次第に垂れ込めはじめた厚く重たい雲が空を覆い、まだ、夕方にかかったばかりの時刻だと言うのに、どこか薄暗い光に眉根を寄せる。湿った重い空気の匂いに、誰もが自然と早足となっていく。
ふと空を見上げるように立ち止まった男の脇をすり抜ける女性の早足に、男は思わず口角が綻んだ。
雨が降る空を天気が悪いと初めに称したのは誰だろうか。
指先に触れるは、優しい慈雨。
この雫は己が悪いなんて少しも思ってもいやしまい。
週末を明日に控える金曜の夜。
頬を濡らす温い雨。
こんな日は良い事が待っている気がする。
山口はくくっと喉の奥で笑いながら、再び人の流れに倣うように歩き始める。
そう、親方に怒鳴りつけられても、新人が作った足場が少々緩んでいたとしても。
「あ、すんません」
とんっと軽くぶつかった肩に、間を開けずに耳に届いた柔らかな西のイントネーション。どこか懐かしさを覚えるような、だが聞いた事のないはずの低い声に、いえ、と小さく返して、意味もなく二度と会う事のないであろう男の顔を振り返った。
薄い虹彩に移り込んだ、少し高い位置を通り過ぎていく稜線の整った綺麗な横顔。
あの日も、こんな雨が降り出しそうな夜だった。
ああ、何度思い返しても腹が立つ。
がつりと唐突に競り上がった怒りのままに傍らの電柱を蹴飛ばすが、じんと赤く腫れた足にこぼれる溜め息が一つ増えただけ。
一日、二日、三日、日が経つにつれ、いや、増す怒りの源は今は遥か背後にあり、今、ここでいくら腹をたてても、何の結論が出る事もなく、現在の状況が好転するわけでもない。それでも消える事のない不安と相俟ってふっとした意識の隙間に顔を覗かせるのだ。
しかし
くんと鼻を揺らめかし辺りを見回した。
筆で描いたような柳眉を歪める程の怒りも、一日、頭を地面に擦り付けて漸く弟子入りしたばかりの親方の容赦ない扱きに近い仕事を終え、振り返れば昼食を食べる間もなかった、煩い程に泣き叫ぶ腹の虫を誘うように鼻孔をくすぐる美味そうな匂いに、長続きはしない。
ポケットの中から探り出した、ラーメン一杯と替え玉ぐらいは可能な額の数枚の小銭に山口は口角を綻ばした。
この先の安普請のアパートに山口が引っ越してきてから、まだ、1週間程しか経っていない。
だが、周囲を寄せつけない気持ちが良い程豪快な食べっぷりに、居並ぶ常連たちを押しのけて店主の覚えはすこぶる良いらしい。上手く行けば、燻たまの一つぐらいおまけに貰えるかもしれない。
ぽんと空に銀色に煌めく硬貨を一枚空に弾き飛ばして、10人程が順番を待つ列の最後に並んだ。
「なあ、兄ちゃん」
席の順番が回ってくるのに後三人程を残すのみになった頃だった。
「何だ?」
いつのまに其処にいたのか。自分の背後には、ちょうど山口の腰ぐらいの背丈だろうか。まろやかな面立ちの少年が自分を見上げるように立っている。
「こんだけで、食べれるやろか?」
高い声が発したこの付近では聞く事の少ない発音は、テレビで見聞きするよりも柔らかく山口の耳に届く。
「こんだけって、100円か?」
「あかんか?」
これ、今の僕の全財産やねんけど と外見に似合わぬ大人びた口調で、だが、それに反して軽く拗ねたように尖った唇が妙に推さなめいて見え、笑みを誘う。
「ちょっと無理だな。ここのは」
ちらりとくれた視線の先は暖簾の奥。色の黄ばんだ壁に張られた品書きは一番安いもので、550円の文字。
「そうかあ、あかんか」
ぽりぽりと前髪を掻いて薄い肩をがくりと落とすと、少年は、しゃあないなあ、と踵を返そうとした…が。
「お前さ、一人?」
こくり、思わず引き止めた山口の手を訝しむ様子もなく、素直に頷くと少年は小さく口角をあげる。
「家は?」
一度背後を振り返り、それから小首を傾げて知らんとかぶりを振って。
「迷子か?」
「ちゃうで。家出や」
どこか自慢げな表情で無邪気に答えた少年を、山口は幾分呆れたような溜め息と共に頭のてっぺんから足の先までじっくりと見下ろした。
ふわりとした癖のある明るい髪の色が印象的なあどけない可愛らしさを醸し出す面立ち。
つんとした小さい鼻、少し厚い唇 そして、店から洩れる黄味がかった光がもたらす錯覚なのか、透き通るように真っ直ぐな瞳は、綺麗な琥珀を思わせる。良い意味で随分と可愛いらしい子供なのだが。
薄いTシャツはくったりとところどころ汚れがついており、その先からすっきりと伸びたほっそりとした両足の膝は土で塗れ、薄く血が滲んでいた。
背後に並んでいる人の流れを止めないように、山口は少年の細い腕を引き、店を通り過ぎた四ツ辻まで連れていく。
腕を引かれた時も、こっち と声をかけられた時も少年は、軽く小首を傾げただけでさしたる抵抗も見せずに後ろをついてくる。果してこのご時世、こんなに素直で良いものだろうか。他人事ながらも不安になるが。
「これ、全財産?」
「せや。ほんまはもうちょっとあったんやけど、電車乗ってしもたら、こんだけになってしもてん」
お腹すいたから、ご飯食べよおもたけど、どこのおっちゃんもこれやったらあかん て言うから とほんの少し、情無さそうに眉根を寄せる。
「それでも、並んだのか」
あの店には と安心させるように口角を緩めて見せる。
「だって、兄ちゃんごっつう嬉しそうな顔してんねんもん」
やから、旨いんかなあ て食べたなった。
「でも、あかんやんな。びっくりラーメンかて、これと後ニ、三個、お金いるもんな」
一度だけ、店の灯りを名残惜し気に振り返る。
ところでさ、と山口は苦笑を浮かべたまま少年に声を掛ける。
「お前さ、その怪我、どうしたんだ?」
すっかりと血が乾いてこびりついているそれは手当てされた痕もなく白い肌にあまりに痛々しく映った。
「なんかな、こ~んな大きなおっちゃんが ぼく~どっっから来たの? って覗き込んで来たんや。せやから、びっくりしてもて」
逃げた時に転んでん 僕が大きな声で泣き出したらおっちゃん、びっくりしてどっか行ってもうたけど。
「きたない?」
膝頭を両手で隠して一、ニ歩無意識のように後じさる背に触れた掌に小首を傾げて、伺うような眼差しがふるりと揺れる。
「いや、そうじゃないけど、そんな怖い目に遭ったのになんで俺には声掛けた?」
「やって、兄ちゃん悪い人やないもん」
ちゃうん? 邪気もない透き通る視線に、山口は心底呆れたような表情を隠すように、軽く少年の頭上高く広がる空を見た。
湿った空気の中どんよりと雲が垂れ込めた空は、夜の訪れも相まって、光一つ見せもせず。
少年の手の中で銀に煌めく一枚のコイン。
自分のポケットに入った数枚のコイン。
「あ」
ぽつり、白い頬に弾けた雫を目の前の少年が驚いたように指でこする。
だが、ぽつ ぽつ と天から落ちる雨の糸は、次第に量を増し、目の前の柔らかな髪がへしょりと崩れていく。
「仕方がねえか」
袖触れあうも他生の縁 って言うしな。よし、小さなかけ声一つ掛けると山口は、大分湿り気を帯びた少年の頭の上から自分のジャケットを覆うように被せた。
「ここのは無理だけどさ」
きょとんと大きな目を一層丸く見開いた目の前の顔に、零れるものは安心させるようなおおらかな笑顔。
「上手いラーメン食わしてやるよ」
うん、疑う事もなく大きく頷いた子供の満面の笑みに、大きな掌がためらいなく目の前の小さな体を抱き上げた。