世界は音に満ちている
誰の言葉だったかは、覚えてない。
ただ、ああ、そらそうだろうな、と思った事は覚えている。
だって、ほら、世界はこんなに音で溢れているのだから。
とんとんとん、小さく指先で幹を叩くと、途端に零れ落ちて来る音の羅列。お菓子の箱を振るようにその木々の葉を揺らせば、頭上から降り注ぐ半調のような旋律。
それらを拾って、耳の傍で軽く振るが、今ひとつ満足できる音じゃない。
けど、仕方がないか と国分は、それを鞄の中から取り出した薄いブルーの色がついた硝子の瓶に放り込むと、きょろきょろと辺りを見回すと、少し離れた場所に落ちている、半分透き通るような石を拾い上げるとその音を確かめるように、それを軽く振ってみせた。
世界には音が満ちあふれている。そんな事は、生まれたばかりの赤ん坊だって知ってることだ。当然だ。赤ん坊が生まれた瞬間から、その赤ちゃんの音は始まっているのだから。
つまりは、それと同じ。石がこの大地に存在するにも、緑色の小さな四葉のクローバーが風に揺れるにも、音が生まれる。
その音を探して拾って、音楽を作る。それが、国分太一の選んだ仕事だった。
生まれたときから、音を見つける事が得意だった太一は、野原を走り回るよりも先に、草葉の先で揺れている音を見つけ、それを友達の前でポケットに突っ込んでいる薄っぺらなキーボードで弾いてみせた。
「太一はすごいよな」
「音師になれるんじゃない」
その音は、他の誰が見つけて来る音よりも透き通って綺麗だったから、友達の誰もが、いや、太一の『音』を聞いた大人までもが、口を揃えてそう言ったものだ。
だから、太一自身、音師になる事は呼吸をするよりも自然なことだったし、他の道を考えた事等爪の先ほどもなかった。髪の毛一筋分ぐらいなら、サッカー選手になるのも良いかなとは思ったりはしたことはあったけれども、やっぱり自分は音師になるんだと信じて疑わなかった。
「ありがとっした〜」
いくらかの仕事量を貰って、とんと扉を閉める。
壊れてしまった人形の音を聴かせて。それが今日の依頼だった。自分の半分程の年齢の少女が片手の折れてしまった人形の音を聞いて、きゅっと唇を噛み締める姿に、ちぇっと小さく舌打ちをする。
本当に大好きだったんだろうな。零れ落ちて来た小さな音は透き通る硝子のように優しくて、繊細で、同時に哀しくなるような不協和音。
仕方がないよね。壊れちゃってたんだから。
両足でとんと石段を飛び降りる。と同時に、たんっという心地よい音が辺りに響く。
これが正しい音、と国分は、大きく頷いた。
音師の仕事は、単純だ。
木々の音を拾い、草の揺れる音を瓶に詰め、風の隙間から音を紡ぎだす。
仕事に疲れた人が、湖の揺れる音を願えば、鞄に詰め込んだ小さい瓶の中から、薄青の光を放つそれを引っ張りだして、その音を誰にでも聞こえる音に置き換える。
この間のように、大切にしていたモノの音を聞きたい、なんて依頼もある。稼ぎは良いけど、大抵が壊れているものの音だったりするから、希ったような優しい音じゃなかったりするから、結構落ち込んだりもするけど、依頼主が納得すれば、OKなわけだし、落ちて来る音が壊れているのは、音源が壊れているのだから、諦めるしかない。ずっと、そう思っていた。国分の回りの音師は、皆口を揃えてそう言うし、そんな中でも、より繊細な音を拾うことのできる国分は、重宝される存在だった。
だけど。
その日も、乞われて音を拾いにいった帰りだった。なんでも、恋人に貰ったワイングラスだったそうだ。それが掌から滑って落ちて見事に木っ端みじん。せめて、音だけでも手元に残したい、そんな依頼。
確かにね、どんなものでも音は拾えるけどさ と国分はパーカーのポケットに手を突っ込んで、緑の降り注ぐ公園の柵をひょいと飛び越える。あれだけくだけちゃったら、音はとっても小さくて、聞き分けるのが大変なんだ。
予定の倍以上も掛かって拾った音は、それでも依頼人が嬉しそうに抱きしめてくれたから良しとするけれど、やっぱり心地よい音じゃないよな、と舌を出す。
公園の端のブランコの横、数人の人が固まっているのに気が惹かれ,国分は、すぐ傍にあったジャングルジムによじ上るとそのてっぺんにちょんと腰を下ろした。
♪〜
あ、気持ちよい音。
どうも人だかりの中央にいる二人組が、音を出しているらしい。
♪〜 ♪
何の音だろう、連なって聞こえる音は、とても優しくて、そこには音の摩擦はない。
そんなことあるわけない、と国分は、軽く身を前のめりになる。
だって、中央でギターを片手に男が音を聞いているのは鎖の折れたブランコだ。
ほら、と耳を澄ませば、確かに聞こえる音の断片は、彼らが落とす音と同じだけど、どこかが違うのだ。
なんで?
どうして?
風に乗って耳に届く音は、時に楽しく、時に胸がきゅっと引き絞るように連なり、空気の狭間を流れて行く。
「なんで?」
「何がや?」
無意識に口にした問いに、真正面から問い返され、国分は思わず、ととっと後じさった。
「な、なんで、あんた、目の前にいるんだよ」
「なんでてなあ」
そう言うと、西の訛りらしい男は、なあ、と傍らに立つ男に小首を傾ぐように同意を求める。
「自分で、目の前までにじり出といてそれはないよな」
そう、応えた男に、国分は慌てて隣を振り返れば、先刻まで視界に居たはずの人々が自分の背後にいるという状況だ。
「と?俺?」
思わず、薄らと紅くなった頬に、男はにこりと笑い、ちょぉ、待っとってな、と途切れていたギターの弦をゆるりとした仕草で奏で始めた。
「で?太一君は、僕らに何のようなん?」
それから、半時間ばかりが過ぎた頃、ブランコから少し離れた鉄棒の足下に座り込んでいた国分の元に、各々の楽器を手に先刻の二人組がひょいと覗き込んできた。
「だからさ、さっきの」
とそこまで言いかけて、国分は、軽く小首を傾げた。
「俺、名前言ったっけ?」
「言ったって言うたら言うとるかなあ」
なあ、と国分の前に、胡座を組むように座り込んだ傍らの男に、同意を求める。
「お前さ、結構自己主張強いだろ」
太一太一って、うるっせぇんだよ、ととんとんと胸元を指差した。
「え?え?人の音も聞こえるの?」
って、名前叫んでるの? そう言うと自分の躯をぱたぱた叩き回った後、あれ、と目の前の男を見、その後、足下から面白そうに見上げている男を見下ろした。
「アンタが茂で…」
こっくりと頷いた男に喜色を浮かべると、足下の男をもう一度見下ろした
「で、アンタ、シゲっての?」
その言葉に、茂と呼ばれた男がげんなりとした表情になり、足下のシゲかと問われた男が照れたように笑った。
「シゲってのは、この人の事、俺は達也、山口達也だ」
よろしくな、と目の前に出された掌を見下ろし、そのままねめつけるような眼で山口を見る。
「なんで、シゲシゲって聞こえんの?」
「そりゃあ、シゲの事愛してっからね」
そう、事も無げに言いきる山口に国分は軽く顔を顰めた。
「ぐっさん、ひかれとるがな」
呵々と笑うと,鉄棒に片腕を預けたまま、
「僕は、城島茂言います」
よろしぅな と城島が笑った。
「さっきの何?」
喉が渇いたと言う山口に、三人は缶ジュースを買って、公園の芝生の上に車座に座り込む。それを待ちかねたように、口火を切ったのは国分だった。
「さっきの?」
「だから、アンタたち、壊れたブランコの音拾ってたでしょ」
「おん」
「それ、音に変えた時、何ていうのかな、音がさ、連なってるっていうのかな」
ん〜と言葉を探すように、顔を顰めた国分に城島が不思議そうな表情になる。
「それ、自分もやったやん」
先刻、そう言うと途端にいぶかし気な表情になった国分に、山口が,僅かに口角を歪めた。
「この人の名前、音としてじゃなく繋がりとしてちゃんと拾えてたじゃん」
その言葉に、国分は、ううっとうなり声を上げた。
「そしたらなあ、太一の鞄に入っとうもん見せてみ」
そう言われて、軽く顔を顰めたまま引っ張りだしたのは、柔らかな和紙に包み込まれた硝子の欠片だ。
「これ、今日、音にして聴かせて来たんだけど」
こらまた、見事に壊れとうなあ、そう笑うと、城島は硝子の欠片をそっと指で掴み上げた。
「ん〜♪」
唇から溢れるのはとても綺麗な音だ。でも、と国分は心の中で愚痴る、その音なら俺も見つけたと。
だが、その次の欠片を拾い、次に、また違う欠片を選ぶように拾う。その度に溢れる音は、先刻聴いたブランコの音のように摩擦がない。
「それ」
それそれそれ、そう言うとだんと芝を叩いた勢いに、和紙の上の硝子がざらりと揺れる。
「自分ら、音師は、音を拾うて聴かせとるんやろ」
こくっと頷いた国分に城島は、ほれ、と今唇で紡いだ音をギターの弦で、ゆうるりと奏で始めた。
「これが旋律や」
「メロディ?」
「そ、音師は音を拾う、拾うた音をそのまま『音』として人に聴かせる。せやから、いくら綺麗な音を拾てもそこには、何の関連性も見いだせん。けどな、よう聴いてみ」
素直に眼を閉じて、耳を澄ます。
小さな小さな硝子の音。さっきまでは、不協和音のような重なりで、
「これって」
「気付いたみたいやな」
世界は音に満ちている。
同時に音には秩序がある。そう言うと目の前の男は楽し気に、ギターの弦をほろほろと奏で、その横の男は、こくりこくりと喉を鳴らす。
「拾た音を、音が望むように一個一個紡いで行くんや」
ほら、聞こえる音が旋律になり、『音』は世界で一つの『曲』になる。
「音を楽しむ、それが音楽や」
「音楽?」
「せや、僕らは『音師』やない、音楽家…」
そこまで言って、照れたように笑った。
「まだ、勉強中やけどね」
そう言うと、城島のジュースにまで手を伸ばしかけていた男の頭をごつりと叩いた。
「自分なあ」
「いいじゃん、喉乾いてたんだから」
「アンタも音楽家?」
「卵だけどね」
城島の話に耳を傾けていた風にも見えなかった男が、まあね、と眼を細めると空になった缶を二つかしゅりと握りつぶした。
「俺にもなれる?」
そう言うと、二人は顔を見合わせた。
「なれるかどうかじゃなくて、なるかどうかだろ?」
せやね、城島も、頷きながら立ち上がると尻に付いていた草葉をぱんと叩き落とした。
「まあ、手始めに、そのグラスの音を紡いでみ、ええ勉強になると思うで」
じゃあな、と背を向けた二人に、国分は慌てたように立ち上がった。
「ちょっと待ってよ、あんたらどこに住んでんの」
「そこ」
指の指した先にあるのは、公園の管理小屋だ。
「しばらくの仮の宿や」
「しばらくって何時までだよ」
「気が向くまでな」
そう言うと、背をむけたまま、振られた手の甲に、
「俺がこれ紡ぐまで居てよ」
「気が向いたらな」
国分は、ぎゅっと和紙に包まれた硝子を握りしめた。
粉々に砕けた無数の硝子。
音は既に『音』として国分の中にある。
だけど、と国分は目を瞑って硝子の声を聴こうとするが、興奮してるせいか、ふんと荒い鼻息をつくたびに舞い上がる硝子の欠片。
その度に、零に戻る作業に、ほんの僅か泣きそうになる。
だが、その合間に、何度か訪れた公園の隅から聞こえる旋律に、絶対負けねぇ と細い腕に小さな力こぶをつくった。
柔らかな旋律。
透明な憧憬。それを見続けていたグラスの欠片。
そこにあるのは玻璃の夢。
薄く乾いた音を立てるキーボードが最後の音を奏で終えた時、城島はにこりと笑みを浮かべた。
「ええ曲やな」
十分じゃん、と隣で山口もにやりと応える。
「自分が奏でたんは、この子ぉの声で、この子の歌や」
大事にしたり、愛し気に触れる硝子は既に半分ぐらい空気の中に消えて、拾える音も後僅かだ。
こんな風に物は生まれ、そしていつしか空気の中に溶けて行くのだ。
それを形として残すのが『音師』だ。
「ほな、元気でな」
国分の『曲』が出来るまで、と予定より長く居着いてしまったと笑いながら、立ち上がった城島を国分が見上げ、軽く肩を竦めた。
「やっぱり行っちゃうんだ」
「まだまだ、修行中やしな」
「何?俺たち行っちゃったら寂しい?」
からかうような山口の口調に国分は、まあね、と笑いながら立ち上がった。
「なんだ、ついてくって言い出すかと思ってたんだけどな」
そのまま、仕方ないよね、と眉を顰めながらも口元を緩めると言う器用な表情を見せた国分に、山口が拍子が抜けたように顔を歪めると、国分は、尻に付いていた土をパンと勢い良く払った。
「ついて行こうと思ったんだけどさ」
「けど?」
「俺も『音師』なんだよね」
この街の、と大きな眼を柔らかく細めた。
「それにさ、今の俺じゃ、あんた達にくっついてってもお荷物でしかない」
この一ヶ月で思い知らされたのだ。
「物が紡いだ音を奏でてるようで、あれ、アンタたちの音だ」
俺には出せない、と。
「それに、アンタ、城島さんが聴いてるの音だけじゃないよね」
その言葉に城島が僅かに眼を見開き、山口が、へぇ っと小さく感嘆の声を上げる。
「言葉、紡いでるよね」
この男の指から奏でられるギターの旋律と寄り添うように、声にならない言葉が聞こえるのだ。
「始めは気の所為かと思ったけど、違った」
「やっぱり自分、耳ええんやな」
「あれ、何?」
どうしようか、と小首を傾げた城島の代わりに応えたのは、半歩後ろに居た山口だった。
「物の中には、音と一緒に小さな詞が並んでるんだって」
俺には聞こえないけどさ、と眉を顰め、傍らの城島を見る。
「その詞を一つ一つ拾って歌詞を生み出す」
それが、この人の夢、と。
「俺、音師としては耳がいいって思ってた」
だが、悔しいけど、今の自分に『詞』は聞こえない。
だから、と大きな眼をいっそう見開いて、とんと城島の胸を叩いた。
「いつか、絶対戻って来てよね」
「太一」
「それまでに、絶対、アンタたちに負けない『音楽家』になってみせるからさ」
だから、と鼻をぐずりとすすり、にかっと笑みを浮かべる。
「その時は、俺の『曲』にアンタの『歌詞』紡いでよ」
柔らかく落ちる日差しの中、小さくなって行く背を見送りながら、国分はそっと眼を閉じた。
ゆるゆると揺れる風、木々の声、鳥の囀。
世界は音に満ちている
どれほど耳を澄ませても無限に広がる旋律は、青空よりも果がなく、大地よりも深いのだ。
とんとんと、地面を蹴って、土の声を聞く。
空を見上げて光の音を受け止める。
その中に、そっと息ずく彼らの声を、自分だけの『音』にするために、
「さてっと、今日の依頼へと行きますか」
新しい自分が歩き始める。