Jyoshima & Matsuoka

黄昏時

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藍の着流しに貝の口。
柔らかな髪を風に預けて、ゆうるりと長い影を落とす斜陽を背に受け、夏の宵を彩るようにからりからりと下駄が鳴る。 辺りを行く人波もなく、がしりとしたガタイの良い男は、袖口に手を預けるように、まだ、熱気の残る道を歩いていた。

「ちょっと早すぎたかもしんねぇなあ」
こりと指先で掻きあげる癖のない髪がぱらりと落ちる。自然、零れる笑みは苦みを帯びて、どこかそこいらでいっぱい引っ掛けるか と、男の纏うそれよりも一段深い藍の暖簾を押し上げた。
「めっし、めっし、めっし、」
短い腰辺りまでの作務衣をぐいと縛ったひょろ長い背丈の男が人込みを縫うように駆け抜けていく。
ぱたぱたと軽い音をたてる草履に当たりの土を舞いあがるのをわずかに眉を潜めた人々が避けるように道を開けていく。 だが、周囲のそんな仕草に頓着することなく男が一本の路地を駆け抜けたときだった。

「ほな、おおきになぁ」
三味線を手に、馴染みの客か、軽く手を挙げた男にくるりと背を向けて、一人の女が薄くけぶるように辺りに満ちはじめた闇を縫うようにからりからりと宵の道を歩いていく。 きゅっと結い上げた髷から、ぱらりと零れ落ちた後れ毛が、白粉に染めた項にはらりと落ちるその様は、如何にも艶である。 男は思わずといった態でひたりと歩みをとめて、目の前をしゃなりしゃなりと腰を揺らすように行く妓の姿に眼を細めた。

「松岡あ、お前聞いたことない?」
「何を?」
隣の長屋に住んでいる幼なじみが普段から細い眼をいっそう細めて井戸端で絵筆を洗っていた松岡の背を覗き込んできたのは、今朝のこと。
「すこぶる良い妓なんだってよ」
こう、ゆらりと揺れる白い項を薄紅に染め挙げて、鬢の後れ毛をついと直す指の仕草さえも匂い立つような色気を放つ妓の噂  と口元をだらりと緩める。
「最近さ、町の外れにいるんだとよ」
三味線片手に夕暮れ時によく見かけるんだとさ、と釣瓶を引っ張りあげると何をしていたのか、土に塗れた手を勢いよく漱いでいく。 「で?それがなんなんだよ」 「え〜、そりゃなあ、いっぺんそんな良い妓なら、お相手してもらいたくならねぇか?」
「はあ?お前さあ、そんな商売女相手にして、何が嬉しいわけ?」
「何って、そんな上玉、試してみたいってのが男の性でしょうが」
けどさあ、と細い目をうっすらとあけて、浅いため息を一つついた。
「いるってことまでは噂になってんだけどさ」
「おぅ」
「けどさあ、実際に見た奴には、俺まだあったことないんだよな」

それ、ガセだろうが、と濡れた手で思いっきり幼なじみの頭をどついた記憶がある。
だが、今、まさに、『あったことないやつ』に自分はなっているのではないだろうか。
「俺、もしかしてあいつに自慢できんじゃねぇの?」
松岡は自分の頬を軽く抓って、その痛みに痛いよねと苦笑を浮かべながらも、赤くなっているだろう頬をそろりとなでたあと、ぺこりとへこんだままの腹の辺りに肩にかけていた手ぬぐいを押し込んだ。
時にへたれと呼ばれることはあるけれど、顔良し、性格良し、体格も力もそんじょそこらの男衆には負けないだけの自負がある。色男、力も金もなかりけりというが、ないのは金だけだ。その金だって、この間描きあげた襖絵の代金をもらったとこなのだ。ならば、相手はたかが商売女なのだ、たとえ、人づての噂になるような妓であっても、気後れする必要などあるまい、最も、一きり三両は下らないというならば、ぺたりと薄い銭入れの方が気後れしてしまうだろうが、と
そこまでつらつらと考えながら、よっしゃあ と気合いを入れるようにぱんっと両ほおをたたくと、相も変わらず、腰を揺らすような独特な歩き方で前を行く妓の背に声をかけた。

「ねぇ、ちょっと」
その声が、僅かに掠れてひっくり返っていたのはご愛嬌だ。
「そこのあんた」
だが、目の前の背はとまることなくひょこひょこと離れていく。
「こら、ねえ、そこの」
張上げられた声に、妓よりも向こう側の人間が振り返るが、相変わらず妓の歩みは止まらない。

「聞こえてねぇのかよ、あんた」

それにかちんときたのはそこはそれ、財布の中身がどうのなんて心配はどこかへふっ飛んで、もとより気の短さと喧嘩っ早さが売りの江戸っ子だ。
ものの二、三歩で追い付くと、その肩を引き寄せるようにこちらへと振り向かせた。

「なんやねんな、自分」
「なんやんて、あんた、西の人間か? じゃねぇや、さっきから声かけてんじゃん」
僅かに肩を怒らせて、上背があるのを生かすようにじろりと見下ろしたのは、振り向き様、真っすぐに自分を見据えた琥珀色の虹彩にどくんと鳴った鼓動を気付かせないためだ。
「さっきからていうけど、僕、『そこの』いう名前ちゃうわ」
むぅと下唇を突き出して、睨み付ける妓の様に、思わず一歩後じさる。
「だいたい何の用やねんな、自分」
ぱんと肩にかかった手を叩き落とすと、小指で耳を掻きながら横を向くその様は、幼なじみが望んでたような春を鬻ぐ女には見えない。
「え、だって、あんた、商売女じゃねぇの?」
どこかしどろもどろになった口調に、目の前の妓は綺麗に紅を差した口角をにぃっと引き上げた。
「なんや、自分、僕としぃたいんか?」
「いや、あの、俺」
じゃなくて、と知りすぼみになる声とともに、じり、じりと妓が近付くのに比例して松岡の足が後じさるが、ほんの数歩で背後の壁にぶちあたり、ふぅん と下から覗き込む獲物をいたぶる猫のような面持ちの妓の笑みに、そのままべたりと壁に張り付いた。
「自分、ええ男やしなあ、心動かんでもないけど」
ねんけどなあ、そんな趣味あらへんしな と小首を傾いでにこりと笑う。
「趣味ってあんた」
「せやから、男に抱かれる趣味はあらへんてことや」
しゃないなあ、ほれ、と妓は松岡の手を引き寄せるとおもむろにその胸元へとそれをぐいと押し込んだ。

「あ。あああああああああああんた、何すんだよててててててててて」
「落ち着きて自分、今、何触っとうかわかってるか?」
そんなんでよう女買おうて思たな、と呆れたような口調に、それもそうだ と、松岡は思わず目をぱちりと見開いて、やんわりと厚ぼったい布地に包まれた場所にある手をごそりと動かした。
「あれ?」
何かを探るように、ぎゅっと拳を握りしめても、そこには柔らかな弾力のある肉はなく
「せやから、言うたやろ」

「で、でもなんで、女形の格好してんのよ」
そのままぺたたと確かめるように、胸を叩く手に苦笑を浮かべ、 「僕なあ、三味線弾きなんよ」 片手の三味線を持ち上げて、軽く弦を弾いてみせる。
可愛らしい顔立ちではあるが、自分よりも年上らしいその横顔に僅かに滲む堅い稜線は確かに男のものだと松岡は、なんだ と心のうちで小さく呟いた。
「けどなあ、女やったらまだしも男の三味線弾きは女々しい言われてな、僕、堺の商家の生まれやってんけど、そんな役に立たんことに現抜かしとるような奴は勘当やあ て追い出されてもて」
三味線片手に巡り巡る放浪をするうち、芸子が舞い、杓をする座敷では男の三味線弾き等邪魔に過ぎないのだと気付き、女の形をした方が、三味線弾きには何かと都合が良いという結論にいたったのだと薄く笑った。
「でな、今日もお得意さんのお座敷で、三味線弾いた帰りやねん」
姉さんらが、僕の音に合わせて舞いはるんよ、やからなあ、不本意やねんけど と自らの姿に視線を移した。
「わりぃ、俺」
「自分が謝ることやないで、そないに声かけてもうたいうことは、僕かて捨てたもんやあらへんいうことやしな」
くくくっと喉の奥で笑う男に、松岡もつられるように笑みを浮かべ、悪かったともう一度頭を下げようとしたときだった、 先刻、三味線弾きの肩を掴んだように、松岡の肩が野太い指にがつりと掴まれ、その勢いのまま、だんと背後へと投げ飛ばされていた。

「てめぇ、うちのシゲに何してんだよ」

「え?」
上から落ちてくるどす黒い声の主の顔は、影になって見えないが、その声から男のようである。背丈は松岡の方が高そうなのだが、見下ろしてくるその両肩と腕の肉の盛り上がりと見下ろしてくる威圧感に松岡は唇をぐいと尖らせた。
「え何?何よ、これって、美人局な訳?」
がたいの大きさを生かせて反撃をすれば と、態勢を整えかけたが、それよりも素早い動きに気が付けば、ぐいと襟首をつかみ取られ、軽々と宙に浮いていたのは松岡の方だった。
「どこに、美人さんがおんねんな」
先刻、僕男やて言うたやろ とその男の傍らで、やけに場違いなほどおっとりとした口調のシゲと呼ばれた男が、松岡の首根っこを掴んでいる男の肩をぱんと叩いた。
「自分なあ、ええ加減にしぃや」
「ええ加減にってねえ、今、こいつがあなたに何してたかわかってんの?」
胸触ってたんだよ、と続いた言葉に、シゲがにこりと笑みを浮かべる。
「アホか自分、今のは、この子ぉに『男』やて教えるためや」
「だけど」 と尚も不満げな口調の中に、聞き覚えのある色を感じて、松岡は目の前の男の顔をまじまじと見下ろした。

「って、あんた、兄ぃじゃん」
見知った男の顔に、松岡がひっくり返った声を上げた。
「あれぇ、お前、松岡じゃん」
どんと地面に戻されながらの言葉に、自分ら知り合いなんか?  とシゲが飽きれたような声を出した。
「ええとさ、こいつ、この間俺ん家の襖絵描くのに通ってた絵師なんだわ」
若いけど腕良くってさあ と兄ぃこと山口 達也が、傍らの男を振り返った。
「その時に、一緒に飲んだんだけど、意気投合っつうの?して、それからのつきあい」

「どうも、松岡です」
今更改まってというのも妙ではあるが、やけに律儀に頭を垂れた松岡に
「こらご丁寧に、僕はこいつの知り合いの城島言います」
シゲこと城島がにこりと微笑を浮かべた。
「この人とはさ、旅先で知り合ったのよ」
この界隈では大店である山口の家だが、家業は長兄が継ぎ、次男である山口は、どこかの家に婿入りでもすれば別だがその意志の欠片もないこの男は部屋住みというか、いわゆる穀潰しに近い存在だ。それでも、ぶらぶらしているのにも飽きた数年前、ふらりと西の方へと旅に出たことがあった。その折に、小さな宿で知り合ったのが城島だったのだ。
「その時はさ、まだ、こんな姿じゃなかったんだけどね」
この人の三味線の音に惚れちゃってさあ、とからから笑う。
「そのまんま、誘われるままここに来てしもうたんやけどな」
「そのうちこの人こんな格好で、お座敷回りはじめちゃったのよ」
「ようやっとお得意さんとか旦那とかつきはじめたいうのに、こいつ、全部追っ払いよんねん」
ひどいやろ、というと、袖を噛むようによよよとしなを作る城島の仕草に、松岡は、まあねぇ と相づちを打つ。
「でもさ、旦那はやばいだろ、冗談抜きでさ、マジでこの人に迫る奴とか居るんだぜ」
道歩いてても声かけてくるバカがいるし、と松岡をじろりと睨む。
「だから、お座敷のある日は、俺がこうして送り迎えしてるってわけ」
今日はさあ、早めに出ちゃったから、一杯引っ掛けたらこの人先に帰っちまうし と子供のような口調で城島の肩を抱く。
「いらん世話や、言うねん。自分追い払い方が乱暴やねん。先刻かて」

「あれぐらいしたってバチはあたんないと思うぜ。バカは死ななきゃなおらないって言うじゃん」
ねぇ、と浮かべた満面の笑みに、 「ほな、自分、いっぺん死んでくるか?」 と返されるのはいとも優雅な微笑が一つ。
「ほんで、自分が直ったら信じたるわ」
ぺんとたたき落された手を摩りながら、ひでぇなあ、シゲさんと笑う山口。
その二人を横目に、松岡ははぁとため息をついた。 確かにこれじゃぁ、この人に会っても、それを人に言いふらしたりできないわ 声をかけ、自分のように、話す機会があったとしても、蓋をあければ相手は男、でなければそれを知る前に、山口の拳で軽くふっ飛ばされてしまうのだから、と捲りあげられたごつい二の腕に毀れるのは、苦笑でしかない。もっとも、目の前の二人のような、どこまでも淵の見えないアルカイックな笑み等浮かべたくないのだが。自慢できると思ったんだけどな、とこりと鼻先を小さく掻いて、 「ねぇ、飯、食いにいかね」 未だ目の前で、繰り広げられていた笑顔の応酬に、控えめに声をかける。
あいつに自慢はできないけれど、せっかく知り合えたのにここで別れる手もないと、懐に押し込んでいた手ぬぐいをぱんと叩いてにこりと笑う。
「せやねぇ、僕も腹減ったし」
ああ、自分は、もう食ってきたんやろ とその手から身を翻すと、松岡の腕にするりと縋る。
「ほな、行こか」
三味線も聞かせたるで。
「シゲ、平家物語とかは願い下げだからな」
松岡とは逆の位置の腕をとった山口を拒むことなく城島が頬をぷくりと膨らせる。
「え〜、語り言うたらあれがええのに」

「あなた、琵琶法師じゃないでしょ」

「おぉ、ええ突っ込みや。おっちゃん 自分のこと気に入ったわ」
よっしゃ、といつのまにか山口に押し付けた三味線にちらりと視線をやって
「都々逸でも何でもやったんで、今夜は無礼講や」 飲むで〜 食うぞ〜 と唱和するような二人の声に、早まったかな と松岡が後悔するまで後少し。
時は大正、晩夏の候。 巷を騒がすは、一人の妓。 誰が呼んだか黄昏の君。

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5年間ありがとう企画の時のお話です。
リクエスト 台詞: 「いっぺん死んでくるか?(ニッコリ)」
詳細:ギャグ 発動相手は自由

こんなこともやってたんだなあ
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やっと終わりました、5年企画。 最初にいただいたリクが一番最後。 しかも、ギャグになってなけりゃ、オチもない。関西人やけど、大阪人やないから笑いはとれへんねん ということで許して下さい。(大阪の人が全て笑いがとれるわけやないですよ〜。私は普段の行動が笑えるらしいけど) しかも、嘘ばっかりの表現です。時代も大正がモデルやないですよ。言葉の音だけで使ったので、突っ込まんとってください。 私は、MのSではないので、すぐに逃亡を図る小心者なんです。 てなことで(-人-)

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サークル・書き手