ごめんな。 くぅんと鳴く鼻先にきゅっと己の鼻が潰れるぐらいに押しつける。
でもさ、 と上げた明るい瞳子に陰はない。
仕方ないとは言わないよ 自分で選んだ事だだからときれいに唇が弧を描く。
さ、ここでお別れだ と降ろした愛犬のお尻をそっと押す。
くぅん もう一度だけ響いた甘えるような哀し気な声に思わず伸ばしかけた拳を爪が掌に食い込む程に握り締めた。
薄紅色の花が、時折訪れる悪戯な風の手に逆らう術を知らぬかのように天に舞う。
玻璃に揺れるは、琥珀に浮いた花筏。
この上もない至福の時 と頬を掠める笑みは透き通るように色がなく、傍らの男がほっと小さく溜め息をつく。
「どうしたのさ」
「や、贅沢やなあって思て」
からりと硝子を撫でる氷の音を楽しむように唇を付けた城島の、な と同意を求めるように小首を軽く傾ける仕草に、山口も己の手に握られたちいさなグラスをかちりと合わす。
「確かに贅沢だよね」
ゆったりとした時間、雲一つない空を背景に他に誰もおらぬ花の陰。
頬を滑る風の薫さえ春の色。
「全部、紛いもんやのにな」
そう、頭上高く広がる青い空すらも紛い物のはずなのに。何故に此処まで心地よいのかと。
自らの手で自然を壊し、己の欲望で季節という名の至宝を砕いたのは人自身。
なのに、全てを失った今も、頭上に広がる天はどこまでも青く、人を支える大地は暖かく、春には花が咲きほこり、夏には汗が額を辿り、秋は山が笑い、冬には不香花が大地を染めるのだ。
だが、それも一部の人の傲慢かと思わぬこともないのだが。
「しげ」
「おん」
寄せられた肩の温もりに、城島は静かに頬を預けて瞼を伏せた。
人の生は連綿と連なる鎖と同じ。
今ここにいる自分達の存在を嘆いたとて、過去に流れる歴を断ち切る事などできはしない。
「仕方がないとは言わないよ」
けどさ と耳朶に流れる声に城島は判っているのだと僅かに頷いた。
「りぃだあ、何してるんすか?」
どんっと勢い良くぶつかった人影に、思わず城島が零しかけたグラスを山口の手がすっと受け止める。
「長瀬かいな、びっくりさせんといてえな」
「だってさ、ぐっさんと二人でこそこそしてるから」
ほらあ、マボが拗ねてますよ そう、指差す先で広げられた弁当の横、軽く唇が尖った横顔に城島と山口は思わず顔を見合わせて僅かに苦笑を浮かべあうと、しゃあないね と長瀬と並ぶようにゆっくりと歩き始める。
「けどなあ、長瀬、頼むからおっちゃんびっくりさせんの辞めてくれるか?」
心臓止まるわ、ほんま 途端に早まった鼓動を押さえるかのような仕草に長瀬がけらけらと笑う。
「リーダーそんな柔じゃないでしょ」
「そらなあ、これぐらいで止まる程弱ないけどなあ」
ほら見てみ、今の僕の心臓滅茶早いやろ と、どくりどくりと刻む鼓動に長瀬の手が触れる。
「動物の心臓はな、20億回打ったら止まるんやで」
知っとうか?という言葉に大きく音がなるほどに振られる頭。
「みんな同じなんすか?」
「そうや、そら事故や何や他の理由もあるから一概には言えんけど。普通に動いてる分には、同じだけ脈打つんや」
せやから、駆け足よりも早い鼓動のネズミの命は短くて、ゆったりとした足取りの像の命は遥かに長いんやで とやんわりと語る穏やかな口調。
「てことは、リーダーの心臓も俺の心臓も同じ数だけ動くんすか?」
せやで、と片方の手を長瀬の胸に、もう一方を己の心の臓の上に触れさせる。
スッゲエと嬉し気に綻ぶ長瀬の笑みに、城島は悪戯な笑みを重ねるように浮かべる。
「せやけど、まあ、僕のんが早う止まるやろな、ただでさえ、自分よりも長い間こいつ動いとう上に、自分が脅かすからなあ」
「え、え、え、そんなの駄目っすよ」
戸惑ったような声と、顰められた眉に、刻み込まれる皺が深くなる。やから、あんまりびっくりさせんでな と笑う城島に大きく一つ頷いて。
「じゃあ、俺、先走って行きますから、ゆっくり来て下さいね」
「何も先に行かんでもええやん」
とすぐ目の前に広げられたござを見るが、
「走ったら、その分、俺も鼓動速くなるじゃないですか」
ね、そしたら、リーダーに少しでも追い付けるでしょ と言うが早いか、まぼ〜、太一君〜と駆け出して行く背に、頭上に揺れる花よりも淡い笑みがほとりと空気を揺らす。
「こう言うのなんて呼ぶんだっけ?」
並ぶように歩く男の手の中で、空になるのは琥珀の飲み物。
「ん〜?」
こんなにのんびりしてさ、桜見てさ、美味いもん食って、酒飲んで と透き通る玻璃を空に翳す。
「花見か?」
昔は、皆しとった行事らしいで と山口が持っていた小さめのグラスを奪い取る。
滲む硝子の向う側に映り込むは、春がすみのように薄紅の花に囲まれて、お握りを頬張る長瀬の姿。
「出来たら良いね」
「ん?」
「来年もさ」
皆揃ってさ こんな風にさ、傍らの満面の笑みに、できたらええなあ やんわりとした城島の声がふうわりと風に浚われた。