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印象化石2-後編-

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柔らかな月華を帯びて綺羅と輝く太古の光。
掌の中で、ころりと揺れるは、印象化石。
青く煌めく月影に空に浮かぶは、蛤の描いた現の蜃気楼。

 

「綺麗な音やろ」

耳朶に触れるは銀の旋律、玻璃の音。
美しくもどこか哀しいメロディを辿るその音に、紗に落ちるように見え隠れするは、淡い影。
「シゲ」
「行き場をなくし、大気に揺れる人の想いは、天に向かって昇華する」
音が具象化されたかのような銀色の紗が波のように揺れる空間に、山口は、小さく瞬きを繰り返し、無意識のうちに半歩後ろへと後じさった。
「夢幻の音と無限の声や」
そんな中、渦を巻く音の坩堝の中から聞こえた、蜘蛛の糸よりも淡く細いかけそい旋律。
「綺麗やと思た」
指先をゆるりと揺らすたびに、さざめく銀が幾重もの光の渦を描いては、すぅと闇に溶けるように消えて行く。
同時に、淋しいと唄う音の哀れさに、月の光が溢れたのだと男は月華よりも鮮やかに笑った。

「真綿のように柔らかく、微温湯のように温かな想いの欠片に埋もれながら、寂しいと泣くのだよ」
雫にならぬ涙を流し、声に成らぬ嗚咽を漏らす。
「あれは、お前たちの心だ」
逢いたい
元気?
ちゃんと食ってるの?
惑う彼の心に永遠に降りつむ慈雨のような優しさに、触れることを怯えて嘆いているのだと。

「なんで」
逢いたいなら呼べば良い、帰りたいなら心のままに足を向ければ良い。なぜ、彼はそれを拒むかと。
「俺たちはずっとあの人を待っているのに」
「怖いのだよ」
「何が」
「再び失うことが」
「何を失うってんだよ」
微かに怒気が孕んだその声に、男は、再び人間臭い笑みを浮かべた後、幼子のようにへしょりと眉を顰めると、くしゃりと表情を崩した。
「やって」
一瞬前とがらりと変わった、再び西の訛りを持つたどたどしい口調が戸惑うように言葉を紡ぐ。その子供のような仕草に、ほんの僅か柳眉を寄せる。
「貴方は何を怯えてんだよ」
「ずっと一人やったんやで」
僕、と呟く声は消えそうにかけそい。家族と離れ、ギター1本だけを背中に背負いいくつもの町を点々と旅をして、なんとなく居着いた小さな町の小さな家。
「誰かと知り合っても、次の日には手振って別れてまう、そんな相手しか、知らんかった」
じゃあ、またな。
二度目があること等信じてもいない、ただ、重ねる言葉の音だけがその刹那の意味をなすそんな触合いしか知らなかったのに。

「へぇ、良い曲だね」
そう、気さくに声を掛けてきた年下らしい男は、その日から毎日公園でその姿を見かけるようになり
「俺、ベースやってたんだよなあ」
懐かしいなあ、俺、一緒に弾いても良い? 向けられるのは、太陽よりも眩しい、屈託のない笑顔。
茂くんって言うんだ、接触嫌悪症、そんな自分の頑なまでにすげない態度にも気づいた素振りも見せずに、今日からよろしくね なんの戸惑いもてらいもなく、真っすぐに差し出された掌に城島は、いつもやんわりと細めていた眼をきゅっと見開いた。
「へぇ」
その途端山口と名乗った男は、出会った時と同じ言葉を小さく吐いて、
「貴方、すごい綺麗な瞳してるんだ」
知らなかった とほんの少し拗ねたような、同時に、どこか目映げに眼を細めたのだ。

「自分、事も無げに一緒におるて僕に言うたんや、一緒にやろうて」
うん、とどこか幼子のようにくしゃりと歪んだ泣き顔のような笑顔に、山口は言葉少なめに小さく頷いた。
「どうしたらええんやろうて思たん」
あんなに素直に、自分を求められたこと等なかったから。
「喜んでええんか、怒ってええんか」
山口との生活を、惑いながらも漸く受け入れかけた頃、白目の三白眼の大きな眼の子供が増え、さほど時を重ねる間もなく細いひょろりとした男の子が自然に居着いてしまった。
「迷惑だった?」
ううん、と城島は、微かに頭を振ると、ぐずりときゅっと皺の寄った鼻先を啜る。
「家ん中は、いつだって起きたばっかりの鶏みたいにけたたましいし、後ろついて回る雛みたいでうっとうしいし、物考えたい、思うてても、ノックもなく人の部屋に入り込んで寛いどうし」
指折り数えるようなその台詞に山口は思わず、うっと一歩後じさった。
「時折な、こいつらマジで、首根っこ掴んで家の外放り出したろか 思うぐらい腹立つこともあってんけどなあ」
変やろ、とほとりと弧を描くように緩んだ眼が僅かな色を映し出す。
「楽しかったんよ」
人の温もりが苦手で、人よりもパーソナルスペースが極端に広いはずの自分の回りに、気がつけば、肩に凭れて眠る男を自然に受け入れ、小さな自分の家のキッチンでは自分ではない誰かが料理を作り、食事を一人でとることすらなくなっていた。
「嫌 だった?」
一人を好む人だと気づいていたのに、と山口はきゅぅと下唇を噛み締めると僅かに上目遣いになりながら城島を見上げた。
「あったかかったよ」
傍らに人が居るということがこれほど安堵できるのだと初めて知ったのだ。
「あったこうてやさしゅうて、まるで真綿の中に包まれとうみたいやった」
母の羊水にたゆる胎児のように、遥か遠くで梳いたように零れ落ちる陽光に身を浸し、微かに細めた瞳子に映り込むは、水彩で描かれたような淡い憧憬。
「だからな、恐なった」
「なんでさ」
「このまま、ここにおってええんやろかて」
「シゲ」
「ああ、ちゃうな、いつまでここでこうしてられるんやろうて思うたんや」
一気に言いきると胸に溜まった吐息をはぁと吐き出しながら、うん、と小さく頷いて。
「いつか、この子ぉらがおらんようになるかもしれんなあ」
そう、考えるだけでも、ここらへんがきゅうってなったんよ と胸の辺りを握りしめる指の強さに、彼の纏うポロシャツに幾重もの線が走る。
「居なくなるなんて」
「一年後やろか、明後日やろか、ううん、明日目ぇ覚ましたら、誰もおらへんかもしれへん」
目を覚ませば、夢幻に揺れる優しい空想のように、おはようと掛けた声に、返る言葉はどこにもなくて、かさりと踏みしめた譜面だけが現実を教えるのだ。
そう、夢から覚めた子供のように。
「けど」
やって、怖かったんや そう子供のように泣きじゃくる城島の姿に、山口は、バカだね と小さく笑った。
「俺たちが貴方を一人置いて出て行く訳がないじゃん」
「わからんやん。だって、一緒に居る理由がないんやから」
「理由なんて、んなもん両手で数えきれないぐらいあるに決まってるだろ」
「ほな、言うてみぃ」
まだ、雫の残る眦をきっと釣り上げて、睨みつけてくる城島に、えっとと思わず口ごもり、山口はぽりぽりと顳かみを掻いた。口から溢れる、え~とかあ~ とか言う言葉にならない音の羅列に、ほら、見たことか とどこか自慢げにさえ見える仕草で、くんと突き出された顎に、山口は、僅かに眼を綻ばせると小さく笑みを浮かべた。
「理由なんてたくさんいらねぇよな」
うん、そう口角をきゅっと緩めて。
「俺たちがさ、貴方と一緒にいるのは、貴方が好きだからだよ」
それだけで十分じゃん そう告げるどこか面映げな笑みに、え?とほんの僅かな戸惑いを見せ、それから城島はゆっくりと頭を振った。
「嘘や、僕のこと好きになってくれる人なんて」
おるわけがないんや、そう、ずっと前から、そう幼子のように頭を降り続ける男の頑さに、山口は指先程の驚きと溢れんばかりの痛みを覚える。
この人は、一体どれだけの長い時間、一人で過ごして来たのだろうと。

それから、そっか、と呟いた後、山口は、眉を顰めて浅い吐息を一つついた。
貴方は、怖かったんだ と。俺やあいつらに嫌われてしまうことが。
だから、俺たちから離れたんだね と泣きじゃくる子供ののようにしゃがみ込んでしまった城島の前に膝をつくようにして座り込んだ。

だから、貴方は理由が欲しかったのだ。
いつか、俺たちが貴方から離れてどこかへ行ってしまったとしても、それは嫌われたからではなくて、城島がそこにいないからなんだと思えるように。
そう、彼らに 忘れられてしまっても仕方がないのだ、当然だ、もう、貴方は俺たちから離れて3年も経ったのだから そう、自分を納得する理由が。

「シゲ」

それでも、

「でもさ、貴方、本当はさ、俺に見つけて欲しかったんでしょ」
その言葉に、一瞬弾かれたように顔を上げたが、すぐさま、うつむいて己の膝に顔を埋めてしまう年上の人。
貴方のこんな姿初めて見たよ と山口は、くくっと喉の奥で笑うと、ね、とゆっくりと掌を伸ばした。
山口たちの足止めをするために印象化石を教えて出て行った城島だった。だが、同時にそれは城島を追い掛ける唯一の術でもあったのだから。
「あのさ、一つ言っておくけどね。貴方がどんなに俺たちから離れようと、遠くに行こうと、それを貴方の理由にはしてあげないよ」
「やまぐち」
「だってさ、貴方が、そんな理由を探す意味なんてどこにもないじゃん」
「貴方がさ、どんなに嫌がっても、俺たちの事鬱陶しがっても、もう、俺たちは貴方の事を嫌いになれるはずもないからさ」
だから、ねぇ、とゆるゆるとしゃくり上げるたびに揺れる前髪に絡めるように指を伸ばした。

「え?」

だが、指先は何に触れる事もなく空を裂き、頬に触れようとした左の手が、目の前の彼の顔を横切るようにすり抜けて行く。

「この姿は、月の光に心の洞に揺れる影を映しただけのもの」
すぅと1m程滑るように空に浮かぶ姿に、山口は目を見張り、きゅっと下唇を噛み締めた。そう、目の前の男は彼ではないのだ。先刻まで、確かにそこにあった、温かな肌の温度を指先程も感じさせぬ玲瓏なまでに蒼い美しさを滲ませて、山口を見下ろす眼は人形のように冷たい。
「なんで」
「お前の想いの欠片にこの者の心が震えたからだよ」
それでも問わずに居られなかった山口に、月の影はくくっと喉の奥で笑った。この者の心を受け止める水銀の瓶は、溢れんばかりに満ち満ちて、そのたたえられた抑えきれぬ想いに、ほとりと落ちた最後の一雫。
留まりきれなくなった彼の心が涙のように大地に染みて、月の光に照らされた。ただ、それだけのこと。
「溢れた雫が淡く開いた光の道を通り、今ここにあるに過ぎない」
だから、とすぅと伸ばした指先の指し示す先に、一筋の光が空を指す。
「じゃあ、シゲは」
「ここにはおらぬ」
ただ、月光の届く先に赤子のように眠る彼の姿が見えるだけ。一瞬、再び彼を見失ったのだと、絶望しかけた山口に、月影は、薄い笑みを浮かべ、己の指の指し示す先にある隣の街の名を呟いた。
「そこに、シゲはいるの?」
「さあ、ただ、遠くにはいるまいよ、月に落ちた影が届く場所に居る、わかるのはそれだけ」

だが、この指の先に彼が居るのだと、踵を返しかけた山口は、数歩走った先でふと振り返る。
「あのさ、ありがと」
その少し照れたような、表情に、男は僅かに片方の眉をあげると、ゆっくりと口角を緩めた。
「何故、礼を言う?」
「あの人に逢えたから」
「だが」
うぅん、と小さく頭を振ると、山口の唇が綺麗な弧を描き出す。
「本当は、逢う事の許されないあの人だったかもしれないけど、あの人は俺たちの前ではとことん大人ぶる人だからさ」
自分の弱さの欠片等、指先程も見せる事なく、そのすべてを慈愛のような笑みの下に隠してしまう人だから。
「何か礼ってぃうのかな」
できない?と鼻の下を指先で擦る仕草に、月影は、細めた眼をそのままに山口を真っすぐに見下ろした。
「ならば、あの者の幸いなる音を」
あの空に、と指した先におぼろに霞む月の華。甘やかな薫りも仄かに、咲く姿が、雲居に惑う月の姿に、ゆうるりと闇に透けて行く。
「わかった、次の満月をさ、楽しみにしててよ」
あの人と最高の、と言いかけて、山口は、にかっと笑みを浮かべた。
「俺らメンバー全員の最高の音を届けるからさ」
待っててよ、と片手を大きく振ると、山口は今度こそ、後ろを振り返る事なく走り出した。

 

走りながら、眼をつぶり、空に向かって、想いの欠片を大きく放った。
今こそ貴方に逢いに行くよ と。

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