野生の動物は、死期が近いことを悟ると自ら姿を消すのだと聞いたことがある。
それを潔いと呼ぶべきか、生き物はどこまでいっても独りだと本能で知っている彼等を哀れと呼ぶべきか。
ざくりと足がつく毎に埋もれるように絡み付く砂地の上をひたすら駆け続けていた両足がぴたりと止まる。
ごつりとした岩場に立つ、かけそいそのシルエット頼りなげに揺らぐ姿を見つけ、山口は荒い息を隠すことなく膝に掌を預けるようにしながら、安堵に両肩を落とした。
潮の香りを孕んだいたずらな子供のように戯れる風に逆らうことなく、草葉のようにゆらゆらと揺れる細い肢体。
ほんの一歩、いや、半歩、足をずらしただけでも渦巻く波に攫われそうなその覚束無さに、驚かしてはいけないと思いつつも、ざんと耳をつく波音に負けぬように、喉限りでかの人の名を叫ぶ。
ざん
夕闇を纏う湿った空気の中、打ち寄せる波音に混じる雑音に気が付いたらしい柔らかい猫っ毛の頭がゆっくりと振り返る。
帰ろう
それは、けして大きな音ではなかったがゆっくりと言葉を形作る唇と己へとまっすぐに伸ばされた掌を見下ろして、不思議そうな面持ちでゆるりと傾げられる小さな小首。
しげ
波の音に攫われた彼の人の名に、一瞬、零れ落ちそうな瞳が大きく瞬いて、次の瞬間ほとりと浮かんだものは無色透明な水晶よりも混じりけのない透き通るような微笑だった。
少し前の映画やったんやけどなあ、くすくすと笑いながら城島は両頬を肘の上に預けたまま、ひたりと肌を冷やす机の感触が心地良いのか、上目遣いで向かいに座る国分を見上げた。
「映画ねえ、そういえば、俺も全然映画館なんて行ってねぇわ」
最近、この二人は微妙な距離を保ってはいるが端から見ていてもとても仲が良い。
同極であったはずの磁石がいつの間に対極に入れ替わったのかはわからないが、レギュラー番組の中でも、ライブのステージの上でも、他愛もない会話を自然に交し、流れる視線も随分と甘くなったと思う。
まあ、 同じメンバーとしてそれはそれで大歓迎の状況なのだから口を挟む気は、さらさらないけどね と山口は手の中の世界からちらりと目の前の現実へと意識を戻すが、20分前と変わることのない空気に、再び己の世界の中へと戻るように液晶画面へと視線を戻す。
逆に、あれだけ手放しであの人に甘えていた末っ子である長瀬が、城島に対しては、どうも遅ればせながらの反抗期で、僅かながらでも距離を保とうとしているのだから、人の関係などわからないものだ。
そこまで考えてふと小首を傾げる。そう言えば、自分とあの人の関係はこの十数年の月日の中で何か変わったのだろうかと。
そこまで考えて、意識が傍らに設えられたテーブルの上、喉の奥から零れる楽しげな笑声から一向に離れない状態に、駄目だな と山口は諦めるように自分だけの空間をぱたりと閉じると、あ〜あと大きく伸びをする。
「で、それのどこが恋愛映画なわけ?」
「何言うとんの。究極の純愛ものやん」
肩肘をついて 介護映画じゃん とのたまいながらきゅと大きな眦を軽く釣り上げた国分の口角を持ち上げるような表情に、城島が軽く拗ねたような口調になっている。
珍しい、思わず薄く開いた唇はその言葉を音にすることはなかったが、山口は城島の台詞に思わず、まじと目の前の男の横顔を凝視した。
今、何と言った?この男が究極の純愛もの?それを城島が一人で見たと言うのか?
「しげ」
だが、真相を引き出そうと軽く浮かした腕は、タイミング良く開かれた扉の向こう側、『ゲストの方の準備できました』スタッフの一言で行き場を失うように空を舞った。
「珍しなあ」
八角形をした厚みのあるグラスを手の中で軽く揺すると、かちんと甲高い、だがどこか鈍さを持つ音が柔らかい旋律を震わすように静かな店内に響き渡った。
「何がよ」
「やってなあ」
わざと瞠いた瞳の中に映り込むやんわりと弧を描くのは透き通るような琥珀の瞳子を持つ大きな眼がくるりと回る。
壁から落ちる少しピンクがかった橙色の間接照明が、薄暗い店内の中、青白くさえ見る城島の頬に幾重もの淡い影を描いている。
ゆっくりと楽しげに笑みを形作る豊かな唇が、ほんの少し拗ねたように唇を突き出した男を見ながら、くすくすと掠れるような軽い笑い声を紡ぎ出す。
この男とのつきあいは両手の指を折り曲げても足りないほどに長く、周囲が思うほどに蜜なものではない。仕事もなく、ただ互いの存在だけがすがる全てだった頃ならばいざ知らず、互いにピンの仕事が増え、周囲に視線を向ける精神的な余裕が生まれはじめた頃から、好んでプライベートを共に過ごす時間は極端に減った。
「明日の午前中、オフなんやろ?」
「だから、飲んでんじゃん」
だが、自分だけに向けられるまろやかな色の視線に、ほろりと口元に浮かぶ淡すぎる微笑。それらが心地良いと思うほどに、山口は城島との時間が嫌いではない。
「海行くんちゃうの?」
オフやからの飲むて、えらい殊勝な心がけやなあ と疑問系でないその音に続く揶揄の含んだ言葉が一段層を重ねるように深くなり、途切れることのない笑声がやわりと耳をくすぐる。
「たまには、俺だって貴方とプライベートな時間を過ごしたいって思ってもいんじゃね?」
こうでもしないと貴方の日常って覗くこともできないしさ とグラスが唇に触れる寸前の台詞に城島は僅かにねめつけるような色を込めた視線を山口へと向けた。
「なんやねんな、自分も太一も」
なんか、ゲームか何かか?僕の私生活をネタにした とナッツを選ぶように皿の上で指を惑わし、ん、これっと小さな子供のような声を上げて白くつややかな一粒をこりりと噛み砕く。
「ゲームってねえ」
からからと笑ってみせると、笑い事やないで と今度は城島が唇を軽く尖らせる。普段公では、滅多に見せることのないその幼い表情に山口は眦をほろりと綻ばした。
「プライベートが知りたいて、ほんま、ネタちゃうのん」
「あのさあ、俺ら何年つるんでんの?」
住んでる処を全然知らないんだよね。アンタさあ、オフは何処で何してるの?と国分が公的電波を使ってまでも引き出そうとする答えをこの人は独特のテンポでのらりくらりと交わしてしまう。
「それなのにさあ、俺ら、貴方のこと知るのって大概他人の口からなんだよ?」
そりゃ、太一も苛つくよな と勢い良く傾けたグラスの中で氷がぶつかる音を聞いたが、そのまま片手を挙げると空に所在なげに浮かんだグラスを黙って揺らし続ける。
朝の予定が完全に消えた今、2杯目はもう一段濃い方が良いかもしれない。
「けど、今更やん」
少し行儀が悪く肘をカウンターに預けた城島の軽く反らした喉がゆるりと上下を繰り返す様を山口はどこぼんやりと見つめる。
今更 と笑うこの人の事を自分達はいったい何れほど知っているのだろうか。
寝るためだけに存在するという家の所在を知っているのは、事務所を含めて極僅か。
重なることの少ないオフは渋谷に居るのだと笑い、時間があればコンソメを一から作るのが趣味になった と言うのもファンが知るのと同時に自分達は知るのだ。否、リアルタイムに彼の番組をチェックできない自分達の方が彼をモニター越しで知る人々よりも情報が遅いぐらいだ。
「やって、今は用事があれば携帯あるし、誰かの家で会うより店の方が気楽やし」
それに僕の事知ろうとするよりも、ほかに大事なことようさんあるんちゃう? とこちらも残りを一気に干すと、タイミング良く山口のグラスを持ってきたバーテンに同じものを注文する。
「大体なプライベートも仕事もずっと一緒や言うたら、ほんまのところ、いつか破綻を来すんは目に見えとうしな」
けど、と眉を顰めた傍らの存在に城島は、ちゃうか?と子供を諭すような口調になる。
「人の思いはな、一方通行ではなりたたん」
「ちょっと待ってよ、それって」
「ちゃうよ、僕らがそうとは言わんわ。けどな、例えめでたいことに双方向やったとしても、片方の気持ちだけが極端に重かったらそれはそれでうまくいかんようになる」
人間の世界なんて大なり小なりそういうことや、ましてや、仕事もプライベートもやて、四六時中一緒におったらそれだけ摩擦が増える。
「やから、ある程度の距離を保って立っとう方がバランスは狂いにくいんよ」
だからこの程度の時間の重なりが丁度良いのだ と未だ不満げにふんと鼻を鳴らしている、世間的に相棒と呼ばれる男の所作に苦笑まじりに口角を歪ませた。
「で?」
ん〜、と温むことのない2杯目に喉を鳴らす城島の目の前の皿から、がさりと一掴み豆を攫った山口ががしゃりと不協和音をたてるようにそれらを噛み砕く。
「ほんま何か用事あったんちゃうんか?」
心配を滲ませるようなその口調に、漸く愁眉を解いた山口が疑り深いなあとからりと笑みを浮かべてみせた。
「やって、自分、今日かてずうっと波チェックしとったのに、こんな時間にここにおんねんで。僕やのうても何かあると思うやろ」
普通、とまるで末っ子に向けるような眼差しに、山口はぽりとナッツを食べながらも、鼻の上にきゅっと皺を寄せるように小さく笑う。
「別に大したことじゃないんだけどさ」
そう続いた言葉に、ほらみぃ とこぼし、何や?と上肢を乗り出した城島から山口はわずかに視線を反らした。
あのさ、どこか言いにくそうに一度言い淀み、
「映画見たって言ってたじゃん」
続いたその言葉に、ん?と小首を傾げながらも、次の瞬間、ああと僅かに頷く。
「それが?」
「何見たのかなって気になってさ」
思わずベタ過ぎるぐらいベタなタイミングと仕草で咽せた城島に、山口が大丈夫?シゲさん と苦笑まじりにその背をさするが、
「やって、自分、何?そんなんでわざわざサーフィンの時間削ってまで僕とここにおるん?」
返されたのは、呆れたような笑い出す寸前のような複雑な表情で、それに山口は照れくさそうに頬を微かに赤らめた。
「珍しいのはお互い様じゃん。だってさあ、貴方が恋愛映画を一人で観に行ったんでしょ?」
しかも、それを太一は介護モノだって言ってんじゃん、俺じゃなくても気になるって、ともう一人楽屋の端で聞き耳を立てていた男が居たなとくすりと笑う。
「そらまあなあ」
「でしょ、で?貴方をして究極の純愛ものと言わせた映画って?」
子供の好奇心のような表情を浮かべ、下から覗き込むような山口の仕草に、城島はしゃあないなあ と口をへの字に歪めたものの、はあ とほんの少しわざとらしいまでのため息を一つ吐き出した後、くるりと手のひらで包まれた琥珀色の液体へと視線を反らした。
「実はなあ、よう覚えてへんのよ」
「はい?」
「やって、ロケん時にな、中途半端にぽかりと空いてしもうた時間でな」
小さな、どこか寂れた雰囲気に惹かれた単館上映の映画館だった。訪れる人の足も疎らな、そんな田舎町の片隅にそれはあった。
リバイバルやったんやと思う と小首をわずかに傾げる仕草で何かを思い出すかのように細められた眼。
ハリウッド映画のような派手さもなく、日本映画程の情感も見えず、韓国映画のような強さもない、流れていくのはそんな淡々とした映像。
「女流小説家の半生を描いとった」
夢を食べて生きることの許された少女から、現実へと放り込まれる多感な時期を経ても、尚、煌めきを失うことのない女性の瞳が印象的だった と城島はくっと口角をあげながら微笑のような弧を描く。
迸るように浮かぶ言葉をその淡い唇に惜し気もなく乗せて、恋人に、やがて彼女の夫となる男へと途切れることなく語り続けていた闊達な雰囲気な女性。
肩が触れあうほどの距離で歩くときも、足下の草をそよがせるように2台の自転車で駆け抜ける瞬間も、滔々と夢を綴り続ける夢見人。
やがて、彼女は夫に支えながら、夢であった小説家になる。
「ふ〜ん、結構普通の映画なんじゃないの?」
「ん〜、僕もそう思た」
ただ、何の山場もなく時間の経過を辿る内容に失礼とは思いつつも、バックに流れる優しい音を子守唄に心地よい睡魔の手に身を委ねたのも1回や2回ではない。
「いくつぐらいの時なんやろな」
彼女が、所謂、認知症と呼ばれる病状になったのは。
「ほんまに湧き出る泉のように言葉を綴る人やったんよ」
なのに、気が付けば彼女の中にあった源泉は干上がるように枯れ果てて、己にかけられる夫の言葉の意味さえもつかみ損ねるように小首を傾げるのだ。
その様は哀れと呼ぶよりもあまりに己たちの未来に近く、静止を憚るような痛みが募る。
「けどな、彼女の夫がな、それでも彼女に語り続けるねん」
彼女の人となりを、半生を、生き様を何度も何度も、繰り返し、繰り返し。
「まるでな、消え行く彼女をそこに留めようとしとうみたいに見えた」
哀しみよりも痛ましさよりも、切ないまでの愛情がそこにはあった。
「そっか」
「おん、ただなあ、時間の都合で最後まで観れんかったから、彼女がどうなったかはわからんねん」
ただ、ええなっていう感情だけがここにあるんよ とぽんと己の胸元を掌で叩いて見せる。
「愛しとるんやなて思うた」
ただ、その存在を、魄の欠片を、その手に抱きしめるために男は語っているように見えたのだ。
僕という存在をそこまで純粋に欲してくれる人が、いつか見つかるやろか
グラスに唇が触れる寸前、空気を震わせる微かな吐息。
寂しがりやのくせに、周囲と距離を置こうとする不器用な男に、山口は、ただ、うんと頷くしか術がなかった。