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印象化石2-前編-

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柔らかな月華を帯びて綺羅と輝く太古の光。
掌の中で、ころりと揺れるは、印象化石。
青く煌めく月影に空に浮かぶは、蛤の描いた現の蜃気楼。

 

からり、軽やかな音をお供に引き戸のような扉を開くように外に出ると、元気な女性の声を背なに受けながら、とぷりと陽の落ちた街の淡い光が視界に戻る。
すれ合う人情だけが売りのほん十分程歩けば、端境につくような小さな町だ。
それでも、宿に泊まれるってのは嬉しいけどね、と手の中の鍵を空に放り投げれば、銀の光が描くは一筋の放物線。それが今宵の仮の宿と己をつなぐ小さな道筋となる。
そんな他愛もないことを考えながらも行き交う人のない細い路地に、暗く黄色い光に照らされて、歪なまでに長く踊る一人分の影に小さく笑う。

今宵も一人と。

こんなに長い間一人だったことはあっただろうか。
ああ、あの人と出会う前ならば、なかったと断言することはできないかもしれないが、もう、遥か彼方の記憶の端にすら残りもしない淡すぎる記録のような己の過去に何の未練もあるはずもなく、まだ、大人になりきれぬ幼さが覗く己の生を振り返る気は、これっぽっちもありはしない。
だから、と言う気もないが、そうして振り返れば、自分の中の生と感じる時の中、3ヶ月もの時間を一人で過ごした事等ありはしない。
まあ、と山口はこりりと鼻先を掻きながら、足下の哀れな小石をこんと蹴る。
城島が出て行ってからの3年という年月。あの人の欠片を探すように、幾重にも重なった大気の層を掘り続け、気がつけば壁一杯に並んだあの人の印象化石。
でも。
そう、でも、だ。いくらあの人が残した欠片を掻き集めても、それはただの思い出であり、城島自身ではない。そんなこと、あの人が家を出て行った翌日には気づいていたけれど。
だが、同時に、心地良いと感じていたのも事実だった。あの人だけを想い、あの人の影を追い続ける事だけを重ねる日々。それはまるで、母を慕い、その影を探し家中を歩き回る幼子のような寂しさと、ただ、母の温みだけを求め、羊水のように柔らかくたゆる空気だけを追い求める時間のようで。伸ばした指先に触れるあの人の消え去ったはずの、だが、しかりとした過去のあの人の熱を感じて、競り上がるのは喜悦のような吐息だけ。

だが、自分たちと知り合ってからのあの人を追いかけ、やがて、掘り尽くした大気の層は、深く眠るあの人の過去へとたどり着いてしまった。

透き通る玻璃よりも儚く、命を抱きしめる琥珀よりも温かで、同時に、葉先で揺れる朝露よりも寂しげに震える城島の息吹の欠片。
触れることすら叶わぬ化石はその奥深くに、確かに自分の知らない城島の姿を映し出し、淡く解ける春先の淡雪のように小さく儚く大気に還り、あとに残るは、行き場をなくした己の想い。
貴方を知りたい そう、切実に願った瞬きの間。

いつだって自分たちに向けられる柔らかな笑みを浮かべた貴方。
拗ねたような幼子を思わす表情の貴方。
どの欠片に揺れる城島も大切だったけれど、己の知らぬ貴方に会いたいと、弟分たちを残して、旅に出た。だが、敵も去ることながら、山口が旅立って1週間後には、国分たちは、あっさりと追いつき、結局は一緒に旅を始めたのだけれど。そう、今目の前におらぬあの人を捜す当て所のない旅へ。

 

すぅと大気を裂くように、小さなハンマーを差し込むと、音もなく貌を還る空気の欠片を両手でしかりと受け止める。柔らかなエメラルドよりも淡い、そう、ペリトッドのような優しい欠片は、確かにあの人がこの町を通ったという証。
だが、3年だ。時折、時を交錯するように見つかる幾重にも重なった印象化石に、気がつけば、進むべき道は二つに増え、長瀬と国分、松岡と山口と二手に道をわけ、1ヶ月半。そして、3ヶ月前、躊躇うことなく松岡とも道を違えた。
今頃どこでどうしているのか、と時折不安になることもあるが、と山口は、そっと胸に当てた右の掌に、ふぅっと息を吹きかける。途端に、姿を現すのは柔らかい黄色みを帯びた小さな結晶。
「ちゃんと届けよ」
そういって、空に向かって放り投げると同時にすぅと溶けるように姿を消すそれは、

「想いの欠片って言うんです」

旅出てしばらくした頃のこと、道を分つかと思案しつつ、地図を眺めている時だった。
「でもさ、俺らもまた連絡とれなくなっちまったらどうすんの?」
あの人だけじゃなくて、皆バラバラじゃん、と軽く唇を尖らせたひょろ長い弟分の後頭部をこんと軽く叩いて、まあなあ、と山口が足を組み替える。もともとは一人で旅するつもりだったのだから、それも仕方なし、なのだけれども、それを口に出したところで目の前で、まじと自分を見つめている三人に通るはずもない。
「だよなあ、そしたら、各町の駅留めで連絡を取り合うか、1週間ごとにかち合うポイントを作るか」
「でもさ、どの町に行ったかなんて、わかんないじゃん。全ての町に出すわけに行かないでしょ?」
「1週間ごとに会ってたら、探す範囲限られちゃうしね」
松岡の言葉に、国分が補うようにして山口を見る。
「んじゃあ、1年探して、会えなかったらお前ら家に戻ってろ」
「ちょっと待ってよ、兄ぃはどうすんのよ?」
「そうだよ、その間にもし、俺らがリーダー見つけちゃったら?山口君永遠に探しまわるわけ?」
「や、その時は一度俺も帰って、また…」
と言いかけて口をつぐむ。それもまた随分と効率の悪すぎるのだと。
「あのぉ」
それまで、黙って三人の言葉を聞いていた長瀬がおずおずと言った体で、口を挟んだ。
「何だ?」
一斉に振り返った視線に、にぱっと口角を緩めると、自分の握りこぶしをぐいとつきだすと、じゃんけんをする子供のように勢い良くその掌を開いた。
「これ、使えないっすかね」
「何、それ」
大きな掌の中心に、ころんと転がった半分透き通った硝子のようなそれに、代表して口を開いたのは国分だ。
「想いの欠片って言うんです」
そう言うと、ころんとそれを国分の掌に転がすと、それは蒸発したかのようにすぅっと姿を消した。
「リーダー?」
「はい」
「太一、長瀬、分かるように説明しろ」
二人だけの会話に、山口が少し苛ついたかのように口角をぎゅっと歪め、それが消えた空を指差した。
「今さ、これ、俺の手の中で消えたじゃん」
「だな」
「長瀬の声でさ、リーダーが教えてくれたんだって、聞こえたんだ」
その言葉に松岡が眼をきょとんと丸めると、俺、何も聞こえなかったよ と焦ったようにあたりを見回す。
「俺も聞こえてないから心配すんな」
「じゃあ、はい、これ」
その言葉ににこりと笑った長瀬が、今度は山口と松岡の掌に、ころんと先ほどと同じような小さな結晶のようなそれを差し出すと、国分の時と同様にそれは瞬く間に空気に溶けてしまう。
『リーダー早く会いたいっすね』
それは、空気を振るわせて耳に届いたというよりは、己の体内の中からすぅっと流れるように聞こえてくる、少しくぐもったような印象の声だった。
「これ」
「俺、皆に会ったころって、俺、家族と離ればなれになったすぐ後だったんすよ」
そう言えば、と山口は掌をきゅっと握りしめる長瀬の眼をふと見上げた。
城島に出会う前の山口は、家族とのいざこざが原因で家を飛び出し、あちこちの町を放浪していたのだ。どこに定住したいとも思わず、その日暮らしの気ままな旅の空。特に親しくする友人も作らず、その場その場で楽しむような奴らだけを相手にする日々。
それが、あの街で、ふと耳にしたあの人のギターの旋律に弾かれて、その曲を聴きたさに、毎晩小さな広場の噴水近くに通いつめて、いつしかあの街に居着くようになったのだ。
他の奴らも似たようなものだ。人との間に一線を引くような生活をしていた城島と彼のもとに押し掛けるように居候になった山口。そんな彼らが曲を重ねる公園にふらりと現れた国分が居着き、気がつけば、松岡と長瀬も城島の家に住まうようになっていたのだ。
誰も、過去のことを話そうしなかった。ただ、今の生活だけが全てであり、他のことは何も存在せぬかのように。
「やっぱり、家族に会いたくて、それでも今更家に帰れないし、皆とも離れたくないし、どうしていいかわからなくて」
毎晩、家のベランダから、ただなす術もなく月を眺めていたのだと。

「なあ、長瀬、片手出してみ」

「そう言って、リーダーがこれ、見せてくれたんです」
届けたい想いを抱きしめるようにしてふぅと息を吹きかける。ただ、それだけで自分の想いが欠片になるのだと。
「場所とか言葉とか、そんなのちゃんと届くかわかんないっすけど、元気だとか、会いたいとか、短い気持ちは遠くに居る相手までちゃんと届くんですよ」

「シゲには届いてんのかな」
新しい町に入る度、皆に送る言葉の結晶。他の皆からも、それに呼応するかのように空から舞うように降ってくる優しい気持ち。だが、唯一人の人からだけは届くことのない想いに、我知らずに零れ落ちるのは、情けないかな寂しさ募る愚痴のような物。
「ったく」
寂しがり屋なくせに一人が好きな矛盾した男を思い出し、新しく生まれた想いの欠片をきゅっと握りしめた。離れている距離が遠ければ遠い程、複雑な言葉は届かない、伝わるのは言葉に隠れた純粋な結晶だけになる。そんな不器用な欠片に誰もがただ一つの願いを込めて空に放つのだ。
貴方に逢いたい と。
足下の小石をこつんと蹴り飛ばしながら、両手をポケットの中に突っ込んで、放っておけば溢れんばかりになりそうな欠片を胸の内にそっと止めながら、山口は軽い足取りで小さな路地をすり抜けた。
秋の空は釣瓶落としと、昔の人が言うように、店を出た頃はそれほどでもなかった柔らかな光はとぉの昔に成りを顰め、ぽつりぽつりと申し訳程度に点された人工灯が周囲をほのりとした明かりで包む。
今宵の仮寝の宿は、町家のような小さな民宿だ。それでも、泊まるところのない山間で、星を見ながらの野宿よりはさぞや寝心地の良いことだろう。もっとも、星野光に包まれた枯れ草の天涯という物もなかなか乙な物なのだけれど。
でもま、と小さな段差をジャンプするような足取りで飛び越えると、ふと一瞬光を遮った人の影に、足下を見下ろしていた山口はゆっくりと顔をあげた。
この町についたのは、夕方だが、もとより人の少ない互いが肩を寄せ合い息をしているような小さな町だ。実際、先刻の食堂とて、町で唯一のものであり、山口以外は顔見知りという状況だった。
現実に店を出てから今まで、ひとっこ一人出会っていないのだ。
だから、見知らぬよそ者が居たならば、『人』を探していると告げた山口の耳に、入らぬはずはない。
だが、確かに今、目の前にさす淡い外灯の光を遮るように視界を横切った柔らかな茶色い影は と、軽く眼を細めた。

「しげ?」

躊躇いは、瞬きの間すらなかった。
とんと軽い足音と僅かな土ぼこりをその場に残し、細い影が消えた角をくるりと曲がる。と、光の落ちた商店街のアーケードの下、欠けた看板の横をするりと通り抜けて行くふうわりとした髪が視界の端で軽やかに揺れた。

全力疾走 とやらをしたのはどれくらいぶりだろうか?
まるで手の中から零れ落ちる月影のように、見え隠れするその背に、はっと浅い息を繰り返す。
っくしょ、本当にシゲなのか?そう問いかける山口の視界の中で、また、ふうわりと揺れた影が軽やかな足取りで足音もなく空を舞う。
小さな路地、細い壁の上、木立の隙間を縫うように歩き続けるその揺れる髪と、時折漏れ溢れるような月光に薄らと浮かび上がる横顔は、まぎれもなくかの人の物。
だが、

「あんた、誰?」

町の終わりを教えるかのように、小さな広場の向こう側に、張り巡らされた木製の壁の手前。体を支えるように両手を膝に付き、上半身を前傾に倒したまま、荒い息の下、ぎろりと睨みつけるような視線とともに、低い声で漸く立ち止まった人影に問うた。
「僕か?僕は見たままの存在やで」
月華をその背に背負い、淡く帯びた銀の光に、柔らかく流れる髪が金糸に揺れる。
柔らかく豊かな唇から、ゆったりと溢れる声は、山口が聞き慣れた声にも似て、久しぶりのその音に鼓動は勝手にことりと跳ねるが、だが、と山口はゆっくりと頭を振った。
「確かに目の前にいるのは“アンタ”かもしれないけど、その姿は“アンタ”じゃないだろ」
その言葉に、目の前の城島と酷似した姿を持つ“男”は、ふうわりと頬に微笑を浮かべると、緩やかな仕草で両手を天に差し伸べた。

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