漆黒に近い壁に包まれたアンダーグラウンド。
煌々と煌めく華やかな大都会と緩やかな沈黙に彩られた空間を遮るのは、ただ重厚な扉一枚のみ。
だが、この隔絶された小さな世界は、まったりとした大気に包まれ、疲弊した心をゆるりと癒してくれる。今日も、と男は、ふっと吐息のように吐き出した紫煙がゆるりと描く軌跡に眼を細めた。
ん? その問うような小さな音に、城島は、緩く口角をあげ、たんと指に挟んだ煙草を灰皿に叩き付けた。
いつもなら独りを楽しみ、己の深淵に沈みこむ時間。
いや、と小さく返し、そのまま、細めた視線を男の横顔に走らせた。
薄く作り上げられた闇に、暖色の光を帯びて浮かび上がる、切り取られた稜線は、男の自分から見ても美しいと。
向けられた視線に気付いたのか、何?とウィスキーグラスをからりと鳴らす。
んん、と今度は城島が、喉の奥を鳴らすようにいらえを返す。男はそれを見て、くっと笑みを浮かべた。
不思議だ とふと吐息をつく。傍らにある熱との触れるような距離。
男が二人小さなスツールに並んで座っている現実。普通なら、特に潔癖性と言われる性癖を持つ城島に取っては、耐えづらい距離感のはずだ。なのに。
特に混んでいる訳でもなく、互いの逆サイドには、あるぽかりとした空間。
「狭まったんやろか」
「心?」
間髪開けぬその言葉に、城島は、くくっと声に出して鳥のように笑った。
「アホ、ちゃうわ」
パーソナルスペース と指で小さな輪を作る。
「ぱーそなるすぺーす?」
「人が人を受け入れることの出来る距離の事や」
そのままするりと解かれた指先がとんとカウンターを叩くと、適度な距離に立っていたバーテンダーが、音もなく、城島のグラスに琥珀の液体を注ぎ込む。
「こっちに出てくる時にな、友人に言われたんや」
「東京の方が、城島に取っては生きやすいかもな」
どこか、寂し気に笑みを浮かべたのは、流れた時に忘れ去られたまま、まだあどけなさが残る、記憶深くに息づく友人だった。
「生きやすい?」
「関西人の方が、パーソナルスペースは東京の人よりもかなり狭いからな」
相手の心情を慮る事もなく、その遠慮のない快活さで、ずかずかと人の紡ぐ壁の中に入って来る。
「互いの社会距離も何もおかまいなしや」
「まあねえ」
そう言うと、空を彷徨った視線に写るのは、テレビの中で誇張化された大阪のおばちゃんたちの姿。
誰彼構う事なく、ばしばしと背中を叩く様子は、端から見ていて眉を顰めてしまうな と喉の奥で笑った。
「けど、あれはあれで、悪い訳やないねんけどな」
むしろ人の距離を取り、互いに冠った仮面の下で,アルカイックな笑みを交わす人間関係よりもある意味人間だと思う。
「けどなあ」
人の触れた手すりにすら触れなかった男には、あまりにも近すぎる距離だった。
「せやのにな」
うん、摘むチョコレートは、ウィスキーの苦みと相まって口の中でとろりと解ける。
「密接距離」
そう言って城島は、触れ合った温もりを辿るように指を滑らせる。
「気がついたら、この距離が平気になっとった」
相手をあげるならば、長瀬、と眦を綻ばす。
まだ、いとけないと称して差し支えない年頃から、事務所に入った彼は、女の子にも見えるほどにあまりに愛らしく真っすぐに邪気の欠片もなく甘えて来るその手を振り払うことなど、できようはずもなく。
見上げる背丈になった今、抱きつかれるのではなく、抱きしめられるような体格差に、ため息は溢れるものの、その温もりを否と思う事はない。
「あいつもねえ」
すぐに貴方に引っ付くよね、なんだかんだ言いながらもさ、その姿は雛鳥そのものだと、薄く笑う。
「それから松岡やな」
その名前だけで、傍らの男は、くくっと笑う。
「あいつは、仕方がないでしょ」
ツンデレを地で生きながらも、その素直な性分故か、愛おしささえ覚える程に不器用な愛情を折々に見せる彼は、それさえも隠せていると思っているらしい。
「貴方の老後の面倒まで、マジで見そうじゃん」
今から慣れとかなきゃね、軽く肘をつき、凭れるような仕草で振り返ると
「まあ、意外だったのは、太一か」
柔らかく弧を描いたままの眼に、城島も、せやね と小さく相づちを打った。
「二人で顔くっつけてさ、こそこそしゃべってて」
やな感じだよなあ。そう、唇を尖らせる男に、アホか と笑うと、こくりと喉を鳴らす。
「一番遠い存在やったはずやのにな」
本当は、誰よりも近い魂魄を持っていたのかもしれないと、今更ながらに気付く。
「同族嫌悪って奴だったんじゃねぇの?」
ある意味、一番似てるわ、貴方と太一。そう言うとちぇ〜 と舌打ちをして、ほとりと緩んだ眦がやわりと綻ぶ。
「で、俺は?」
弟たちの名が出尽くした所で、相棒と自ら称する男がにやりと笑う。
「うん」
小さく頷くと明確ないらえを返す事なく、城島はグラスに唇を寄せた。
「うんってなんだよ」
にやにやと覗き込んできた山口に、城島はふいと横を向いた。
「わからんのや」
「わからんって貴方」
僅かに低くなった声に城島は、山口からは見えない角度で口角をきゅっと上げた。
ちぇーちぇー何だよそれ、ぶぅぶうと耳に届くのは人生の半分以上聞き続けた男の幼子のような拗ねた声。
「拗ねてもかわいないで」
それに、わからんねんもん ほんまに、そう呟くなり、くるりと回転したストゥールにつられて、途端に近づいた城島の眼に、思わず山口は軽く仰け反った。あまりに柔らかく透き通るような真っすぐなその虹彩にとくんと鼓動が一つ跳ねる。
「誰よりも遠いとこにおるようにも思えるし」
けど、ときゅっと尖った唇から不平が零れ落ちる前に城島はそっと人差し指を重ねる。
「かと思ったら、ほら、こんなに近うて、時には重なっとるようにさえも思える」
しげ と掠れた声に、くくっと溢れる楽し気な笑みと振れそうな熱。視界から足音もなく消え去ったバーテンに、やばいんじゃねぇの と冷静な思考が戻ったのはほんの一瞬のこと。
「シゲ」
もう一度重ねた声に、その言葉を名前とする男が、ふふっと眦を綻ばせた。
「東京へ出てきた頃、友達も家族もおらんかった」
自らの持つ故郷を思わせる言葉のイントネーションさえも、ただ、己の孤独を知らしめるだけの音だった。
「全てが敵やったよ」
今ほど、関西弁が台頭していなかった芸能界。ましてやアイドルという偶像でしかない己たちの存在。作られた空間の中で、『生活』という泥臭さからすべてを切り離されてこそ成り立つ世界だった。
「全てに対してあったのは疎外感と敵愾心だけやった」
それが、たとえ一見気安くさえ見える同室の年下の友人でもだ。
「やのに、自分は」
初めての出会いの時、値踏みをするような視線を向けぶっきらぼうな声で、応えた自分は、さぞや印象の悪い存在だったはずだ。そう、目の前の男が、そこかしこでネタのように話す出会いの断片に嘘はなかった。なのに。
幼子を思わせる綺羅とした笑みと真っすぐなその感情のまま、城島の周りに張り巡らされた目に見えぬ厚い膜にさえも頓着する素振りさえ見せず、どかりどかりとぶつかってきた。ぶつかっているのだとすら気付かない傍若無人さで。
「全身でなんのてらいなく、接してくれたからなあ」
気がつけば、柔らかな膜は、薄く震え、目に見えぬ裂け目が網の目のようにゆるゆると広がって。
「知らんうちに、僕ん中に入ってきてしもうた感が否めんねんのよな」
指が触れ、肩が交わり、気がつけば、魄にひたりと重なるように己の内にまで、大地に染み込む雨水のように染み込んでしまった存在。
「やから、距離がわからん」
「シゲ」
うん、と僅かに伏せた眼に、山口は思わず、すりと己の頬を目の前のかさついた肌に擦り付けた。
「やけどな」
何? 満面の笑み の男に、城島は、はああああと深すぎるため息を吐いた。
「どさくさにまぎれて、腰に回っとうこの手はなんや?」
「え?」
だって、とするりと背筋を流れた指先に、城島が身を捩る。
「貴方と俺は、つまり一心同体って事でしょ?」
他の何も入れない距離〜 とより近づいた顔を、べしりと遠慮のない強さで広げられたてのひらが遮った。
「意味がちゃうわ、アホか。自分は」
大体、と続く言葉に山口は、うんと微かに頷いた。
「わかってるけどさ」
おおきにな 背なに回った手をゆるりと外し、こつりと触れ合った額と額に距離が開く。
重なった指も、絡み合った声も、時の狭間に吹いた風に揺れる泡のように儚い偶然の積み重ねに過ぎないと分かっていても。
今、この瞬間、全身で、感じる山口と言う存在が自体が自分たちの距離なのだと、城島は小さく笑った。