梅雨の晴れ間なのか、それとも空梅雨か。
城島の初出勤の日は、初夏と呼ぶにはふさわしい穏やかな陽射しが緑に眩しい朝だった。
明朝の九時に店に来るようにと言われた城島を出迎えてくれたのは、昨日出会った松岡と同じぐらいの身長を持つ、あどけない笑みを見せる年若い青年だった。
「松岡君の飯はすごい美味いんですよ」
長瀬智也 そう名乗った青年は、こっちがトイレで、と布巾を片手に城島に然程広くない店内を案内して行く。
「でね、夜だけじゃもったいないって太一君が、あ、太一君は」
「昨日お会いしたフロアマネージャーの国分さんやね」
やんわりとした口調で、どこか散漫に言葉を綴る長瀬に城島が言葉を補う。
「そう、その太一君がね、ならどうせ店はあるんだから、昼間もやればいいって」
昼はカフェ、夜はライブハウスへと姿を変える店『TOKIO』のウェイター兼バンド『TOKIO』のヴォーカルだという彼は、年の割に邪気がなく。言葉を交わす度に城島が驚く程に素直な青年だった。
「ほんで、今、お店で働いてはるんは何人なん?」
「え〜っと、俺と松岡君と太一君とや…店長?」
指をゆっくりと折りながら人数を数える幼い仕草に、笑みを浮かべながらも ほしたら、大変やねんねえ と細められた優しい眼差しに長瀬が嬉し気に頷いた。
「そうなんです、だから、俺、し…城島さんが来てくれて、すごい嬉しくて」
店内にある十個程の丸テーブルを拭き終えた城島は、傍らに寄せていた椅子を降ろしながら長瀬を振り返った。
「僕の事、呼び捨てでええですよ」
よいしょ、と掛け声とともに重ねられた椅子がことりと床に落ちる。
「え?でも、城島さん、俺よりずっと年上だし、」
「せやけど、この店では僕の方が長瀬さんより後輩やから」
「俺こそ、呼び捨てでいいっす」
ぴたりと手を動かすのを辞めて、見下ろしてくる拗ねたような口調に、城島は困ったように表情を曇らせた。
「それこそおかしいやろ?」
「『長瀬さん』なんて呼んだら、俺、返事しないです」
ぷくり、膨れた頬は幼子そのもので。
「でもなあ」
心底困ったような城島に、長瀬も釣られたように情けなさそうに表情を曇らせていたが、
「あ、だったら、俺、茂君って呼びますから、茂君も俺の事、長瀬って呼んで下さいね」
「はい?」
名案とばかりに城島の手を取り、ね と。
「ちょ、ちょお、待ってえな。『茂君』て、僕、二十五も、とおに過ぎたええおっさんやねんけど」
「茂君はおっさんじゃないですから、大丈夫、約束っすよ」
何が大丈夫なのかと喉まで出かけた声は、指切りげんまん 嬉し気に謳う長瀬の笑みに消え、城島もしゃあないなあとどこか楽し気に小指を絡ませた。
「で?どうだ?」
店の奥にある、小さな事務所にある机の上、先刻から忙しく電卓を叩いていた国分が、唐突に振って来た声にようやく顔を上げる。
「何って?」
幼めいた顔立ちの中にある大きな瞳をくるりと回す楽し気な表情に、山口は軽く肩を竦めた。
「わかってて聞き返すか?」
普通 とどこか苛立たし気な声の山口が店を留守にして二日。
当然のように、新しい店員となった城島とは、まだ、顔を合わしてはいない。
くく、と喉の奥で猫のようにくくっと笑うと国分は、リスのように大きな瞳を三日月のように細めた。
「今日はさ、厨房の方頼んだんだけどね」
「あんたさ、すっげ、不器用なんだね」
さくり、さくり、そんな音をたてて足下の箱の中に落ちて行く皮の切れ端の行く末に、松岡が溜め息をついた。
「こんなに皮厚く向いたら原価割れよ?」
わかる? と、傍らの丸椅子に座り、城島が黙々と向いていた不器量なジャガ芋を一つ取り上げた。
「すんません」
きょとんと一瞬目を見開いたものの、隣の松岡が剥いたジャガ芋の皮の薄さに、素直にうなだれると情けなさそうな横顔となった城島に、今度は松岡の声が慌てたように裏返った。
「別段、俺、アンタに怒ってる訳じゃないのよ。ただ、その」
「自分でも不器用やなって思うんですわ」
せやから、松岡さんの言う通りなんです。
見ている方がはらはらしてしまう危なげな仕草で、それでもジャガ芋の皮を薄く向こうとする城島の一所懸命な横顔に、松岡の黒めがちな瞳が微かに揺れる。
「えとさ、松岡でいいよ、俺もあんたのこと茂君って呼ぶからさ」
長瀬もそう呼んでんでしょ
「え、でも」
いっ、勢い良く顔を上げた拍子に包丁の先でついた指にじわりと滲む赤い色に、二人は呆然と顔を見合わせた。
「ちょと、あんた何やってんだよ」
ちゃんと食ってんのかよ 有無を言わさず掴んだ手首が、思ったよりも細い事に松岡は眉根を寄せた。
尤も、松岡が比較する相手が、自分自身と彼を取り巻く三人のメンバーであるとしたら、城島でなくとも華奢に感じるかもしれないが。
賄いで食わせようと密かに考えながら手際良く少し大げさすぎるぐらいに巻かれた包帯に、城島は困ったように口角を歪めた。
「こんなんしたら僕ジャガ芋剥けんのやけど」
「いいよ。もう。あんたが不器用なのはよくわかったし」
それに、と松岡はアヒルの嘴のように唇を尖らせると不意と横を向いてしまう。
「今、あんた、お試し期間なんでしょ」
嫌になられたら、こっちが困るじゃん
どこか照れたようなその横顔に、ありがとう とふうわりと綻んだ微笑の柔らかさに、薄紅色だった松岡の耳朶がいっそう深い紅に色を増す。
「瞬く間に二人ともすっかり彼に懐いちゃったって訳」
ったく、見掛けに寄らず安いよな、あいつらも、と椅子を引くと棚に設えてあるコーヒーサーバーから並々と注いだカップを壁に凭れたままの男の手の中に押し付ける。
「お帰り」
首尾はどうだったなんて野暮だよね そう笑う国分に
「あ、ああ、ただいま」
帰るなり他の何よりも城島の事を口に出していた自分に漸く気がついたのか、どこか極まり悪気に鼻の頭を掻く男の表情に、国分は片目を眇めた。
「あの城島さんって、本当は腕のいいブリーダーかなんかじゃねえの」
「何だよ。それ」
「考えてもみなよ、うちの大型犬ニ匹は一瞬で尻尾振りまくり状態だし、どっかの日本犬は忠犬ハチ公さながらに、彼を五年間も待ち続けてたわけだし」
にやり そんなあまり趣味が良いとは言えない笑みのまま、自分も珈琲を口に含むとぎしりと椅子に座り直した。
「忠犬って…」
どん、再び壁に背を預けると山口は苦笑を浮かべる。
「思わねえ?誰かさんが居なくなってバンドは当然のように自然消滅。山口君ぐらいの腕なら、すぐにだって他のバンドに移れたはずなのにさ」
結局、自分でバンドメンバー探して、その上、とついた溜め息は呆れたような、だがどこか感心したような微妙なものだった。
「意味…ないからな」
シゲが居ないバンドなんてさ
珈琲の熱を払うように零れた言葉に孕んだ心情は、五年、彼の傍らにいた国分でさえも推し量る事はできない。
「で、あの人、居るのか?」
店に、とわざわざ人目を避けるように従業員入り口からこっそりと帰って来た山口は、しかりと閉められた扉の向こう側を覗くように首を伸ばす。
「試用期間の一ヶ月は昼間だけを手伝ってもらう事にしてるから」
暗にもうとっくの昔に帰ったという言葉に、くそっと小さく悪態をつくと、厚い身体がずるりとその場に崩れ落ちて行く。
「とりあえず、店長の名前は告げていない」
片眉だけを器用にあげて見上げてくる山口の手の中に、表情を変える事なく国分は一枚の紙をひらりと落とした。
「店員としての対応を見る為の抜き打ち試験するためだって言ってあるけど」
あ、それ、彼の今の住所ね そう言うと、電卓のスイッチをオンにする。
「どうするかは自分で決めなよね」
お膳立てはここまでね 両腕に頬を埋めた男を見たのはほんの一瞬で、国分は、再び帳簿を開いた。
ああ、とふらりと部屋を出て行く背に国分が顔を上げる。
「『音が懐かしい』そう言ってたよ」
どこか淋しそうだったけどさ
ぱたんと静かに閉じた扉に、ふんと鼻先を鳴らして、
「蛇足だったね」
室内には、再び電卓を弾く音だけが響きはじめた。