沈黙と小さな小石が一つだけ。

「シゲにとってはさ、家族って、唯一無二の存在なんだよな」

仮令、世界のすべてが敵に回ったとしても、彼は、彼にとっての『家族』の事をただ無心に信じ、その手を握りしめるだろう。母が子に、父が娘に与えるような、無償の愛ではなく、ただ、彼は全てを受け入れる。それが彼にとっての家族だ。

「だからさ、もし、俺が、結婚して家族を持ったら、あの人は俺から離れてしまう」

山口がどれほど自分達は今までと変わらないのだ と、その手を伸ばしても、彼はやんわりと山口の手を拒み、一歩離れた場所から、自分を見るだろう。そう、新たに山口が守り、受け入れるべき家族の立つ場所を確保するために。

「けどさあ、俺にとってさ、シゲって、特別とか、家族とか、そういう存在じゃなくて、城島茂っていう個なんだよな。なんつぅかさ、空気のような存在なってのかな」

そこにいるのが当然で、居ない方がおかしいんだよな。だから、離れていくとわかっていて『彼女』を選べないだろ と。

「じゃあさあ、もし、リーダーが、山口君が結婚しても、自分から離れないって受け入れたら、山口君は彼女と結婚するの?」

「そりゃな、俺だって結婚して子供の一人ぐらい欲しいと思うしさ」

普通の男だし?とクスクス笑い、

「でも、今んとこ、俺にとっての全ての最優先事項はさ、あの人だしな」

だからここにいるんだと思うし、とこりこりと米神を掻く山口に、ふぅん と国分は軽く足下に落ちていた小石を蹴ると、ひたりと足を止めた。

「あのさあ、意地悪な質問しても良い?」

「あ?」

消えた足音とともに、遠くなった声に、振り返った山口もつられるように坂の途中で立ち止まる。

「海のド真ん中でさ、一枚の木切れを持って山口君が浮いてるんだけど」

「おぅ」

「その目の前に二人の人が溺れてる」

その先が読めたのか、山口がいぶかしげに眉を潜め、おい、と 幾分低くなった声に、国分はこっくりと頷いてみせた。

「そう、左手には、山口君の彼女、うぅん、奥さんでもいいや、が溺れてて、右手にはリーダーが溺れてんの」

どうする?と大きな眼が楽しげに揺れて、覗き込むように、眦がゆるりと緩む。

「そんなの両方助けるに決まってるだろ」

「それじゃ答えにならないよ、ね、山口君は、どっちを先に助ける?」

「そりゃ」

普通考えたら彼女だろうと本の少し考えるような間の後、山口はゆっくりと笑った。やっぱ、女だからさ、で、取って返して、すぐにシゲ助けるに決まってるだろ ときっぱりと言い切って、そこの診療所 とあげられた手が、あ〜あというやけに間延びした国分の声に、ぴたりと空で動きを止めた。

 

「残念、一人助けた瞬間にもう一人は溺れ死んじゃうんだよ」

 

そう、目の前の男がどれほど理想論を語ろうと、彼が描く現実とは、そういうことなのだと。

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