明けて、月曜日。
空は笑うぐらいに澄み渡り、山口はちぇっと舌打ちをする。
いつもならば、思いっきり体を動かせる現場での仕事の訪れる月曜日という誰もが微かに疎ましく思う朝を、心待ちにしてるのになあ と腹にぺとりとくっついて眠る小さな背をそっと撫でる。
夕べ、茂が眠った後、こっそりと雨降り坊主を釣り下げた軒先では、からりと晴れた空の元、逆さまのてるてる坊主がさぞや淋し気に揺れている事だろう。
「しゃあねえなあ」
揺るやかに両腕を天に伸ばすと山口は、しなやかなまでに大きく上肢を逸らした後、勢い良く体を起こした。
一つ、二つ、三つ。
時折、小首を傾げながら、四角く切り取られた小さな窓の向う側、浅い青い色をした空を見上げてぽかりと浮かんだ白い雲を追い駆ける。
小さな木製の机の上、目の前に広げられた白いつるつるの紙は、今年のカレンダーを裏返しにした簡易スケッチブック。
「今日の一時間目は何なんだ?」
それは、仕事に行ってくるわ そう玄関口で靴を履いた山口が、出かける寸前に用意してくれたものだった。
国語?なら、これから漢字でも拾って練習してな 数本のマジックと海が表紙の雑誌を並べて、茂の手に握らせたのは一本の細めの青いボールペン。
それから、遊びに出てもいいけど、迷子にだけはなるなよ ほんの少し心配そうな声になた山口に、心配せん時 と未だ帰り道の分からぬ子供は胸を張る。
「迷子にならへんかったらええんやんな」
ちょっとだけ遊びに行ってきます。広げられたまま何も書かれていない紙にぺこりとお辞儀を一つして。一畳もない台所の上に置かれたお握り二つとペットボトルの入った袋を持って、雨水を吸って土色に染まった運動靴を履いた。
先輩達が近所の飯屋に昼を食べるために出かけてしまった後の現場では、弁当持参の山口一人がいつも留守を預かる。
まだ、バイトを始めて大した時間が経っていないぺーぺーの懐では、外食なんて持っての他。大概は、近くの弁当屋かコンビニで格安、かつ、これが重要なのだが、量のあるものを見繕ってくるのだ。
今日も今日とて、持参のコンビニの袋を片手に敷地の端に積み上げられた木材に腰を下ろし、まだ、基礎工事を終えたコンクリに固められた家の基を見下ろしていた。
家。
大地を削り、壁を作り、広い外界から切り取られる小さな空間。
尤も、ここにはまだ物理的な家はないけれど。
だが、と、設計図を片手に何度も事務所を訪れた施主さんと家族の表情が脳裏を過る。
地鎮祭の日、まだ、礎さえもない草地に立って、ここがお風呂、ここがご飯を食べるとこ と両手を広げていた幼い子供。
邪気もなく、小さな掌を大きく広げてここに僕のお部屋があるの と子守りを仰せつかった山口を見上げて、綻ぶ笑みは陽光が差し込むような眩い笑顔だった。
そう、未だ、此処に、家はない。
だが、彼等の中には柔らかな緑に彩られた玄関が描かれ、扉を押し開けば奥からは夕餉の支度に掛かる母親の優しい声と、鼻腔をくすぐる温かな香りが広がってくる微笑ましい空間があるのだ。
それに比べて、とぺりりとビニルを剥がした握り飯を一口頬張ると、ごくりと湯飲みに注いだ茶を口に含む。
「ったく、これ剥がすのに慣れてる小学一年ってどうよ」
今朝、朝食用のパンを買うついでに、一人で留守番をすることになった茂の昼食用にと買って来たコンビニのお握り。
「大丈夫か?上手くビニル外せるか?」
結構不器用だもんな、外しとくか? 机の上に置く折りにそう訪ねた山口に、茂は、大丈夫、慣れとるから平気やで と、どこか自慢げに口角を緩めていた。
その時は、なら良いか と聞き流したのだけれど。
小さな掌に押し付けた合鍵を握り締め、玄関を出ようとした山口を見上げた小さな面立ちは、口元にとても愛らしい笑みを浮かべ、だが、同時に無意識に寄せられた細い眉の下、くるりとした大きな虹彩は微かな淋しさを滲ませていた。
シゲ?そう、訝し気に顔を傾げた山口に、いってらっしゃい と綺麗に細められた眼は、甘える事を常とする幼子のものではない。
ああ、この子は人の背を見る事に慣れているのだ。
そのくせ、淋しいと両手を伸ばす事も出来ず、その手を小さな背なに押し隠し、笑って相手を見送る術を身につけた哀れな子供。
自分の中にある感情が『寂しい』のだと気づいてさえいないのかもしれない。
いってらっしゃいとはにかむ笑みに、後ろ髪を引かれる思いというものを初めて実感した。
くしゃりと掌の中、空になったビニル袋を握り潰す。
いくら苛ついたとて、燦々と降り注ぐ太陽はまだ、中空に掛かったばかりであり大量に釘の散らばった現場は今からが忙しい。ほんの少し恨めしげに空を見上げて、山口は軽い溜め息をついた。
きょとりと辺りに首を巡らせる。
ここは昨日達也が連れて来てくれた小さな空き地だった。
遠くに聳え立つのは見なれぬビル群を背景に、忘れ去られたようにぽつりと立つ木陰にビニル袋を放り出して、拾った枝で大きな大きな○をぐるりと描く。
「ここ、シゲちゃんのじんち」
ここが、たつやの場所な。
ほんの少し重なった位置で円を描くとぽんと両足で跳ねると軽やかな足取りで『たつや』と書いた地面にぽんと着地する。
「こっちが、母ちゃんのとこ」
で、ここが と、もう一つ歪な枠を描きながら、空き地に入るちょっと前に擦れ違った親子連れの背を追い掛けるように振り返る。
平日が休みなのか、まだ、園児よりも幼いぐらいの子供を肩に担いだ父親と両手両足をばたばたと嬉し気に振り回す幼子。そのほんの少し後ろを綻び初めた花のような柔らかな微笑を浮かべて見上げるたおやかな母親の姿。
「とうちゃん」
雫が零れ落ちるような淡すぎる声は、誰の耳に届く事もなく、静かに大地に吸い込まれて行った。
かんかんかん
安普請のアパートの鉄の階段が軽やかな足音を響かせる。
左手にはスーパーの白いビニル袋。右手には小さな鍵。
誰かが待つ家に帰るというものは結構いいもんだよな、頬を彩る表情も自然と綻んでくる。
「シゲ~、悪かったな、腹減ったろ~」
今日はチャーハンと餃子な 踵を踏み付けるように脱ぎ捨てられたスニーカーがぽすりと乾いた音をたてる。
だが、一向に帰らぬ返事に、上げた視線の先に広がるのは電気の消えたままの室内。
振り返った視線の先には、今朝までそこにちょんと並んでいた小さな靴の影もなく、台所の机の上に、準備しておいたはずの昼飯の後もない。
「シゲ?」
男の一人暮らし。
ワンルーム+台所ぐらいしかない小さな部屋。
ぐるりと見回しても、譬えそれが小さな男の子であったとして、隠れるところ等ありはしない。それでも、奥行きのない押し入れを開いてしまうのは、無理からぬこと。
「しげるくん?」
覗き込む机の下には、数本のマジックが転がっていたが。
夢?
ふとそう思う。
意地を張った慣れない一人暮らし。
絶縁状態の家族との関係。
いくら体を鍛えているとはいえ、慣れない大工仕事に、日々体は悲鳴を上げる。
そんな鬱屈した生活下。
あまりにすとんと腕の中に落ちて来た温もりはあまりに心地よくて、その存在を疑いもしなかったけれど。
僅か二日と半日、見続けていた白昼夢。
自分が生み出した幻想の一部なのだよ そう誰かに囁かれたなら、ああ、そうなんだ、そう納得してしまうほど、あの子供は自然な存在だった。
「メシ、作ろ」
喉と胸の間ぐらい、ぽかりとした黒い空間が浮いているような感覚に、眉間を眇め、ふうと誰にともなく溜め息をつく。
ゆっくりと動かす足さえ、どこかぎこちなくぎしりと悲鳴をあげているかのようで。
「情けね」
小さく呟くと、一つ伸びをして机の上に放りっぱなしだった袋からネギを引っ張り出した。
いつもより多めに作ったチャーハンを皿に盛る。
卵好きやねん そう嬉し気にラーメンの中の煮抜きをつついていた綻んだ笑みに、今日のチャーハンは、目玉が乗った特別編。
綺麗なオレンジ色の黄身をざくりと匙で潰してぐるりと回す。
「ちげえよ。俺が食べたかっただけだ」
とろりと流れ落ちる黄身の跡。
やけに多い独り言が今朝まで傍らにひっつき虫のように立っていた誰かに絶えず語りかけていた自分を思い出さして嫌になる。
「変な人じゃん」
誰もいないのに、腰の辺りで揺れる髪を撫でながら言葉を紡いでいたなんて。
「くそ」
勢い良く掬い上げた飯を一口で頬張った時だった。
とんとん
遠慮ないノックの音に弾かれたように顔を上げる。
一瞬脳裏を過った笑顔は、叩かれる位置の高さから、次の瞬間あっさりと打ち消して面倒臭気に立ち上がった。
こんな時間ならば、大家からの文句か、隣人の詮索か。
再び、繰り返されるノックの音に、今度は 山口さん? と聞き慣れない男の声が混じる。
「はい」
ぎしりと鬱陶しい表情を隠す事なく押し開いた扉の隙間から、待ち詫びたように滑り込んで来た体が弾むように山口の腰にしがみついた。
「しげ?」
「たつやあ」
「おま…」
思わず抱き上げて、くしゃりと歪んだ今にも雨が降り出しそうな茂の額に自分の額を押し付ける。
「何処行ってたんだよ。心配したんだぜ」
「達也と一緒に行った空き地。やけど、猫追いかけとったら、気がついたら知らん場所おったん」
で、と振り返った戸口には濃いブルーも鮮やかな制服を纏った、普段あまり馴染みのない警察官だった。
「その子が道で迷っていたようなので、お送りしたんですが」
「どうもありがとうございました」
思わずぺこりと頭を下げた山口の腕の中で倣うように頭を下げた茂の様に警察官もやんわりと笑みを浮かべたが。
「達也さんの家に帰ると言うので、近所の方に伺ってここに連れて来たのですが、道々話を聞いたところでは城島君は家出中と言う事なのですが、失礼ですが、ご親戚の方ではないのですか?」
随分とお若いように見えますが と値踏みをするように山口を一瞥する。
「あ、いえ、その」
「僕な、達也に拾われてん」
悪びれもなく、きゅっと拳を握り締めたまま嬉し気に告げる茂に罪はない。
ないのだが、途端に顰められた警官に表情に山口は舌打ちをする。
「失礼ですが、おいくつですか?」
「俺ですか?18ですけど」
「彼のご自宅へは?」
「茂の言う番号には何度も連絡してるんですが、通じなくて」
一歩、無遠慮までに顰められた表情が玄関に入り、山口を見下ろすような威圧感を醸し出す。
「と言う事は、前からの知り合いではないということかな」
「…というか、なんというか」
「城島君」
「なに?」
「おじさんの方へおいで」
やんわりとした口調に反して、ぐいと伸びて来た手が茂を有無を言わさぬ強さで山口の腕から奪いとり、自分の背後に隠すように立ちはだかった。
「ちょと、あんた」
「今晩は、この子は署で預かります」
明日の朝、事情を聞きたいので署まで出頭するように 紅葉のような茂の手を掴む手を思わず山口が叩き落としていた。
「君」
「あんた、俺がシゲを誘拐したとか思ってるんじゃねえだろうな」
「それ以上手を出すと公務執行妨害で逮捕するぞ」
ぐっと襟元を掴み取る手を振払い、警官は、逆に山口の手首をぎりりと握り返してくる。
「逮捕でもなんでもしやがれよ。あんたこんな小さな子供を警察なんかに止める気かよ」
「未成年が家出少年を預かる事自体問題があるだろう。見つけた時点で、何故警察に通報しなかった。君、親御さんの連絡先は?」
「関係ねえだろ」
「君も未成年なんだろ」
ねじり上げられる手の痛みに、顰められる山口の表情。
「あかん、達也叱らんといて、僕、行くから、なあ。僕どっか行くから、お願いやから」
それを止めるように、警官の足に飛びついたのは、頭上高く繰り広げられる険の籠った応酬を呆然と見上げていた茂だった。
「シゲ」
「あかん、なあ。達也離して、達也悪ないねん。僕が悪いねん。せやから」
「城島君?」
慢心の力を込めてしがみつく茂に、 思わず力が抜けた手を勢い良く振払った山口がくしゃりと歪んだ表情の幼子の前に片膝をついた。
「なんで?なんで達也叱られるん?」
なあ、とぽろりと零れ落ちた雫が灰色のコンクリートに黒い染みをぽつりと落とす。
「僕が悪い子やから、達也叱られるん?僕、おったから達也、やから、僕が悪い子やから、お父ちゃん、お母ちゃんのことほってどっか行ってもうたん?やから、皆僕の事…」
なあ
ひくりとしゃくりあげる途切れ途切れの声。
「シゲ?」
宥めるようにぽんと背を叩くと、傍らで困惑の表情を浮かべたまま立ち尽くす警官を見上げた。
「少しだけ、時間いただけますか?」
10分ぐらいでいいから
「逃げたりしないし、親の連絡先も教えるよ」
だから、と殊勝に頭を下げる山口に警官は小さく溜め息をつくと、前にいるからと扉の向う側に姿を消した。
「腹減ってるんじゃないのか?」
ふるると頭を振る子供の髪をふわりと撫でる。
「シゲは悪い子じゃないよ」
「やけど、悪い子やから、ここおったらあかんねんやろ?」
「違うよ」
「やけど、僕がいらん子やからお父ちゃん出て行ったってお母ちゃん」
言いかけてまたほろりと落ちる涙に、茂は鼻をすする。
「そっか、シゲ、お父さん出て行っちゃったのか」
こくり、泣き濡れた赤い頬を手の甲で擦りながら微かに頷く。
「お父さんが出て行った理由は、わからないけどさ、シゲが悪い子だからじゃないよ」
けど、と尚も言い募る子供の額に自分のおでこを押し付けて小さく笑う。
こんなに素直で真っ直ぐな笑みを浮かべることのできる子供が親に嫌われて育ったわけはないのだと。
たつや? と小首を傾げた茂をきゅっと抱き寄せる。
「シゲ、お母さん大好きだろ?」
「うん、大好きや」
「お母さんもシゲのこと大好きだよ」
「ちゃうもん、お母ちゃん、僕いらん子やって」
そう、こわい顔しとった と大きな瞳にぶわりと浮かんだ涙を指の腹で拭ってやる。
「じゃあさ、お母さんに聞いてみなよ。本当にシゲがいらない子なのか」
「やけど」
「それでも、お母さんに大好きだよってちゃんと伝えて、それでもお母さんがシゲの事いらないって言うなら、ここに帰ってくれば良いよ」
「ほんま?」
「ほんま、ほんま」
山口は、茂の髪をもう一度深く撫でた後、机の上に放り出してあったペンで、小さなメモに住所と電話番号を書き込んだ。
「迷子になんないようにな」
これ、ここの場所だから と。
「茂君が帰りたいって思った時、いつでもここにおいでよ」
俺はここでずっと待ってるからさ
「うん」
小さな花が綻ぶように、ふうわりと笑みを浮かべた茂をもう一度抱き締めて、山口はゆっくりと腕を解いた。
「あんなこれ」
ポケットから取り出されたのは、この部屋の合鍵と100円玉。
「鍵はなくさないで持ってなよ。帰って来た時、部屋に入れないとシゲ困るでしょ」
100円はさ、と小さな掌の上の銀の硬貨を指で弾く。
「今度、シゲがここに来た時、これで俺にラーメン奢ってよ」
「おごる?」
「あ~、一緒にあのお店でラーメン食べようってこと」
「ほな、約束な」
約束な 目の前で細い小指と倍以上はある小指が小さく絡んで。
「指切り千本嘘ついたら針千本の~ます」
指切った
きっかり10分後。
扉を開けた警官に茂を託し、また明日な そう言って離れた掌を見下ろして。
二日半の嵐は去って行った。
そう言えば、自分は一度でも父親と話をきちんとしただろうか。
ただ、祖父を頑に否定する父親に、ただ意味もなく反抗して。
話をしよう。
瑠璃色の空に僅かに浮かぶ星を見上げて、ふと思う。
自分の夢を。
願いを。
そして目指すものを。
貴方が、守ろうとした家族を守るための家を作りたいのだと。