TOKIO

音容-3-

-->

楽しい時間というものは夢の如く儚くて、後に残るは寄る辺をなくした哀れな子供。
誰もおらぬ店の真ん中で、見上げる先は熱の残らぬライブの香り。

 

 

あの頃、と誰に言うでもなく小さく口のなかで呟きながらマイクの傍らに置かれたギターのボディを辿る指先が、折り重なるように辿るものは遥か彼方の夢の跡。

ほんま楽しかったわ。

 

 

白いシャツに黒い長めのエプロン姿のままで、城島は電源の落ちたステージに足をぶらりと垂らすように座り込んでいた。

 

バイトをしては、漸く溜った僅かな金でライブを開き、また翌日からバイトに精を出す、そんな日々の繰り返し。

当然、生活に余裕などがあるはずもなく、住居は男が4人も集まればきゅうきゅうと言い出しそうな1Kの小さな古いアパートの一室だった。

それでも、夜が更けるまで夢を語り、朝が開けるまで音楽の事を話し合った。

今考えたら恥ずかしいまでに青い春やったわ とあの頃よりも深い笑い皺が眦にひそりと浮かぶ。

 

堅く、だが適度な遊びを持って張られた弦の強い、痛みを覚える程の感触。

「せやけど、それが全てやったんやもんな」

何かの歌詞ではないけれど、何もない、この掌にあるのは、ただ先の見えない、否、先を思い描く夢だけだった。

 

今も

五年も過ぎた今でさえ、いや、手を離した今だからか。

ぽかりと開いた時間の隙間に忍び込むような寂寥感と空しさから逃れたくて、震える瞼を伏せれば、鮮やかに蘇るギターの音。

腹に響くはどっしりと支えるようなベース音。

重なりあう伸びやかな声、時折音を外す鍵盤のメロディ。

 

気が付けば、いつも変わる事なく当然のように、傍らにあった夏の陽光のような笑み。

自分の名を呼ぶ声。

 

だが、所詮夢は夢。

生まれては消える春の薄氷のようなもの。

熱すぎる思いにほろりと溶けて、伸ばした指の隙間を擦り抜けるように、堅すぎる現実にぶつかり霧散する。

 

「さ、さぼっとらんと仕事しよ」

店内に隠る昨夜の酒気を帯びたような澱んだ空気を入れ替える為に、城島は壁の空調のボタンを押した。

 

テスト期間中である城島の勤務形態は頗る健康的なものである。

朝の9時に、店に出勤。

11時に始まるカフェオープンの時間までの間に、店内の掃除。ライブの翌日は、あちこちに押しやられたテーブルを元の位置に戻して、ダルトーンのペーパーのランチョンマットを並べていく。

そうこうしている間にも、厨房担当の松岡が出勤。

昨夜のうちに仕込みが済んでいるランチの準備の手伝いに入る。

とは言っても、指を切った翌日からは、包丁を持たせてもらえずに、もっぱら皿洗いや後片付け、それに何故か味見という大役を仰せつかっているのが実情。

城島が松岡が厳選したその日のランチメニューに舌鼓を打っている丁度、カフェがオープンする10分程前に、フロア担当の長瀬が息せき切って出勤する。

店の繁忙時期は、12時をすぎた頃から大体13時半頃まで。

それがすぎると三人は交代で休みを取り、2度目の煩雑期到来となるティータイムの準備に入る。

16時には一度店を閉めて、カフェからライブハウスへと看板を掲げ直して、再びオープンするのは19時過ぎ。

だが、城島が店にいるのは大体18時頃まで。

カフェの店じまいとライブハウスの準備が終わる頃には、仕事が終了になる。

 

「せやけど、けったいなライブハウスやなあ」

「何がです?」

頬杖をついたカウンタ越。ずらりと並んだ種々様々な酒瓶の中に挟まれながらも、堂々と置いてある少なくはない焼酎の瓶に、昼の休憩中の城島がすっかりと砕けた口調でからからと笑う。

「え〜変ですか」

「やってなあ」

お洒落なライブハウス、言うイメージちゃうやろ 弓月のような瞳に長瀬は唇を尖らせた。

「そうかなあ」

カウンターの中では、コーヒーカップをきゅるきゅると拭く長瀬が小首を傾げながら、背後の棚を見上げている。今まで考えたことなかったいえどなあ 確かに他のライブハウスに比べたら酒の種類は多く、その選択も個性的なのかもしれないが。

「まあなあ、昨今の健康ブームに乗っかって集めた、いう量ちゃうわなあ」

みんなまだ若いのにな、誰の趣味なん ほんの少し甘みの利いたアイスティーを飲み干すと、ゆっくりと伸びをする。

「ほな、そっち入るわな」

「ビールは皆好きだし、ワインは松岡君でしょ、焼酎は、山…あ、えと店長かなあ」

思わず溢れた名前の欠片に、お約束のように慌てて口元を押さえた長瀬の仕草が、いとも可愛らしく、飲み終えたグラスを洗いながらも城島は笑みを零す。

「そないに慌てんでも、名前聞いただけやったら、顔までわからんやろ?『山』言うたかて、山際さんやら山田さんやらおるんやしな」

「そうですよね。『山』だけじゃ、わかんないですよね。山中さんかもしれないし、山野さんだっているんだし」

「せやせや、山川さんに山路さんやろ、他にはえ〜っと、やま…ぐち」

 

扉の開く音等しただろうか。

 

既に昼の喧噪をすぎた店内に、他の客の姿は見あたらず。さほど背は高くはないが、がたいの良い男は、誰の案内を乞うこともなく、入り口からすぐにある席にどかりと座り込んだ。

「メニュー」

とんっとテーブルを叩いた音に、城島の手が滑り、あたりに甲高い硝子の音が響き渡る。

「茂君!!」

長瀬の悲鳴に、城島はぼんやりと傍らにある泣きそうな顔を見上げた。

「あ、あ、すまん。ちょお、ぼおっとしてもうて」

弾かれたように座り込んだ城島の手を止めたのは、奥で休憩を取っていたはずの松岡だった。

「長瀬」

「何?」

「お前、休憩行って来い」

え、でも、カウンターの向こう側にある不機嫌にさえ見える山口の表情と色を失ったような城島の青醒めた横顔を長瀬の視線が何度も行き交う。

「奥に昼飯用意してあるから」

砕け散った硝子に触れる事を赦さぬようにぎちりと掴まれた手首に困惑した表情で、城島が松岡を見上げるが。

「ここは俺が片付けるから、茂君はお客さんにメニュー持っていってよ」

「あの、あのな」

ぱんとエプロンを叩くと、松岡はほんの少しきつい眼差しで城島を見下ろした。

「仕事だよ、茂君」

 

「久しぶりだね」

差し出されたメニューを開きながらも、山口の視線は隠すことなくまっすぐに城島の横顔を見つめている。

「灯台下暗しか」

「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

山口の言葉に返事をすることなく軽い会釈をして、踵を返しかけた背に、間を空けずに、ホット と声が掛かる。

「それとクラブハウスサンドイッチ」

城島は、ポケットにさしたメモを取りあげた。

「ご注文を繰り返します。ホットコーヒーとクラブハウスサンドイッチでよろしいでしょうか?」

「シゲ」

確認をするように立ち止まった腕を山口が迷う事なく掴みとる。

「頼むわ、僕、仕事中やねん」

やんわりとした拒絶を見せる表情に、固く噛み締められる唇の色。城島は頑に視線を反らし続けていた。

 

ひゅらば?

「お前ね、パスタ食い終わってからしゃべれよ」

こっそりと覗き見る己の頭上で聞こえる声のあまりの緊張感のなさに国分は大きく肩を落とした

 

「ずっと探してた」

テーブルに置かれる珈琲がざわりと波立つ。

「なんで、連絡の一つもくれなかったんだよ」

かたりと音を立てながらも、サンドイッチの皿を置くと城島はぺこりとお辞儀をする。

「ご注文はお揃いでしょうか?」

「シゲ」

「ごゆっくり」

「シゲ!!」

「すまん、僕、バイト中やねん」

勝手なことできへん 戻らんと とどこか気弱げな、およそ、山口が知るなかであまりにらしくない表情で。

「わかった」

言うが早いか、ものの一口で珈琲を飲み干して、目の前のサンドイッチを二つずつ口の中に消えて行く。

「な、なあ、喉詰まるて」

「追加注文な、珈琲のお代りとパスタ。ああ、珈琲はパスタの後でいいや」

水で流し込みながらの注文に、呆れたような、だが、漸く垣間見えた微かな笑みに山口は椅子に腰を下ろした。

 

「ずっと東京にいたの?」

「うん」

情けないことに離れられんかったわ かしゃりとフォークとスプーンを置くと躊躇う事なく横を向いてしまう背。

 

穏やかな午後のティータイム。

城島がサーブに通りかかる度にやっと交わすことができる短い言葉。

 

平日の午後のこともあり、席は半分ぐらいが埋まっている。

忙しくはないが、手を止める暇のない城島の背を、頬杖をついた山口の視線がゆっくりと追う。

 

頬に浮かぶ人当たりの良さげな笑み。

耳朶を揺らす柔らかな西の訛。

時折擦れ違う度に無邪気な長瀬の言葉に向けられるのは、自分に向けられることのない優しい瞳。

 

ぎりぎりと握りしめた掌に食込んでいく爪の跡。

 

「オーダー追加」

丁度、5度目にあげられた手に、城島は黙ってメニューを片手に山口の座る席に近づいた。

「シフォンケーキとミルク」

「もうやめとき」

「なんでだよ」

「いくら自分が人よりよう食べる言うたかて、もう、腹一杯やろ」

無茶せんとき と目の前の皿を手際良く片付けて行く。

「この店は客の注文を断るのか」

「心配させんといてえな」

頼むわ、懇願するような眼差しに、山口は、だんとテーブルを叩き付けた。

「心配ってなんだよ、散々心配させたのはどっちだよ」

「山口」

ほろりと零れ落ちた声は、紡がれる事のなかった一つの音。

「良かった、俺の名前なんて、すっかり忘れたのかと思ってた」

とたんに破顔した子供のような笑みに城島は戸惑いを隠せずに、一歩後じさる。

「仕事終わるの待ってるから」

「会えへん」

「なんでよ」

逃さぬように伸びた腕が震える肘をぎちりと握りしめていた。

「あかんねん」

頼むわ、

「シゲ!!」

叫びはそれ程の大きさではなかったが、悲痛なまでに罅割れた感情に振払う事さえできなくて。

 

泣き出しそうな城島の肩に、山口の額が縋るように触れようとしたが。

「お客様、他の方に迷惑になりますから」

いつの間に来ていたのか、国分が城島の腕に掛けられた山口の手をやんわりと解いていく。

 

「わかったよ、今日は帰るよ。でも、最後に一つだけ聞かせて」

「ん?」

「貴方、今でもギター弾いてる?」

黙って頭を振る城島の頬に、一瞬、山口の手が触れて、だが、温もりが伝わる前に握り込まれた指先は何を捕まえようとしていたのか。

 

「また、来るわ」

吐き出す息に紛れて落ちた声は、小さく、だが耳の奥深くにある城島の蝸牛を震わせていた。

シリーズ

Story

サークル・書き手