蜜色に甘く透き通る玻璃の空。
天の間から零れ落ちるは金の糸。
広がる白は永久の砂。
さくさくと頽れる砂浜と無幻に連なる蒼い海。
ここは、外界から閉ざされた、誰も知らない二人だけの地上の楽園とにぃと笑うは、猫の笑み。
広げた指の隙間から、さらさらと無音のままにこぼれ落ちるのは、凍った時の欠片に隠された、眩いほどに愛おしく残酷なまでに美しい記憶の雫。
銀の鍵に守られた幼き子供の夢だけを梳いてを紡いだ儚き砂上の楼閣。
ぎりりとつり上がった眦に、うすらと映るは押さえきれぬ怒りか、それとも拭いきれぬ戸惑いか、まさに射ぬくような眼差しと呼ぶに相応しいその毅さとその裏に潜む脆さにも怯むことなく、国分はそれをしかりと受け止めると、にぃと口元をあげるように笑ってみせた。
「心理テストなんてさ、そんなもんでしょ」
何、マジになってんの?そのどこか揶揄うような色を含んだ声音に、山口が、ぐっと喉の奥に溜込んだ息をすっと吐き出そうとした時だった。突然、思考を切り離すかのようなタイミングで鳴り出した周囲を憚るような微かなメロディに、山口は慌ててポケットに突っ込んでいた携帯を引っ張り出した。
「どうしたんですか?」
その唐突とも言える答え方に国分は、わずかに眉を潜めた。だが、そのゆっくりと変化していくその横顔に、国分の問いをぶつけることなどできるわけもなく。
「わかりました。探してみます」
ぱしんと微かな音とともに切れた回線を気にすることもなく、山口がちらりといぶかしむ表情を隠そうともせず自分を見ている国分に視線をくれる。
「わりぃ、太一、行き先変更」
そういうと、踵を返して、今まさに入るはずだった摩りガラスの扉を通り過ぎ、そのまま重力に逆らうことなく坂道を駆け降りていく。
「ちょっと、山口君」
突然の展開に、一歩で遅れた国分に、ひらりとふられる見なれた掌。
「あの人がさ、いなくなっちまったんだと」
「いなくなったってどういうことさ」
その言葉に弾かれたように、慌てて走り出した足音に、一瞬振り返った山口がそのまんまの意味 と苦い笑みを零して。
「どこに行ったのかわかってんの?」
「んにゃ、具体的はわかんねぇよ」
そういうと、とんと数段の階段を飛び越して、すぐさま道を閉ざすかのように見えた低い壁を軽やかに乗り越えたその視線の先。
「海だと思う」
ざんと広がるのは、先ほども対岸から見た青い世界。s
「似合わなくない?」
はっはっっと暑さに疲れた犬のように浅い息を繰り返しながら、唐突に広がった眼前の海に跳ね返る陽の光の眩さに思わず眼を細めた。
「別にシゲは海を見たいわけじゃないからな」
「じゃあなんで海なわけ?」
ざくりと足がつく毎に埋もれるように絡み付く砂地の上を慣れた足取りで駆けて行くその背に、情けないほど息のあがった声が、それでも遅れまいとするかのように山口を追いかけてくる。
「俺」
「山口君?」
「俺が、約束の時間に帰ってこないから迎えに出たんだと思う」
え?
意識が一瞬空を舞う。
だって、なんで、どうして?
自分達の仕事に、約束の時間など合ってないようなものだ。そんなことは、メンバーの誰よりも長くこの世界に居を置いてきた城島が知らないはずはなく。
「で?なんで、海なの?」
結局繰り返した同じ問いにも答えることもなくずんずんと離れていくその背に、国分はいらついたように声を張り上げる。
「自分の目で確かめな」
俺に今言えるのはそれだけだ そう言い残して、再び走り始めたその背を国分は、縺れるように前のめりになる体を支えるようにぐっと足を踏み出すと、その勢いのまま追掛けた。
どれくらい走っただろうか。国分から逃げるかのように、ひたすら駆け続けていた両足が砂浜が途切れるほんの寸前でぴたりと止まる。
ごつりとした岩場に立つ、かけそいそのシルエット頼りなげに揺らぐ姿を見つけ、山口は荒い息を隠すことなく膝に掌を預けるようにしながら、安堵に両肩を落とした。
潮の香りを孕んだいたずらな子供のように戯れる風に逆らうことなく、草葉のようにゆらゆらと揺れる細い肢体。
ほんの一歩、いや、半歩、足をずらしただけでも渦巻く波に攫われそうなその覚束無さに、驚かしてはいけないと思いつつも、ざんと耳をつく波音に負けぬように、喉限りでかの人の名を叫ぶ。
ざん
夕闇を纏う湿った空気の中、打ち寄せる波音に混じる雑音に気が付いたらしい柔らかい猫っ毛の頭がゆっくりと振り返る。
帰ろう
それは、けして大きな音ではなかったがゆっくりと言葉を形作る唇と己へとまっすぐに伸ばされた掌を見下ろして、不思議そうな面持ちでゆるりと傾げられる小さな小首。
しげ
波の音に攫われた彼の人の名に、一瞬、零れ落ちそうな瞳が大きく瞬いて、次の瞬間ほとりと浮かんだものは無色透明な水晶よりも混じりけのない透き通るような微笑だった。
ああ、そうか と山口は城島へ向かって、大きく両腕を広げた。
おいで、声もなく形作られた柔らかな言葉に、こっくりと安堵したような幼子のような面持ちで、その腕の中に躊躇いもなく落ちてきた子供のような所作に、漸く追い付いた国分が音もたてずに息を飲む。
「りぃだあ」
零れ落ちたのは掠れきった老人のような見知らぬ男の声だった。その声に、くすりと山口が乾いた声で小さく笑う。
「病院にさ、電話入れてくれ」
「病院ってどっちの」
思わず振り返った視線の先にあるのは、先ほどはいることなく通り過ぎてきた小さな診療所。そして、国分の手に握られた携帯電話に登録されているのは、目の前で邪気のかけらも知らぬ幼子の笑みで、山口の手にすべてを委ねる男が眠るはずの、ここからは西へ数十キロにある病院のものだ。
「お前が知ってる方の病院の先生でいい」
伝言頼むわ、そう言うと あふり と小さな欠伸をする城島の髪を梳くように指を滑らせて。
「今から戻ります」
そう、言ってくんない ゆっくりと細められた眼に表情はなく、ただその背の後ろ高くにうっすらと浮かぶ三日月のような笑みを浮かべた唇が、ゆうるりと言葉を紡いだ。
じんわりと尻を濡らすように足下に寄せる波の後、柔らかな灰色に染まった砂にゆうるりと描くは意味を持たぬ無数のライン。
だが、次の瞬間には、滑るように打ち寄せた白く泡立った波に攫われるように消えていき、後に残るは、うっすらとした陰影が残るのみ。
ほんの一週間来なかっただけで確実に移り変わっていく季節に、毎日散歩したはずの砂浜は見知らぬ顔を見せ、目の前に沈んでいたはずの夕日は、山口が思う位置よりも少しずれた場所に沈んでいくのだ。
ったくさ、そう喉の奥、ごちる声すら誰にも届きはしないのに、わざと波しぶきの合間に呟くのはどこかに残った理性のせいだろうか。
この掌の中に確かにあったのは二人だけの空間 と山口は薄曇りの空を見上げた。
囲われた世界の中で、刻一刻、確かに零れ落ちていくあの人の命の欠片を自分は見続けていたのだ。
「あんなあ」
普段から、プライベートではさほど早口ではなく、むしろおっとりとしたしゃべり方をする人だったが、ここ数日、とみにゆっくりと、確かめるように言葉を選んでいるのか、どこか辿々しいといっても良い話し方の城島が、先ほどからじっと睨みつけていた文字盤から視線を剥がすようにゆっくりと小首を傾げた。
「わからんわ」
今日は8時は過ぎるからね、ほとんど毎日、病室、城島がいる病室にある空きベッドを寝床にしている山口の言葉に、城島がほんの少し困ったように眉を潜めた。
「わからんって何が?」
腕時計のデジタルの文字盤を確かめながら、素早く身支度をする自分の隣で、同じようにアナログの目覚まし時計の針を見つめていた城島に、山口が逆に問いかけた。
「あんな、これが時間を示す時計やいうのはわかんねん」
けどなあ、一泊おくように、ほうと毀れたため息が忙しない空気を戸惑うようにふるりと揺らす。
「今、何時や、言うのが今一ようわからんねん」
えっと聞き返す山口の目の前に、城島が申し訳なさそうな表情のまま手の中の小さな時計をぐいと差し出して。
「すまんねんけど、帰ってくる時間のところに印入れてくれへん?」
一見、どこまでも広がる空を流れる雲のように緩慢に、だが、瞬きをするよりも短い速さで、失われつつ目の前の人を痛感した一瞬がそこにあった。
「ここ、ここだけを押したらいいから」
新しく購入してきた簡単携帯のボタンの一つに色をつけ、それ以外は触らなくても自分につながるように勝手に設定をして、きょとんとした表情の城島の手に押し込んだ。
「僕んちゃうよ」
「あなたのに電源入れるといろんなとこから連絡入るでしょ」
だから、と笑うと、そないか、すまんなあ と情けなさそうな表情がそれでもわかったとこっくり頷いて、それから山口をしかりと見上げてにへらと小さく笑った。
数字の読めなくなった彼に、今までの彼の携帯電話は使えないのだ。
行き場もなく、周囲を憚るように抑えられた音で奏でられるギターの旋律。 時折、知っている曲から見知らぬ音へ、移り変わっては再び耳になじんだ曲へと移調する。
体が覚えている曲、零れ落ちていく脳の記憶。 それらを具現するかのように、くるくると変わる音。
ゆっくりと、だが確実に切り刻まれていく言葉の渦。 躊躇いなく真っすぐに向けられる琥珀の虹彩に映る己の顔。
ああ、そこにいるのは『山口達也』という存在だけに満ちていく城島茂だった人。
「やっぱ、こんなとこに居た」
呼び出しといて良いご身分だよね たくさあ、と大きく円を描くようにして足に跳ねあがった砂粒を傍らにすくりと立った払い飛ばしていく。
「お前さ、人がいる横でするか?」
普通 と笑いながら、ぱんとズボンの裾を払うと、山口は丸く強張った背を伸ばすようにしてゆっくりと立ち上がった。
「何言ってるんの?」
仕事が終わったばっかりの人間をこんなところまで呼出しといてさ、ったく と肩を竦めると国分は、で? と軽く肩を竦ませてみせた。
「いや、用っていうかさ」
何となく?そう答えた山口にあからさまに顔を顰めると、それひどくね と口角をむぅと小さく歪めた。
「ひどいっつったらさ、あの人、明日の収録、出るって担当医に掛け合ってたよ」
ったくさあ、ついこの間まで死にかけてたくせにさ、とそれは非難するようにいつもよりは低い声だったが、言葉を紡ぎながら緩む眦は綻ぶ花のように柔らかい。
「病室から直行?」
「そ、で、収録すんだらそのまま、また病院コースらしいんだけどね」
らしいっちゃらしいよなあ と顔を見合わせて、苦笑に近い笑みを交わすと、山口は両腕を高く伸ばすようにして反り返った。まっすぐに見上げた空は、まだどこか霞んだように白くけぶっていたが、それでもその隙間を縫うように降り注ぐ目映い光に、山口は逆らうことなく目を細めた。
あの日、国分が城島と山口の居場所を突き止めた、その次の日、城島の手術が行われたのだと。
「この間のさ」
うん、と山口が背後からついてくるのを疑うこともせず、くるりと踵を返すとそのまま、しゃくりしゃくりと砂を踏みしめるようにして前を歩いていくその背に、山口は1センテンスずつ区切るようにして話を続ける。
「心理テストだっけ?」
あ? と直ぐさまかえってくる訝しげな声に、ずっと考えてたんだけどさ とこりりと髪を梳くように頭を掻きながら、苦い色を滲ませたままの笑みをほろりと浮かべた。
「違うような気がするんだわ」
「何、んじゃ、リーダー、先助ける?」
ほんの少し遅くなった足音に、はぁっとため息に近い息を落としながらも山口に並ぶよう国分も歩調も落とした。そのまま逆らうことなく並んだ国分の僅かに覗き込む猫のようにつり上がった眼に、いやと山口は微かに頭を振ってみせた。
「基本的にそこんところは変わんないんだけどさ」
こりこりと鼻先を掻くようにしながら、そのまま立ち止まり、傍らの防波堤に背を預けた山口に倣うようにざらざらの石の壁に背を預けると、国分はそのまま重力に従うようにずるりと座り込んだ。
湿った砂がじわりと尻を冷やすのを感じる。
「その状況だったら、やっぱり、俺の奥さんとさ、子供に木切れ渡しちまうと思う」
「だったら、何?その答えの確認のために俺のこと呼んだの?」
わざわざ?こんなとこまで? と白目がちな三白眼をぎゅぅと見開いて、睨み付けてくる様はなかなかに迫力があるが。
「理由がさ、違うんだよな」
それにかまうことなくいつもの彼らしくないどこか緩慢なテンポで山口がぽつりと答えた。
「俺がさ、嫁さんとガキ助けるために、シゲの手を掴むよりそっちに先、手を伸ばしてさ」
シゲが沈んだら と一瞬、なんともいえない表情に顔を歪めるとふるりともう一度頭を振った。
「もし」
仮定だからな、と確認するかのように一つ頷いて。
「そうなったとしても、嫁さんやガキはさ、ほんの少し哀しんでそれですんじまうと思うんだよね」
「え…っと、それはリーダーが…ってもってこと?」
と語尾を濁しながらも伺う国分に、小さく肯定のように、だってさ、と笑ってみせる。
「その罪悪感や後悔は、その手を掴まなかった俺が被ることだろ?」
そう言いると、あ~あと長い息を一つ吐いて、無意識に探ったポケットの中から引っ張り出したのは、後数本も残らぬ潰れかけた煙草のパッケージ。
「でもさ、もし、逆だったら」
うん、と国分は膝を抱えたまま小さく頷いた。
「あの人は自分を責めるよ」
自分の家族を守らなかった山口ではなく、山口に『城島茂』を選ばせてしまった自分自身の存在を責め続けるのだ。
「俺は、あの人が後悔して苦しむ姿はさ、たとえそれが仮定であっても、見たくないし考えたくない」
きっぱりした物言いに僅かに笑い、国分は、そうかもね と唇だけで相槌を打つ。
「でも、俺が先に手を掴まなかった方は沈んじゃうんだよな」
「ん?」
「あの人、泳げねぇもんな」
そうだね、と国分は、微かに困惑したような表情になった。もしかしたら、心理テストのこと、後悔しているのかもしれないな と山口はそんな国分の髪をくしゃりと掻き混ぜた。
「けどさ、どこまでも追っかける」
「追っかけるって、山口君?」
箱にぶつけられた煙草のフィルターが風のごおという音の隙間にとんっと軽い音をたてる。
「まんまの意味」
そのまま、薄茶色の部分を唇で銜え、胸ポケットから取り出したのはそこに残るガスも疎らな100円ライター。
「あの人が海の中、まっすぐに進んで行くなら、シゲを追っかけてくと思う」
「一緒に沈むってこと?」
んあ と唇の端から白い煙を一筋吐き出して、
「対外的に見たらそう見えるかもな」
「対外的ってどういう意味だよ」
「ん?」
なんていうのかな、そういうと、ふあっと息を吐くように煙を大きく吐き出した。
「俺がさあ、今ここにあるのは、あの人に会ったからじゃん」
「まあね」
それをいったら俺もそうだけどさ、と下から複雑そうな表情のまま山口を見上げる。
「でもさ、今、俺がここに居るのは、あの人がココに居るからなんだよな」
「あ?」
ココと言う言葉の意味を捉え損ねたのか、国分が小首を傾げた。
「あの人が、居なかったら、俺はここにいない」
そう言うことなんだ。
彼女や子供の上に己の存在価値を見つけるのは、これから、まだ、先のことで。
「俺をさ、体現するには、城島茂は不可欠なんだよな」
これまでも、これからも、あの人は自分が“今”ここに居るという存在の意味そのものなのだ。
「だから、あの人を失うことは」
そうだな、と軽く小首を傾げて、すぅと潮の薫りを纏うた空気を深く吸い込んだ。
ああ、これだと。
「空気がなくなるようなもんかもしれないな」
いるのが当然で、いつもは何も思わないけれど、いなければ、息をする術さえも自分は持っていないのだと。
「だからさ」
「でもさ、山口君が居なくなって、悲しむ家族のことは考えないわけ?」
「ん?確かに現実的に考えたら、心配で死に切れないかもしれないけどさ」
女ってさ、結構しぶとい生きもんだからさ、旦那が居なくなっても子供が居たら、平気で生きて行ける生きもんだろ?ま、多少は悲しませるかもしれないけどな、と山口は少しはにかむように小さく笑った。
「だったらさ、なんで山口君は、ここにいるわけ?」
「太一?」
「不安がってたよ」
手術が済んでから全然顔みてへんねん、そう、へしゃげてたと国分は軽く眉を歪めて、あのさあ とこりと柔らかく跳ねた髪をぐりぐりと掻き混ぜた。
「一ヶ月も、山口に面倒見てもうとったんやろ?怒っとうんちゃうやろか って、マジ情けない顔してさ」
もう、僕の顔なんて見たないんやろか。そないに迷惑かけてしもたんやろか そうへしょりと叱られた子供のように眉をきゅっと寄せて、見上げてきた琥珀の虹彩。
「んなわけねぇじゃん」
あの人の顔が見たくない分けない そんなわけないけど、見れないのだ と間髪いれずに叫ぶように否定した言葉は、最後には籠るように途切れがちになり、山口もまた、力を失ったかのようにずるりと砂地に座り込んだ。
「嬉しかったんだよな」
そのまま、表情を隠すように交差した腕の中に顔を埋めると、くぐもった声で小さく呟く。
「だったらさ」
「もう、あんな恐いことなりたないわ」
目が覚めたときあの人そう言ったんだよ 顔見に行ってやりなよ と続きかけた言葉をあっさりと打ち消したのは、先刻よりも少し大きくなった山口の声。
霞のなかに見えるぼんやりとした輪郭、どんなけ手伸ばしてもつかめん雲探しとるようやったで、手術後、意識が戻った城島が心配げに見下ろしてくるメンバーのに苦笑まじりに言った言葉だった。
だが、自分にとっては、1か月に満たない密やかな蜜月だったように思う。
あんな、あんな、どこか子供のような辿々しさで、山口の袖を掴みその日あったことを必死で話す。
城島の周囲に、山口以外に、人がいないわけではなかった。くれぐれもと頼まれた担当医の先輩に当たる老医者や年期の入った看護士と、一日に一回は顔を覗かせるマネージャー。
だが、記憶の曖昧になっていく城島の中、どのようなカテゴライズがされているのかはわからなかったけれど、
「今日遅いん?」
大人の理性と子供の曖昧さ、その挟間で揺れる意識のままに、拗ねたような口調になった男がふいと横を向いて。
「やって、昨日も遅かったやん」
隠しきれぬ寂しさと感情の合間から零れ落ちる本音が、ただまっすぐに自分にだけ向けられるその瞬間、胸の奥にふつりと湧き上がるのは、誰に対しての優越感だったのだろうか。
「太一言ったじゃん、まだ、手術受けられないのかって?」
「ああ、あん時ね」
「本当はさ、もっと早くに手術できてたと思う」
俺が止めてたんだ。
もちろん、言葉に出したわけではない。けど、たぶん、くしゃりと顔を歪ませて。
「誰だって止めるんじゃない?」
「太一?」
「20%だったんだよ」
成功率 と前髪をいらついたように掻き混ぜた。
「あん時は、俺、ただ、悔しかったんだよね」
「悔しかった?」
うん、と微かに頷いて、漸く、見え始めた空の欠片に眼を細める。
「山口君だったことがさ」
その言葉に、ああ、と山口は小さく頷いた。
「わかってんだよ?」
TOKIOのメンバーとして、他の誰かに何を言わせるような間柄ではないことぐらい自分だって自負している。誰よりも信頼してるされてる自信だって、国分にはあった。松岡や長瀬にしてもそうだろう。
けど違うのだ。
決定的な核の部分が。城島と山口。二人の間にある確たるもの。
触れたくてもけして触れることの叶わぬ深淵。
「だから、手術を受けて、さっさと俺らんとこ帰ってこいって思ったし、俺らがずっと心配してるのに、リーダーのことひた隠しにして独り占めにしてた山口君にも腹が立ったし」
でもさ、頬杖をついて、ふっとつくのはため息よりもかけそい吐息の欠片。
「手術室の前、手ぇ握りしめて座ってたむっちゃんの背中見たとき、思ったんだ」
もしかしたら、もう俺は二度とあの人に会えないんじゃないかって。
「太一」
「そしたらさ、情けないことに、手術室のドアぶっ壊して、手術そのものを止めさせたくなった」
この一瞬、一緒にいられるかもしれない時間を奪わないでくれって、そう叫びそうになったのだ。
「でも、お前、あん時、仕事」
「そうだよ、仕事に行ったよ」
薄らと鼻先を赤く染め、国分はふいと山口の視線から逃れるように顔を背けた。
「だって、あの場所に居たら」
その言葉の続きを聞くこともなく、山口は、そうだな と声もなく頷いた。
治るための手術は、誤れば彼を失うかもしれないと、山口自身、人気のない廊下の壁に拳をぶつけ額を押し付け、溢れそうになる声を耐えたのだ。
「だから、山口君の気持ち、少しはわかるかもしれない」
もし、自分が同じ立場だったら と。
目の前で、ゆうるりと流れていくかけがえのない一つの生。
指先からこぼれ落ちる砂のようだと、ぎゅっと握った拳の先を見る。
「どんな姿であっても、目の前から奪われてしまうぐらいなら、止めておきたいと思うよ」
カメラのファインダー越しでは、見ることのできない物静かな男の屈託の欠片もない透き通るような笑み。
迸るように溢れていた言葉が失われても、ただ、己を見つめてるこの瞳があるならば と。
「うん」
ありがとな 太一 指先で照れたように鼻先をぐすりとこすり、僅かにあがった口角に、張りつめていた頬がふわりと緩んだ。
「わざわざこんなところまで呼び出された介はあったのかな?」
からりと笑う振動で揺れた肩がぶつかる。
「おかげさまで」
「なら、良かった」
っと、と眉月のように両の眼を細めて、振り返った国分の手の中で、甲高いメロディが響き渡った。
「やっべぇ、30分って約束だったんだっけ」
バネ付きの人形のようにぴょこんと立ち上がると、そのまんま、ぱんぱんと両手のひらについた砂を振り払う。
「何、お前、今日、まだ仕事あんの?」
「ラジオ」
じゃあね、とくるりと山口に背を向けたところで、ぴたりと両足が止まる。
「しまった、俺、病院行かなきゃいけなかったんだよね」
「病院て、シゲのか?」
ん~、と携帯の液晶を覗き込み、唸ること数秒。
「悪い山口君」
この通り とぱんと目の前で、両手を合わせる。
「俺さ、病院のもん無断で持ってきちまったんだけど、返しといてくんない?」
もう大丈夫でしょ? と覗き込む、チェシャ猫のような笑みに、苦笑を浮かべ、
「そりゃまあ」
今から、シゲんとこ行こうかって思ったから と口の中でぼそりと呟いた山口に、助かったあ と満面の笑顔が向けられる。
「で、何」
手ぶらとしか思えない国分のあたりを見回しても、やはり、何もなく。
「車椅子」
「くるまいす?」
「そ」
先刻とは違うメロディを奏で始めた携帯をぱかりと開いて。
「後、それに付随する荷物が一つ」
ああ、わかってる、それは任せたから、大丈夫、今からすぐに行くから、うん、 そう片手を山口に振りながら、答える先は、さぞや顔色を失っているだろうマネージャーだろうか。
「つうことだから」
ごめんね と悪びれもなく謝る声に、山口は軽く肩を竦めてみせた。それに安心したのか、改めてくるりと踵を返した国分に
「おい、それどこに置いてるんだよ」
「その防波堤の後ろっかわ」
気を付けてね、一応、壊れ物注意っぽいから と既に細い坂道の半ばまで、駆け上がったその背に、おぅ と片手をあげる。
「ちゃんと仲直りしなよね」
「別に喧嘩しとったわけやないんやけどなぁ」
仲直りってなんだよ と唇を尖らせた山口の機先を制するように聞こえた、傍らからのあまりに聞き慣れた声に、恐る恐る横を振り返れば。
「しげ」
その驚いたような声に、へしゃりとどこか情けなさそうに、それでも柔らかな笑みを浮かべた城島が、久しぶりやなあ と車椅子から見上げるように片手をひらりと振っていた。
「久しぶりって、あなた、だって、え?」
まだ、入院中で、え? と二度ほど、既に見えなくなってしまった国分の小さな背を探すように道の奥へと視線を走らせて。
「あいつ、騙しやがったな」
「ちゃうよ」
そう、くすくす笑うと、よっこらしょとなれない手つきで車椅子の車輪をぐるりと回す。
「ああ、やるよ」
くるりと背後に回った山口に、すまんなあ とほんの少し前のめりになっていた体をぽすりと背もたれに預けて、きゅぅと笑みを浮かべた。
「自分からの電話な、病室で受けたんや」
せやから、僕が頼み込んでん えらい荷物やったと思うで。
こっそりと中庭に行く振りで、パジャマの上に羽織った薄手のジャンパーに、もこりとした毛足のスリッパ姿の城島に、目を見開いたのは他でもないここまで運転手を務めたマネージャーだ。だめです と首を縦に振ろうといない彼に、頭を下げて、二人して拝み倒したのだ、後々のお返しが高くつきそうだ と城島は眦を綻ばした。
「シゲ?」
そのまま、黙り込んでしまった城島の旋毛を見下ろしながら、山口が伺うように城島の名を呼ぶ。
「柔らかいねん」
あんなあ、その声に、こくりと頷いて、斜め越しに山口を見上げて、城島がふわりとそう笑った。
「柔らかいって?」
「ここの記憶」
そのまま目映げに細めた眼がゆうるりと砂浜を見渡して。
「ここに来た時の記憶はちゃんとあんねんで」
その後のな、と城島が肩に掛かった山口の手に自分の手を重ねた。
「朧げで頼りのうて、何も見えへんようになっていくのに、 なんや、柔こうて暖かくて、せやねえ、できたばっかりの綿菓子みたいな感じ?」
「や、俺に聞かれてもわかんねぇんだけどさ」
「自分が消えて行く感覚は今思い出しても、怖いんやけどな」
ここで暮らしとった僕は、ごっつぅ幸せやったんちゃうかなてそう思うねん。
「うん」
そう言って山口は。細い 車椅子をゆっくりと押した。
「やからな、ありがとうな」
ごめん ではなく、ありがとうとそう笑った城島に山口は、もう一度、うんと頷いた。
そうか、やっとわかった。
「まるでな、消え行く彼女をそこに留めようとしとうみたいに見えた」
もう、ものすごい昔のようだな と山口は城島の言葉を思い出す。
あなたはそう言ったけど、きっと違うんだと思う。
日々曖昧になって行く現実と夢の狭間で、すべてに戸惑いを見せた彼女に、彼は伝えたかったのだ。
あなたとの日々はこんなにも幸せだったのだと。
だから、ここにいる自分自身に怯えないでと。
ここにはあなたと私が紡いだ幸せだけがあるから、あなたはここに居てよいのだ、ううん、居てほしいのだと、伝えたかったのだ。
「いつかさ、落ち着いたら話してあげるよ」
ここでのあなたのこと。
「約束やで」
そう、いつか俺も話すよ、貴方と過ごした時間がどれほど大切なものか。
「その時にはさ、貴方のおすすめのバーでもつれてってよ」
山口は、そう笑うと、城島の髪にそっと手を伸ばした。