Jyoshima & Yamaguchi

雨の金曜日-2-

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「シゲちゃんって母ちゃん呼ぶねん」
雨の中、濡れ鼠になった子供は、ほこほことした湯気に包まれながら、温もりをそのまま表したような柔らかい笑顔を浮かべた。

 

*****

名前は? 嫌と言う間もなく剥ぎ取られた服は、目の前の洗濯籠の中に放り込まれ、頭上から振ってくるシャワーの渦に目を細めた子供は、頬を流れる雫を両手で払いながら、しげる 城島 茂言うねん と小さく笑った。
「シゲル、シゲね」
真っ赤な頬でこくりと嬉し気に頷く茂に釣られたように山口も笑みを浮かべる。
「俺は、達也ってんだ、山口 達也 よろしくな」
大きくはないハンドタオルでごしごしと明るい猫毛の湿りを拭い取る。
「たつや?」
「そ、達也」
小さな体にぶかりと着せられたTシャツからそろりとのびた細い足をぱたりとソファから落として小首を傾げた。
「兄ちゃんやのうて達也?」
「どっちでもいいけど、俺、シゲル君の兄貴じゃないでしょ」
「せやけど」
どこか不満げな口調にくるりと背を向けると、腰辺りまでしかない冷蔵庫を覗き込み、取り出したのは萎びたニンジンとキャベツ、生卵二つ。
一個しかない鍋に水を張り、据え置きタイプのガス台に掛けると、乾物を纏めて放り込んだ段ボールの中から取り出すはなけなしのインスタントラーメン二つ。
「とりあえずさ、飯食って、今夜はここに泊まりな」
雨止みそうにないし、窓の外、叩き付けるような雨音に耳を澄まし、口角をほとりと揺らす。
すべてを覆い隠す激しい雨の中。
一人じゃない事がどこかくすぐったくて。
物珍しげに辺りを見回す小さな横顔にこっそりと口角を緩めた。

目の前に差し出された100円玉を訝しげに見つめる山口に、茂は何故か得意な表情でそれを山口の掌に押し付けてくる。
「これ何?」
「何って100円玉」
みてわからんの? と少し悲し気に歪んだ表情に山口は慌ててそれを受け取る。
「や、それは分かるよ。でも、シゲはそれを俺に渡してどうしたいわけ?」
意味を掴み損ね、どこか苛ついたような表情でがしがしと濡れた髪を無造作に擦る。
「やって、僕、たつやにご飯食べさせてもうたもん」
ラーメン食べてもこれいるんやろ? やから と面映げな笑みを浮かべた少年が、ここ山口の小さなアパートに転がり込んでから丸二日が過ぎていた。

あの日の翌日、山口は小さな手を握り締めて、茂を改めてラーメン屋の前まで茂を連れて行ったのだが。
「全然わからん。なあ、ここどこ?」
大きな目を零れそうな程一層大きく見開いて、両脇に並ぶ家々を見回すと小首を傾げる。
「どっち方面から来たかもわからねえ?」
「うん、わからん」
「ここはね、東京の」
わかるか? 自分を見下ろすような視線に茂は生真面目にこくり頷く。
「○●区ってとこなんだけど」
で、俺が住んでるのはそこの◆◇町の3丁目なんだけどな
「ぼくな、ならのな、●●」
「なら?」
「知らん?ならはならや」
「奈良ってあの鹿で有名な奈良県か?」
「うん、ここな、もっちょっとちっさい時にしかのえ~っと、つの? にひっかかれてん」
血がな、どぱっと出て、すごいびっくりしたわ と指先で指し示す指の下に、薄らと見える皮膚の引き攣れ。
「そりゃあ、災難だったな、って。そうじゃなくて、今、シゲが住んでるうちはどこなんだって?」
「やから、なら」
問い返された意味を捉え損ねたようにきょとんとした表情の茂に山口は肩を竦めた。

「なあ、なあ、これなに?」
ぽん と軽く放り投げられたコインの軌跡を追う視線を遮るように、差し出された木の箱に山口は眼を細める。
「寄木細工の秘密箱だよ」
「箱言うても開かんで?」
「だからな」
蓋も抽き出しもびくともしないそれに焦れたのか、今度は見境なしにぶんぶんと振り回している手の先から箱を受け取ると締めった髪から流れる雫をタオルで拭き取り、悪戯な表情で見ててみな と片目を瞑る。

とん

模様を押す器用な指先を食い入るように見つめる琥珀の瞳。
まるで、親の敵でも見るかのようなその視線に苦笑を浮かべつつも、山口は指が覚えているままに箱の壁面を触って行く、と、やがて何の引っかかりもなく、すとんと飛び出して来た抽き出しに、睨み付けていた幼い表情が陽光のように輝き、驚きにぽかりと開いた唇が満面の笑みを浮かべる。
「すご、めっちゃすごい」
「すげえだろ、これさ、小田原に住んでる俺の爺ちゃんが作ったんだ」
大工だったんだけどさ、指先が器用でよく玩具を作ってくれた と。箱を眺めるように膝の上に座り込んできた目の前の髪を指で梳く。

『うまいうまい、本当に達也は手先が器用だな』
皺くちゃの顔に一層深い皺を刻み込んで、よくこうして頭を撫でてくれた祖父。

だが、暖かな祖父の記憶に寄り添うようにある物は、爺ちゃんの跡継いで、大工になるか? 組み木を作りながら、そう笑った祖父の言葉を頭ごなしに怒鳴りつけていた父の横顔。
冗談じゃない 譬えどんなに腕の良い大工でも、機械化の進んだこのご時世何の役にも立たないんだよ。あんたのその棟梁としてのプライドだかなんだかしらないが、そんな金にもならないもののために何れ程家族が苦労したと思ってるんだ と。
良い学校に進んで、一流企業に勤めるのがこいつのためだと、祖父の足下に纏わりつく息子の腕を力任せに引っぱる腕。
それを黙って見つめる悲し気な祖父の瞳。

「すごいなあ、なあ、たつやもこんなん作れるん?」
気が付けば、山口の掌から取り上げた箱をクルクルと回しながら期待に満ちた眼が太腿の上から山口を見上げている。
「残念だけどな、俺にはまだ無理だよ」
爺ちゃんの足下にも及ばないからな その答えに
「そうなん」
ことり、傾げた小首が詰まらなそうに唇を尖らせるが。
「やけど、たつや、すごいもん、すぐ作れるようになるて。ラーメンもすごいうまかったもん」
「いや、ラーメンは関係ないでしょ」
「ちゃうもん、たつやがすごい、いうしょうめいやもん」
少し辿々しく、だが、子供らしからぬ単語に思わず笑みを誘われる。
「けどさ、シゲのお母さんのご飯も美味いでしょ?」
シゲのお母さんも凄いってことじゃねえ?
「美味いけど、ええねん。僕、達也のご飯のが好きやもん」
やって、と突き出した下唇がふるりと震え、寄せられた眉の間に不似合いな程に深い皺が寄る。
「お母ちゃん僕の事、嫌いやもん。せやから僕の電話にかて出えへんねん」
ことことと、見よう見まねで箱を押しては、中を覗き込む横顔は、つんと唇が尖り、寂しさと拗ねた表情が羽交いまぜになった複雑な物だった。
「そんなわけねえだろ」
やけど、と歪んだ表情は泣き出す寸前のようにも見え山口は、ほのかな温もりを残す前髪をかきあげるように茂の頭をくしゃりと撫でる。

違う。茂の母は電話に出ない、のではなく電話が通じないのだ。
この二日の間に渋る茂の口からようよう聞き出した1つの電話番号。
掛けたのは2度。
一度目は、市外局番をつける事なく、プッシュボタンを押し、二度目は、茂の告げた住所の市外局番をつけてボタンを押した。
だが、一回目は、城島ではない違う名前が返り、二度目に聞こえて来たのは、現在使われていないと言う無情なまでに冷たい女性の声。
嘘をついているのではない。
電話が通じないと知った時、真っ直ぐに見上げてきた怯えたような潤んだ瞳。
茂は嘘を言ってはいない、それはまぎれもない確信だった。
大体、この年で是だけ見事に嘘をつけると言うならば、茂の将来はアカデミー賞も夢ではない俳優になれる。

問題は、茂が嘘をついているかいないかではなく、なぜ、正しいはずの電話が通じないのか。

この二日間は良い。
幸い週末であったため、山口は茂についている事が出来た。
だが、明日からは、再び仕事が始まり、まだ、新入りの自分の帰る時刻は保証できない。
それでも。
「いつかさ、爺ちゃんに負けないぐらい腕が上がチたら、シゲにも作ってやるよ」
「ほんま?」
視界を埋めるふうわりとした明るい色の髪の毛に、そっと額を押し付ける。
「ああ、約束する」
腕を磨いて、シゲにこれに負けないくらい綺麗な寄せ木の箱作ってやるよ その言葉に淋し気な表情は、瞬く間に破顔して。
「ほな、指切りな」
ためらいなくさし出される細い小指が自分の太い指に絡まって行く。

もう少しだけ、傍にある温もりを離したくないと思った。

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