TOKIO

Nobody knows-2-

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掴むことの叶わぬ霧のようなそれは、今考えれば予兆だったのかもしれない。

週に一度顔を合わせることができれば良い方なのかもしれない、いつもと変わらない日常生活。

久しぶりやね、とあげられる片手、交わされるのは気の置けない言の葉の渦。

だが、ふと顔をあげると、歪に感じる微妙な齟齬。

右目を隠す右手と左目を覆う左の手。

目の前に広がるものは、確かに同じ世界のはずなのに、僅かにずれた二つの空間。ふとかわした視線の挟間に揺れる拭うことのできないのは、視野のずれほどの小さな違和感。

 

 

 

 

薄暗い店内。

ああ、薄暗いと評するのは少し語弊があるだろうか。

淡いベージュに統一された広い壁から柔らかく落ちる間接照明は、ゆったりと配置されたテーブル一つ一つをうっすらと浮かび上がらせてはいるが、他のテーブルから干渉される程の明かりではなく。

耳朶をくすぐるように緩やかに流れる、腹の底に響くバラードは、揺らぐような空気に混じり、疲弊した日常をゆるりと滲ませる。

広くない店内に設えられた十に満たない個々の卓は、けして空いているわけではないが、自分以外の誰をも干渉しない、否、現実の自分を忘れるために訪れる人々の声は海鳴りよりも耳朶の奥深くざわめくが、けしてほかの誰をも乱しはしない。

時折、ふと現実に立ち返った哀れな誰かが水面に弾けた泡のような声をあげはするが、それも瞬きをする間もなく気だるくさざめく波間に飲まれて消えてしまう。

 

さして人の気を引く珍しい酒や摘みがあるわけではない店だが、と男はふと口端だけをあげるよにして笑みを作った。

まったりとした空気。

必要以上に他人に関わろうとしない客の層。

そして、引き際を弁え、けして一線を越えて立ち入ろうとはしないバーテンダー。

成る程と納得をせざるを得ないだけのシチュエイション と 指先が濡れるのも構わず、からりと混ぜたそれがぽとりと滴るのをちゅっと窄めた唇で吸いとると、んっと淡く喉が鳴る。

ほんと、あの人の好きそうな店だよな そう声にならない空気が男の心情をふと吐き出した時、

からん

背後で、新たな客の訪れを教える小さな鐘が響き渡った。

 

 

 

「お客さま」

先刻、注文した一杯をサーブして以来、一言も口を聞く様子もなかったバーテンが、三日月よりも細い弧を描く眼と、見事なまでの微笑を口元に浮かべながら、周囲を憚る様子を見せながらも山口へと小さく声を掛けてきた。

「何?」

呟かれた音にならない唇の動きに、軽く頷きながら示唆するように動いた視線の先には、コートを預けていた見慣れた男の横顔。

山口は言葉を発することもなく、ただ、軽く片手を挙げてみせた。と、きょときょとと辺りを忙しく見回していたひょろりとした影が、一瞬、驚いたように大きく揺れたものの、にまりと言った風に破顔すると、長いストロークを生かした早足で店内を横切ってくる。

「どうしたのよ、山口君にこんなとこで会うなんてさ」

男の周囲に沸き上がった空気を乱すような渦は、先刻までと同じ、ほんの一瞬のこと。目覚めかけた眼をこするよりも、再び心地良い微睡みに心を預ける客たちの姿に苦笑を交えながらも山口もまた、声を潜めたまま、おうと返した。

「マジ、珍しいよねぇ、兄ぃがこんな店に来るなんてさ」

「こんな店ってなあ」

だってそうでしょ、と少し掠れたような高い声を落としながら、松岡はちらりと周囲を伺った後、山口が座るカウンターの隣に腰を下ろした。

「あ、俺、JAZZ CLUBね」

ぱちりと指を鳴らして注文を告げる仕草は、自分がメニューを選ぶ時に見せた戸惑いとは違い、流石堂に入ったものだ と山口は片目を眇めてみせる。

「だってさあ、焼酎もないしさ、奇麗なオンナノコが居るわけでもなし?」

その上、こんな風に背中丸めて一人で飲んでるなんてさ、一瞬、誰かさんが乗り移ったかと思ったじゃん とこの場所に不似合いなほど明るくからからと笑う。

「あ、貰うね」

途切れることなく続く言葉の間に、息をするかのようにふいに伸びてきた手が山口の前に置かれていたナッツ入りのチョコレートを一つ失敬する。普段、見ていて感動するほどに礼儀正しい男なのに、と呆れるようなその仕草は、松岡にとって山口が気のおけない相手なのだと教えてくれる。

それを見るともなしに、こちらを視界に入れていたバーテンによって、その隙間を見計らったかのようにサーブされたグラスの色の濃さに山口は苦笑を浮かべた。

「それ、すげぇ色だな」

そ?、と軽く何かに捧げるようにあげられたグラスの色は、山口が飲むものよりも遥かに深く濃い。

「見た目はどうあれ、結構、癖になる味なんだけどね」

飲んでみる?と差し出されたそれを丁重に断ると、山口もどこかゆったりとした仕草で自分のグラスを持ち上げると二人は黙ってグラスの淵を触れあわせた。

 

 

 

二杯目を頼むために、とんと山口の指がカウンターを叩く。

「ここがあの人の行きつけだから?」

ねぇ兄ぃ、とこの二人にしては珍しいほどに言葉一つ交わさぬ静かな時間は口火を切った松岡の言葉に、ためらう間もなく終わりを告げる、おそらくはそのきっかけとなったのであろう音を発した自分の指先を見下ろしながら山口は、なんでそう思った?とついた右手に頬を預けるように体重を移した。

「まず、兄ぃがこんな系統の店に一人で来る事自体変じゃん?それに」

とほんの少し言い惑った松岡に、ん?と顎をしゃくるようにして先を促す。

「あの人のプライベートを詮索して回ってるって噂」

「ンなこと、誰から聞いた?」

「だから、ただの噂だって」

あくまでも相手の名を伏せようとする松岡に向けられるのは、とても綺麗な弧を描いた唇と少しも笑っていない、細められたままの眼差し。

その無言の圧力と迫力に

「山口君さあ、長野君や坂本君にも聞いたんでしょ?」

あっさりと松岡は白旗を上げると、ため息まじりに肩を竦めてみせた。

長野君がさ、何があったんだってすっげぇにこやかな笑顔のまま困惑してたんだよ、何かあったの? そう聞いてきたのは松岡の同期であり、親友でもある井ノ原だった。

「だからさ、何か気になって」

何かあった? と恐らくは自分が売った親友と同じ言葉を使いながらも、少し高い位置から伺うように見下ろしてくるどこか気弱な視線に山口はふと頬に苦笑を浮かべた。

「別に何もないんだけどさ」

そう、何もないはずなのだ。だが。

 

「貴方さあ、最近、妙にぼんやりしてない?」

二人だけの狭い方の楽屋は平素よりも幾分静かな佇まいを見せている。

いつもよりも早い時間の入りだったためか、隣の部屋にまだ人の気配がないのもその一因なのだが、そんなことを気にする封もなく、山口の手の中で広げられた季節外れの海の写真はサーフィンの情報誌だ。それをちらりと見た城島は相変わらずやなあと眦を細めると鏡台の前から山口の向かいの席へと場所を移動した。

「ぼんやりいうんちゃうけどなあ」

何や最近、とみに物忘れがひどなった気がするわ と僅かに潜められた眉がいつもの冗談ではないように思えて、山口は鮮やかな青い色彩から目の前の琥珀色へと視線をちらりと移す。

「記憶力が悪いのは前からじゃなかったっけ?」

ライブ前になると昔のCDや譜面を引っ張り出してくるという笑い話を引合いに冗談を交え、それでも山口は口角に笑みを浮かべてみせた。

「まあ、せやねんけどな」

どうもなあ、こう、と指先が行き場を探すように髪をくしゃりとかき混ぜる。

「鈍痛いうんかな、頭もなんとなく痛いのん続いとうしな」

「あ、せやけど、ほんま大したことないねんで」

目の前であからさまに歪んだ表情に返されたのは弾かれたような返事と困惑を隠しきれぬままの不安定な微笑。

「医者、貴方、確か定期的に検査受けてるって言ってたよね」

「せやけどほとんど血液検査だけやし」

トーンの下がった山口の声に、最近忙しかったから、せやから、と軽く首を竦める様はどこか脅えた小動物を思わせて、仕方がないなあ、と怒りを持続することが出来ずに、ただ、あきれたような口調に変わる。

「それ以上物忘れひどくなったらどうすんだよ」

あなたから言葉奪っちゃったら、何が残るの? と上肢をずいと詰め寄るように乗り出してきた山口に

「えらい言われようやけど」

と笑い滲ませた拗ねたような口調が返る。

「せやけど、気ぃつけんとな。若年性認知症も増えとうらしいしなあ」

「何それ」

「ん?ストレスとかでな、結構若いうちから記憶の低下が見られるんやて」

マジ?やべぇじゃん、あなた と続く言葉に城島はクスクス笑う。

「けど、仕事先やら家族のこと考えたらよう病院に行かれへんとか、まさか自分が 言う人も多いらしいわ」

「とにかく、シゲ」

「何?」

「次のオフは医者に行け」

いいな、と固く握りしめられた拳がどんと響いた机の音に、わかったわかったとどこかおざなりな返事に、約束だからな ときつく言い終えたのだが。

 

「ったく、自分一人の体じゃねぇっての」

「何?リーダー病気かなんかなの?」

よもや聞こえまいというような小さな呟き声にさすが松岡と言うべきか、帰ってきた反応に山口は、軽く口角をあげるように頬を僅かに緩める。

「違うって、そんなんじゃねぇけどな」

最近のあの人の事、全然知らないなって思ってさ と続いた言葉が、先刻の自分の問いへの答えなのだと気が付いた松岡が、そんなの と唇を軽く尖らせてみせた。

「兄ぃが知らないってんなら、俺のんがもっとあの人の事、知らねぇもん」

三十路を超えたばかりの男が『もん』はないだろうと思いながらも、そこは幾つになっても可愛らしい弟分。細められた眼にあるのはどこまでも柔らかく甘さが滲む。

「何言ってんだよ。シゲの気に入りの店とか、好みの酒とか、よっぽどお前の方が詳しいだろ?」

「物理的にはそうかもしれないけどさ」

そう言うんじゃなくてさ、とついた頬杖の中からちらりと伺い見るような拗ねた表情。

「あの人の体調とかさ、精神状態とかさ、俺らじゃ全然見えないもん」

でも、兄ぃは違うでしょ と。

不器用で嘘をつくのが下手なくせに、自分を隠すことには妙に長けた男なのだ、城島という男は。仕事柄だと言われればそれはそうなのかもしれないが、それでも、彼とて一個の人間なのだから。ゆるりと降り積もる疲弊は、どれほど上手に隠してもその隙間から見えてしかるべきなのに。

「いつからあんなに上手くなっちまったんだろうね」

『TO KI Oの城島茂』を演じることが。

そんな彼のうちに密やかに息づく、個としての『城島茂』がほんの僅かに発する信号を目の前の男はいとも容易く受け止めてしまう。

そりゃ、つきあい長さの差だろ といわれてしまえば、それまでかもしれないけれど、でも、自分達とて山口と変わらぬほど長い年月を彼と共に過ごしてきたのだという自負はあるのだ。

「どんだけ羨ましいかわかってんの?」

なのにさ、兄ぃがあちこちでリーダーのこと聞き回ってるなんて他の奴から聞かされるし、と唇を尖らせた剥れたような横顔はほんのわずか頬が赤い。

珍しく少量の酒で酔っているらしい松岡に、山口は戯けるような仕草で軽く肩をすくめてみた。

「けどさあ、結構、皆口堅くってさ」

全然駄目、特に店の人はな、と情けなさそうに目の前で手を振る男に松岡が当然でしょと自慢げに胸を張る。

「あの人が気に入ってる店よ。そんな口の軽いバーテン置いてるわけないでしょ」

そうだよな と山口は小さくごちた。

ここはあの人にとって、城島茂に戻れる場所なのだ。

今、自分達の後ろで、緩やかな水面に漂うように、己自身へと回帰する人々と同じ、ここに居るときの彼はTO KI Oのリーダーでも、ギタリストでもない、ただの城島茂。

そして、同時に、そこに存在するのは自分の見知らぬ男。

ああ、そうか。と山口は肺腑に溜まった空気を吐き出すように浅い声で呟いた。

寂しかったのだ。

ほんの少し交わした会話の隙間に垣間見た見たことのない彼の横顔が。

いつから自分はこの男の一面しか見ないようになってしまったのか と、沸き上がるものは、腑甲斐無さと歯痒さと、幼い子供のような独占欲。

自分の知らない城島が居ることが悔しくて。かといって、彼の後ろをついて歩くわけにもいかなくて。

気が付けば、城島がよく立ち寄ると聞き込んだ店に足しげく通い、あの人が好むという酒の入ったグラスを傾けていた。

 

だが、こんなことをしても何の意味もなさないことなどとうの昔に分かってもいる。

自分の知らない城島を知っているくせにと目の前で素直に松岡は拗ねているが、同時に、山口の知り得ない、松岡しか知らない城島が居るのだと言うことも。

百人の知人がおれば、百通りの城島 茂という人間がそこに存在するのは当然のことなのだから。

そして誰もが自分だけの『城島』をほかの誰にも語りたがらぬ事も。

だが、と山口はゆるりと湿らした唇をぺろりと舐めた。

自分しか知らぬ城島茂の一面だけでは満足し得ぬ程に、自分はあの男のことが好きなのだ。

 

「で、兄ぃ、それ飲み終えたら次行くからね」

「へ?何処に」

まだ、グラスの底に残る酒を軽く揺らしながらも、勢い良く立ち上がった松岡につられるように顎の稜線がきれいに反りあがる。

「何処って決まってるでしょ」

「決まってるって、お前ね」

既に懐の財布を探り出している松岡の右手は軽くあげられ、バーテンを呼び寄せている。

「おい、松岡」

「知りたいんでしょ、あの人のこと」

「松おか?」

「こことおんなじぐらいあの人が気に入ってる店があんのよ」

「それ、教えて良いのか?」

思わず問いかけた山口に、松岡は、訝しげに小首を傾げ、当然でしょとにまりと笑う。

「の代わり、兄ぃの奢りだからね」

 

その言葉に、任せろと唇を歪ませると、山口は、彼の人を思わせる、明るい琥珀色の酒を勢い良く飲み干した。

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