Jyoshima & Yamaguchi

雨の金曜日-4-

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耳朶に響いた柔らかな音。
どこか懐かしくて、遠い声。
小さな謝罪一つ落として、傍らを過ぎゆく男の腕を掴んだのは、心にのこったノスタルジー。
訝しむように顰められた表情が、どこか泣き出しそうな幼子に重なって。
我知らず、握り締めた指に力が隠る。
*****

翌日、ほんの少しの躊躇いを残しつつも、近くの派出所に寄った山口を出迎えたのは、人柄も恰幅も良い、どこかのんびりとした警察官だった。
親の連絡先を書いたメモを差し出して、茂の家を教えて欲しいと頭を下げた山口の話を、遮る事なく聞いた後、すまないけれど、と不思議そうな表情で返された言葉に、ただ瞠目する。
「確かに君の家の周辺はここの管轄だが、その時間、そのコースを見回っていた警察官はいないはずだよ」
「でも」
確かに会ったのだと、尚も食い下がる山口に、困惑を隠せぬままに、ただ無為に詳細を書き留めて行く調書の文字。
どこからも出されていないと言う家出人捜索願い。
誘拐の話も聞いていないんだよと。
「じゃ、シゲは?」
最後の頼みと伝えた電話番号には、現在住む人は居らず、彼を見つける術は目の前でぷつりと断たれる。

誰も知らないと言うあの小さな温もり。
あの日、あの時、世界がけぶるように、静かに降り始めた雨の中、佇んでいた小さな笑顔を失いたくなくて。

だが、途切れた道は果てしなく遠かった。

あれから、7年。
当初は、近所の人に毎日のようにシゲの事を聞き回り、不審気な視線にさらされた事もあった。
毎週、飽きる事なく遠距離電話をかけ続け、ある日、唐突に繋がったラインの向う側、聞き慣れぬ声の主に、番号を押すのを諦めた。

同時に、親もとに何度も通い詰め、大工になりたいと父親を説得し続けた。
顔さえ見せてくれなかった1週間。聞く耳を持たんと振返りもしない横顔をみ続けた10日間。
にこりと笑みを浮かべる事等一度もなく、それでも最後には渋々認めてくれた父親が仕方がないと手渡してくれたのは、祖父の形見だという鑿道具一式。
それを手に、棟梁の元、只管修行をする傍ら、建築設計の専門学校にも通い、設計の勉強も始めた。

振返れば本当に瞬く間だったと感慨に耽る山口の周囲で流れた時間は。自分が思うよりも長いものだったらしく、気が付けば、近所の小さかったラーメン屋は都内に数店舗を構えるチェーン店に成長し、茂と遊んだ空き地には8階建ての立派なマンションが建っている。
何れ程その場で足掻こうと歩いた分だけ確実に時は流れ続け、過ぎ行く記憶の輪郭はふやけるように曖昧になり、伸ばした指が掴むものは靄の切れ端。

時々、ふと、思う。
あの時、己の居場所を見つけられずに淋しいと目の前で声に出さずに泣いていたのは、あの子供ではなく己自身ではなかったかと。
自分が尊敬する祖父を頭ごなしに見下す父に腹をたて、ただ、物を作るのが多少好きだっただけなのに、闇雲に反抗し、温かかったはずの家を飛び出した子供の自分。
本当に自分自身が望んで選んだ道だったのかと問われれば、振返ればそこにあるものはあまりにもあやふやで、今となってはとても頼りない塊しか存在しない。
もしあのまま、己を振返る事なく過ごしていたならば、いずれ、酸素を失った鯉のように呼吸を奪われて、行き場のない苦しみにぷかりと腹を出して水面に浮かんでしまったのではないかと。
だが、茂と暮らした僅か二日半は、山口が初めて、そう、生まれて初めて守るべき存在というものを得たあまりに短い時間。
あの中で、家族の事や誰かを守るという事、そして、自分自身と言うものの欠片を見いだした。

惑いに怯える自分の心を写し取って生まれた小さな鏡。
それが、彼だったのだと。

そう、彼は自分自身の欠片なのだ。
だから、ここからは遠い関西の訛りを聞く度に振返り、彼と同じぐらいの年の少年が傍らを駆け抜けて行く度にその小さな背を追いかけたり、確かにそんな事はしていたけれど。
こんな風に、誰かに声を掛けたりする事等、今までありはしなかった。

「えっと、申し訳ないけど、ゆすりかたかりが目的ですか?」
顰められた表情が、ゆっくりと言葉を紡ぎ、惚けたような表情の山口を覗き込んだ。
「え?」
思わず聞き返した声に、琥珀色の瞳がちろりと眺めた先にあるのは彼の二の腕をぎちりと掴んでいる山口の厚い掌。
「あ、ごめん。すいません、俺、つい」
ぱっと慌てたように離されたぬくもりに、
「あ、ちゃうんですか」
良かった と男の表情がほろりと綻んだ。
「もし、そうやったら、僕、勝ち目あらへんと思うて」
ね、思うでしょ と山口の腕の隣に自分の腕を並べて、眦を綻ばす。
「それで、僕に何かご用ですか?」
さりげなく山口を誘うように道の脇に寄りながら、振返る青年は、年の頃は山口よりは一つ、二つ上だろうか。
ならば、茂がこの男の子供である訳がないと、微かに溜め息をつくが、他人の空似と捨ておくにはあまりに良く似た面立ちに、山口はぺろりと舌で唇を湿らせた。
「その、つかぬ事をお伺いしますけど」
「はい?」
軽く頭が揺れるの合わせて頬に掛かる柔らかそうな髪がふわりと揺れる。
「城島 茂っていう名前のご親戚なんて…」
いらっしゃいます? と語尾が消えかける躊躇いがちな問いに、ゆうるりと弧を描いたままの男の笑みは、擦り硝子の向うに薄らと浮かぶ子供の笑みとやんわりとだぶる。

「城島 茂 言う、親戚ですか?」

ゆうるりと傾げられた小首は、何かを考えるように二、三度揺れ、それからゆっくりと、だが、否と頭を振る。
「期待に添えんで申し訳ないんですが」
「ですよね」
そんな都合の良い話がある訳がないのだ。思わず溢れた苦笑いに男も、すんませんと小さく合わせるような苦笑を零した。
「お忙しいとこ、足を止めて申し訳ありませんでした」
いいえ、と、穏やかな表情の男に勢い良く頭を下げると、山口はもう一度軽く会釈をして、その男に背を向けようとした。
「あの」
だが、その場を離れかけた山口を引き止めたのは、男の方だった。
「はい?」
訝しむような表情の山口に、どこか猫を思わせるアーモンド・アイを悪戯な子供のように細めて。
「ぼく、城島茂言う親戚はいいへんけど、城島茂言う名前の人物やったら、心辺りあるんですけど」
「本当ですか?」
思わず、はい、と柔らかく頷いた男の襟元を掴む。
「どこに、居るんですか?」
「ここに、貴方の目の前に居りますよ」
達也さん と初めて遇うはずの男の唇が己の名を綺麗に形作る様を、山口はぽかりと口を開いたまま見つめていた。

ざわざわと人の出入りが激しいファーストフード店の一角。
場所を間違えたか と山口は舌打ちをする。
それでも、今更河岸を変えましょうとも言えずに、スチロールで作られたようなカップを二つ、小さなプラスチックテーブルの上に置く。
隣の皿には、一緒に購入して来たプレーン・マフィンが2つ。
「どうぞ」
紅茶でしたよね、そう告げると、目の前の男は小さくどうもと呟き、厚手のカップを手にとったが、まだ、飲む気はないようで、自分の前に引き寄せただけだった。
逆に、山口は勢い良く蓋を開けると、渦巻くような濁りを見せるカフェ・オ・レを口に含む。
多少熱すぎるのが難点だが、すっかりと渇ききっていた喉が喜びの声を上げる。
「ふう」
思わず溢れた吐息は、溜め息と言うよりは声に近い
「あの」
目の前の、自称・城島茂が、どこか居心地悪気に軽く身を捩りながら、山口を見る。
「僕、やっぱり、失礼しますわ」
そう、先刻、厚顔にも、城島茂だと名乗った男は、あまりに惚けたような反応の後、山口が向けた刺すような疑惑の視線に耐えかねたように、踵を返しかけたのだが、再び、それを引き止めたのが山口のがっちりとした掌だった。
そして、相手に有無を言わす暇を与えずに、連れ込んだのがこの店。
まあ、すぐ目の前にあったというだけの理由なのだが、あまりフ人の出入りの多さに、こんなとこでする話じゃなかったかなあ と軽い後悔に陥る。
それでも、このまま黙り合っていても埒が明かないのも事実。
「貴方が言ってる『城島 茂』と俺が捜してる『城島 茂』が同一人物かって言われたら、違うとは思うんだけどさ」
年齢が違い過ぎるから、ともう一口、滞りがちな舌を潤す。
「けど、全く無関係だって言うには、貴方、シゲに似過ぎてるし、それにもう一つ。なんで俺の名前知ってるの?」
じろりとねめつけるような視線に、畏縮したように身を小さく縮込めていた男が、はあっと全身から力を抜く。
「しゃあないわなあ」
信じてもらえんでも、と冷めたのを確かめるように、透き通るようなダージリンを口に含んだ。
「貴方が城島 茂だって言うのは否定しないよ」
噛み付くような勢いでマフィンを齧ると、もさりとした生地に漸く潤いかけていた口内の水分がきゅっと吸い込まれて行く。
「けどさ」
「おん、同一人物やないやろ?それはわかるわ」
僕かて、ほんまにそうか、未だに信じられんもん と何かをふっ切ったようにすっかりと砕けた口調になると、胸ポケットから取り出されたのは深緑の皮で作られた定期入れ。
「別に名前見せて貰わなくっても」
「ちゃうよ」
自分に見てもらいたいんは、こっちや と定期入れの中のカードケースの中から小さく折り込まれた紙片と一つの古ぼけた鍵を取り出した。
端々が薄茶色に変色し、すり切れた折り目は向う側が覗ける程に薄い紙切れを、細長い指がそっと開いて行く。
「これ」
見覚えあらへんかな そっと置かれた紙の横に並べられたのは山口にとってあまりに見慣れた形の鍵だった。
そして、その紙の上に書かれた文字は、紛うことなく山口自身の文字であり、そこにあるのは己の住所。
「自分が迷子にならんようにて、別れ際にくれたもんやけど」
「ちょっと待ってよ、貴方、老けて見えるけど、実は中学生なんて事は」
「見えるか?」
これみよがしに目の前で煙草を取り出した男に、そうだよな と山口が苦笑をする。
「残念ながら、僕は、今26歳のおっさんやよ」
「って事は、やっぱり俺より年上だよね」
あ、俺25歳ね とマフィンの残り半分を口の中に放り込む。
「で?俺が知ってる茂君は、7年前、小学校の一、二年生っていったところだったんだけどさ、今目の前にいる茂君は、俺より年上の理由って何なんでしょう」
「さあ、わからんよ」
あっさりとした応えに、苦笑を深めるしか方法がない。
「僕かて全然、わからんねんけどなあ、あん時、僕は確かに自分に会うて、ラーメン食わせてもうたんは、覚えとうよ」
「ラーメン?」
「そ、ラーメン。インスタントやったけどな」
と片目を瞑る。
「おかんに叱られて、何処行ったらええかわからんようになって、歩いとったところを自分に助けられた、ほんま、あん時は助かりました。ありがとうございました」
お礼を言うにはえらい遅れてしもたけど と照れたように笑みを零す。
「シゲだよなあ」
そのどこか力の抜けそうな柔らかな笑顔と、独特のテンポのしゃべり方はさと山口は、降参といった風に両手を挙げた。

「けどさ、貴方があのシゲだったら、何で貴方こっちに出て来てるのに会いに来てくれなかったんだよ」
「行ったで。会いに行った」
初めてこっち来た時、と視線を空に彷徨わせた後、中学ん時な、と茂がぽつりと言葉を落とした。
「中学生?」
「そ、今からかれこれ10年以上前になるやろうか。修学旅行の時やね」
自由時間、同じグループの友人に頼み込み、一人だけ別行動を取った。手の中に握り締められた住所を頼りに、訪れた記憶の場所。
だが。
「自分と遊んだ空き地にはえらい古びた家が壊れそうに揺れながら建っとってな、ラーメン屋なんて影も形もあらへんかったわ」
それでも、ラーメン屋は潰れたんやと思い込み、家は記憶違いの場所やったんかな と山口の住むはずのアパートを訪ねたのだ。
「表札には違う人の名前が掛かっとった」
「シゲ」
「でもな、僕、滅茶諦め悪いんかしらんけど、大学、こっちに出て来る事になったから、もう一回来てみたんよ」
元々方向音痴やしな、とからから笑う。
「不思議やった。今度はな、記憶通りやねん。古びた家があったはずの場所は、ちゃんと空き地になっとって、ラーメン屋は行列こそまだしてへんかったけど、ちゃんとそこにあんねんで」

あり得ない現実が目の前に広がって行く。
幼い頃の自分がみた光景。
中学生の自分がみた景色。
そして、今。
笑い出しそうだった。一欠片の疑問も持たず、ただ達也に会いたいとそれだけを願っていた愚かな自分に。
あの頃、奈良の片隅に住んでいた幼い自分が一体何をどう乗り継げば、この地まで辿り着けたと言うのだ?
それさえ、疑いもせず、ここに立つ自分の愚かさに、アパートに行く事さえ出来ずに、元来た道を取って返したのだ。

「その後、大学卒業して一旦は大阪の会社に就職したんやけどな」
東京本社への転勤の話になって、こっち来たんは、一昨年かな と鞄の中から一冊の雑誌を取り出した。
「造園関係の会社やから、仕事柄こういうのもよう読むんやわ」
その中に貼られている付箋の頁を繰った山口が軽く目を見張る。
「これ」
「まだ、若いけどええ仕事する大工兼建築家の事が紹介されててん」
嬉しかったなあ と組んだ指の上に頬を置き、まっすぐと山口を見据える。
「知ってたならなんで」
「見も知らん男が、のこのこ会いに行けると思うか?」

歪んだ時空。
重ならない時間。
目の前にいる男の中に自分の記憶等一欠片もないかもしれない。
もし、奇跡的に彼にも『城島茂』の思い出があったとして、それは彼の腕の中で眠る程に幼い子供。
今の自分ではない。

「お守りやってん」
居場所を見つけられず泣いた時、転校の繰り返しで友達ができなかった時、それでも、帰っておいでと言ってくれる空間があるのだという温かな記憶が自分を支えてくれた。
「それを否定されてしもたら思うたら、情けないけど…」
現に と今日、目の前の彼は自分を彼の知る『城島茂』だと認めようとはしなかった と軽く伏せられた虹彩に過った淋しさに山口は唇を噛んだ。
「ごめん」
「自分の所為やないよ。疑うて当たり前や」
信じる方がおかしいやろ と綻ぶ笑みは、切なさを隠して、いってらっしゃいと笑顔で山口を見送った子供のもの。
「でもさ、貴方、シゲそのまんまじゃん」
なのに、俺 と机の端、握りしめた拳が音を立てる。
「山口さん」
「達也でいいよ。貴方そう呼んでたじゃん」
「けど」
「でないと、俺も、城島さんて呼ばなきゃならなくなるでしょ」
貴方の方が年上なんだから、と奇麗なウィンクに、茂が軽く目を見張りそれからやんわりと破顔する。
「けど、悔しいっちゃ悔しいよね」
「何が」
すっかりと空になった皿を横によけると灰皿に煙草を転がす。
「だってさ、年上なのは仕方がないとしてもさ」
貴方、と上目遣いのじとりとした視線に城島は、思わず背凭れにぴたりと背がぶつかるまで後じさった。
「俺より背高かったでしょ」
それがすっげえ悔しい、あんなに可愛かったのにさあ、俺よりでかくなるなんて詐欺じゃん詐欺 と突っ伏した男の後頭部を見下ろして、
「阿呆か、自分」
と呆れたように溜め息を一つ。
「阿呆って何だよ」
「そんなごっつい図体しとって」
羨ましいんは、こっちの方やわ とぷくりと頬を膨らませた。
「仕方ないか」
「しゃあないやろ」
ないものねだりはせん主義やねん と言いながらも腕を見比べる茂の子供のような仕草に山口も声を上げて、あ~あと笑う。
「けどさ、よく考えたら、貴方が中学生じゃなくって良かったかな」
「なんで?」
「だってさ、酒一緒に飲めるじゃん」
「へ?」
きょとんと浮かんだ表情に、 返されるのは満面の笑み。
「で、どう?これから時間あるなら、再会を祝して」
「ええね、明日は休みやし?」
「祝杯と行こうぜ」
ぺこりと空のカップをぶつけると二人は同時に立ち上がった。

「そしたら、飲んだ後のラーメンは僕の奢りやね」
「なんでさ」
「自分が言うたんやん」

『今度、シゲがここに来た時、これで俺にラーメン奢ってよ』

再び出会えた温もりは、自分の想像とは大分違っていたけれど。

窓の外を見れば、灰色のコンクリートを黒に染め上げるように降り出す温い雨。
週末を明日に控える金曜日。
自分を待つ誰かの温もりを求めるように、通り過ぎて行く誰もが早足になる。

天から注ぐ優しい慈雨に包まれるこんな日は良い事が待っている。

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