鞄の中は大丈夫。大好きなお菓子にゲームも入れた。 上着のポケットには小さなカード。
リーダーがくれたもの。大丈夫。忘れ物はどこにもない。
10回も確かめた。なのに。 何かが心に引っ掛かる。
このまま行っては駄目なのと。
何だろうと、戸惑うように伏せる瞼のその奥でふうわり揺れるは桜色。
第二陣が出発すると届いたニュースに城島は軽く頭を振ると、メインコンピューターのディスプレイのスイッチを入れる。
傍らのテレビモニタを埋めるものは、寒さの為か頬を赤く染めた人々のひどく険しい顔、顔、顔。
特権階級だけがこの星から逃げるのかと世界のあちこちで繰り返されているらしいデモと暴動の途切れる事ない映像。
それに乗じた殺戮や意味のない小競り合いのニュースも淡々としたアナウンスに乗せて世間を賑わせる。
同時に、繰り返しモニタから流れる声は、国の中枢が発表した移民案。
先陣を切って技術者達を他の星に送り込み、後から来る移民を受け入れる為の地盤を固めるのだと。それが固まり次第、移民船が出発するのだと。
「やっぱり無理やろか」
コンピューターがはじき出すのは、何度となく繰り返して来た真っ直ぐ地球に向かってくるという隕石群のコース予想とそれらが到達するまでに残された時間の予測結果。
何度やっても、無情にも変わる事のないそのラインの先にあるのは青く輝く水の星。
画面を流れるニュース映像と目の前の計算結果が否応なくこれらが現実だと知らしめる。
75年に一度この地球を訪れる帚星に、地上の空気がなくなるのだと信じ、自転車チューブを買い込んだという遥か昔の笑い話や、1999年 7の月に降ってくると言う『恐怖の大王』から逃れる為に、遠い海にミサイルを落としたという愚かなまでに愛らしい夢物語ではないのだと。
「仕方ないでしょ」
それをどれだけ嘆いても、と傍らで国分が相も変わらぬ表情でキーを叩き続けている。今、出来る事をするしかないと。
「まあ、しゃあないわなあ」
人と言う愚かしくも脆弱な種族が生まれる前、この大地を我が者に闊歩していた大型恐竜たちもまた、降り注ぐ炎の雨の前に無惨に地上から姿を消したのだいう。
「元々さ、地球にぶつかった隕石に含まれていた炭素から俺等は生まれたわけだし」
そう考えると笑えるよな と国分は大きく肩を震わせた。隕石から生まれて隕石に滅ぶわけだ と。
「滅ぶ訳やないで」
こうして、と城島は移民船の立体映像を映し出す。
「けどさ、それだって一部の人間だけだろ」
何れ程、政府が、国が、世界がここを脱出する先を見つけたとステレオタイプに叫んでも、その星に全ての地球の人々が移民する事はできはしないのだ。地球と言う母なる大地から人が飛び出したのは、人の歴史から較べればほんの僅かな昔でしかない現状で、一体何れだけの人が避難出来るのか。否、地球を後にした船が、一隻も失われる事なくその星に他取りつけるのかさえもそれさえも定かではない。
「せやね」
その上、地球上に息づくものは、『人間』という種だけではないと言う事は、誰も口にしようとしない。
そして、思い知らされるのは、と城島は強く拳を握り締めた。今、己一人がどれだけぶざまに足掻こうが神ではないこの小さな手一つでは、何一つ救う事ができないという事実。
「で、これ、さっき届いたよ」
ぶっきらぼうまでに不機嫌な声のまま放り投げられた封筒から出て来たものに城島の眉がきつく顰められた。
「何やこれ」
掌に滑り落ちた鈍い銀色のカードに城島の声がじりりと固くなる。
「何って、移民用チケットじゃん」
先週、書類回って来てたでしょ と国分も事もなげに彼の名が刻まれたカードを唇にあてるようにちらりと見せる。
「僕、申請してへん」
「へえ、そうなんだ」
なのに、とぐしゃりと潰れる空の封筒。
「大体、まだ、一般には申請方法かて知らされてへんはずや」
これは、明らかな違法行為だとぎりりと噛み締められた唇が白く色をなくして行く。
その横顔に国分は、呆れたような面持ちで溜め息を一つ零した。
「良かったじゃん。つまり、アンタは必要な人間だって上が判断したって訳でしょ?」
新しく拓かれるであろう大地に立つ為にアンタのその優秀なおつむが必要なんだって と揶揄するような声に城島はきゅっと歪めた表情を隠すこともなく国分を振返った。
そんなん、といい募ろうとした城島に返されたのは冷ややかなまでに無表情の笑み。
「俺は申請したよ」
死にたくねえもん まだ。
びくりと震えた城島の背に気づかぬ振りで口に含んだ珈琲のいつもとは違う苦味に国分の眉に深い皺が刻み込まれた。
視界に広がる大きなスクリーンに映るのは、曇りを知らぬ瑠璃の空。
前途洋々、順風満帆とは言い難いが計器が指し示す未来はALL GREEN。
足を踏み出せばずぐりと灰色の土が足に絡む不安はどこにもない。
点検に二ヶ月を要した大型エンジンの音の快調のようだと、モニタの向う側の様子に城島はほとりと口角を綻ばした。
長瀬とであったのはまだたった1年前なんやなあ と眉月よりも細めた眼が風に揺れる蕾を見上げる。
大事な時に寝坊をする奴やからなあ、船にはきちんと乗れたやろうか と心配になる。ああ、そういえば、ここで花見をした日もあの子は遅刻をしたんだっけ。店の菓子を両手一杯に抱えて、ごめんなさい と叱られた子犬のような表情で太一の前で項垂れていた長瀬を思い出す。
『幸せ』と言うのはああ言う事を言うのだろうか。
柔らかな笑み、気のおけない会話。触れあう肩の距離、伸ばされた腕。
ありふれた日常の中に、たゆるように漣の一つ一つに淡い光が灯るそんな優しい一時こそが大切なのだと。
進んだ科学、贅沢な暮らし、触れあう事のないモニタ越しの会話。
それが普通なのだと思っていた自分。
守りたいものは誰の上にも平等に訪れるそんな一時の幸い。
おおきになあ、 と城島は頼りな気な幹に頬を擦り寄せた。
また、皆で花見ができたらいいね、蘇る笑みが嬉しくて、胸の上あたりがずくりと痛む。
「ごめんな」
柔らかい風、 過ぎ去った薄紅の優しい記憶。
「ったく、謝るぐらいなら鼻っからしなきゃいいだろう」
「…。自分」
背後から聞こえたあまりにも聞き慣れた声に、息を飲む。
ほんの僅か見下ろす位置から伸びてくる腕がくしゃりと城島の髪をかき乱した。
「あともう少しだね」
約束したでしょ、と城島越しに揺れる桜の蕾に浮かべる微笑。
「阿呆やろ」
「シゲ」
両肩にぽんと置かれた掌にぐぐっと力が隠る。
「貴方ね、言うに事欠いてそう言う事言う?」
この感動の場面にさ とわざと膨れた頬に城島が目を細めた。
「やって」
「大体、貴方一人で、あれ、破壊できると思ってるの?」
「ぐっさん」
「まだ、諦めてないんでしょ?」
伏せられた琥珀の瞳を彩る睫毛がふるりと揺れる。
「何年のつきあいだと思ってるの?」
おおきになあ、と肩口に額を押し付けると、とんと背に伝わる掌の温もりに瞼の奥が不覚にも熱くなる。
だが、そんな感動の一場面も、あっと言う間に過去のフィルムリールへと巻取られて行く。
「アンタら何やってんだよ」
「太一、なんでおるん?」
少しは人目気にしろよ と聞こえた声に、ちっと聞こえた小さな舌打ちに気付く事なく驚いて振返った城島をじろりと睨み付けてくるのは、見慣れた大きな瞳の三白眼。
「隕石のコース計算に、速度に距離にって、アンタ一人に全部できる訳ねえだろ」
ったく、何の為に俺がアンタのラボに配属になったと思ってるんだよ とポケットから取り出したのは指先程のメモリディスク。
「ここに、最短で辿り着く隕石の時間と距離、入ってるからさ」
「けど、やって、自分、船乗るて、チケット申請して」
言葉を憶えはじめた幼子のように辿々しく単語を綴る城島に、にやりと口角を歪めるように見せる笑み。
「したよ」
「やのになんで」
「あのね、俺にはね、両親と姉夫婦が居る訳よ」
一枚でも多く、チケットは申請した方が当たる確率高いんだよ 宝くじと一緒、わかる?と言うと、城島の手の中にディスクを押しつけた。
「ここに残されてるミサイルの数は限られてんだからさ」
一つでも失敗はできないでしょ、リーダー一人の計算だとどこで間違ってるかわかんないからね と目の前で立てられた親指に、城島はくしゃりと眦に皺を刻むように頬を綻ばした。
「えらい言われようやなあ」
「ま、太一の確識は正しいと思うぜ、俺も」
船に乗れた人は人口の半分にも満たないのだ。
一人でも多くの人が生き残れる道を捜さないとな と山口が城島の背を叩いた。
「当然やん」
隕石を宇宙空間で消滅させる必要はないのだ、否、元よりできるような数ではない。
「つまりは、出来る限り小さくして、大気圏に到達した時に燃え尽きるように出来れば良いってことだよね」
「そう言う事や」
どこまでできるかわからんけどな、その為の試算結果がこれに入っとるんやろ?とディスクを指で弾いて城島がにやりと笑った。
そして、
「あ〜、ったくもう、アンタ等揃いも揃って何ラボからっぽにしてるのよ」
背後から聞こえた三人目の少し裏返ったような声に、城島は感動よりも驚きよりも諦めの混じったような溜め息を一つ零し、山口と国分は、僅かに眉を挙げて顔を見合わせる。
「マボ、お前までここで何しとうねんな」
だんと足元に置かれた鞄。仁王立ちで見下ろしてくる自分よりも頭一つ分高い男に、城島の顔が情けなさそうな表情になる。
「言ったっしょ。アンタの飯は俺が責任持つからねって」
大体さあ、このラボの食堂しまっちゃったらアンタたちどこで飯食うつもりだったのよ とふいと逸らしたほんのりと紅に染まる横顔に、山口がにやりと笑って城島の肩に腕を回した。
「シゲ、この分だと貴方のチケットも無駄になっちまったんじゃねえ?」
「かもしれんなあ」
「大体さあ、リーダー、あいつが船の出立時間までに起きれたと思う?」
山口の逆位置から嬉し気に覗き込んでくる国分の言葉に、
「やっぱり、そう思うか」
僕もそれだけが心配でなあ、と何処か嬉しさを隠しきれない面持ちで、城島がほとりと微笑を浮かべた。
「取り敢えずさ、専属コックも戻って来た事だし、飯でも食わねえ?」
「せやね、今後の事も相談せなあかんしな」
「そうそう、そのうちあいつも来るでしょ」
「飯の匂いにつられてか?」
せやねと笑った虹彩に空に揺れる咲き染めの一輪の薄紅。
白く儚くけぶる空。
守るから、と伸ばした手に連なる手と手。
地球を。
世界を。
すべての人を。
そんな大それた事は望まない。
この手が抱きしめられる傍らの温もりを、守るのだ。
また、薄紅に染まる花灯りの下で、玻璃のグラスを重ねるために。