Jyoshima & Matsuoka

遥か遠い空の下

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足の下、小石の転がる土の道にどこまでも伸びる長い影。
一年で一番昼の長い時節、青く輝く田畑も、今は柔らかな暖色を帯び、行き交う人も一日の疲弊をその背に担ぎ、行き交う会釈一つで柔らかな湯気の立ちのぼる我が家を目指す。

薬草の入った籠を背負う昌宏もまた、母の待つ小さな小屋へと足を向けるが。
何度と振り返る視線の先は、つい先刻まで居た離れ難い草原の海の中。

 

遥か遠い空の下

 

 

ゆったりとしたドレーブを幾つもとったトーガを纏い、沈みゆく陽光を茫洋と見つめる柔らかな横顔。
透き通る貴石の瞳に映るのは、ここにはおらぬ遥かな夢幻。

あの人は、いつからあそこにいるのだろう。
昌宏の一番深い記憶の底にあるものは、鮮やかな緑の中でほとりと笑うあの人のほわりとした優しい笑み。
「ずっとここにいるの?」
そう問うた自分に、彼はいつもと変わらぬ微笑を頬に浮かべ、せやね、随分と長い事になるわ と遥か西の方でしか聞く事のできない言葉で、いとも優しくやんわり返す。
「って、貴方幾つなわけ?」

畠手伝いの隙間を縫い、暇を見つけては国境の草原に通い続けて10年。
出会った頃、随分と年上にしか見えなかった彼の背を追い抜いて、いつしか当然のような定位置になった少し高い場所から、10年前と少しも変わらぬ瞳で微笑を浮かべる男に目を見張る。
「幾つやろ。自分よりは随分と上なんは確かやろなあ」
この国の人で僕より上はおらんやろけどなあ。くくくっと喉の奥から零れた笑声も、眉月のように綺麗な弧を描くぽてりとした口元も、大凡楽し気という言葉から懸け離れたもの。

ほんま、長生きはあんまりするもんやないわ、ん。人生の格言やね と細く茶色い髪を風に靡かせながら細められた眼は天高く広がる青い空を見る。

「ねえ、シゲル君。何か弾いてよ」
傍にいるのは自分なのに、琥珀の瞳に見えかくれするのは見知らぬ誰かの深い影。
目の前の男の名を紡いでいるのは、この唇なのに、やんわりと返すその声が形作るは己の名ではない。
眼前に溢れ還る幼子のような独占欲をほんの少し持て余し、それでも、悲しくて、淋しくて、無理矢理その意識を大地へと引き戻す。

「ええよ、何弾こかなあ。ここんとこ空気乾いて雨ひと雫も降らんし」
東の雲が流れてくるように鳴らそか そう言うと、大地に置かれた琵琶形の弦楽器を膝に乗せ、長い指が軽やかに弦を爪弾き始める。

貴方がほろりと笑えば枯れた大地に花が咲き、風を奏でるように弦を爪弾けば、青い草がうねるような波になる。
走り抜ける風の音も、流れる小川の水の漣も、ゆったりと優雅に空を奏でる指に操られ、降り積む雫の一つまで、穏やかな微笑の恵みと変わる。

とんっと大地を踏み締めて、背後に迫る夕闇に追われるように踵を返す。
高く低く、途切れる事なく耳朶に流れる旋律を思い返しながら。

その日も、誰を待つでもなく手遊びのように弦を鳴らす男の元へ昌宏がやってきたのは、太陽が中空を過ぎた頃のこと。
「よお、元気?お爺ちゃん」
「自分なあ」
「だって、アンタが自分で言ったんじゃん」
この国の誰よりも年上なんでしょ?

上着の胸元から取り出した笹で包んだ餅米を綺麗に半分に割りながら。
おおきに とはにかんだ笑みで受けとった男に昌宏も、その隣に座りこんだ。
「今日はさ、何してたの?」
「ん〜。何もしてへんよ」
空を見て、風を読んで、それだけや、ほとりとした返事は日溜まりのように穏やかで、
「そっか」
ここだけが、外界から切り取られた世界になる。

「せやけどなあ、気になる事があるんよ」
「何?」
珍しいこともあるんだね、貴方が外の事を気にするなんて と、指先についた米粒をぺろりと嘗めとると、昌宏はすっきりと長く伸びやかな四肢を大地に投げ出した。
「空気が震えとるん」
土の燃える匂いがするん 空で円を描く指先に収縮された空気の色が微かに黒ずみ、シゲルの瞳が剣月のように鋭く光を帯びる。
「大地が泣いとる」
同じように大地を踏み締める鉄の踵の音がする と渦を巻いた風がびうびうと悲鳴を上げる。

「もう時期、戦争が始まるからかなあ」
それでも変わりなく降り注ぐほこりと暖かな日差しに瞼を伏せて、冷えて行くシゲルの表情とは逆に昌宏が嬉しげに言葉を紡ぐ。
「町の外れで、軍隊も見たよ」
かっけえよなあ ぴちっと揃いの制服来てさ 伸ばした掌が作る形は命を奪う武器の模倣。
「自分、軍に入るんか?」
「できたらね」
てっとりばやいじゃん、お金も貰えるし、どこか得意げにさえ聞こえる声で昌宏が答える。
「軍に入って、何する気ぃや?」
「何って、戦争するに決まって」
だが、次第に低く響きはじめる声に、起こされた上半身はそのまま空で不自然な形で動きを止めた。
「シゲルくん?」
見開かれた漆黒の瞳の中に映る、音もなく頬を滑り落ちるひと雫の球が、ほとりと草葉に弾ける。
「なあ、知っとるか」
その銃の先にあるものが、何なのか
「わ、わかってるよ。でも仕方ないじゃん、戦争だよ?」

 

可視化された光の雫はひと雫。
だが、ほとりほとりと流れ続ける形のない雫の色に、昌宏は当惑したように眉を潜めた

 

「むか〜しな、それこそ、自分のお爺さんが生まれるよりもずっと昔の話や」
西の国で大きな戦争があったんや。
だが、昌宏のそんな表情にも気を止める事もなく、シゲルはすくりと立ち上がった。
空に半弧を描くように伸ばされた腕が、指し示すのは遥か西の彼方の空の下。
ざわりと揺らぐ風に白いトーガの裾が揺れ、光に揺らめく紅の紋様が滴り落ちる血のように鮮やかに反射する。
「シゲル君?」

 

 

僕は、ほんま幼い無知な子やったわ。
振り返った眼に怒りは見えず、ただあるものは無限の哀。
へたりと大地に尻をつけて座り込んだ昌宏の髪をくしゃりと撫でて、ぽてりと厚い唇が淡々と語るは遥か昔の物語。

その頃の僕は、まだ、大地から小さな芽を出したばかりの柔らかな花の影やったんよ と伏せた瞼裏に浮かぶものはどこまでも広い空の色。
花弁をからかうように流れる風を遊び相手とし、燦々と降り注ぐ陽光を一身に受けて、なんの不自由もなく、まだ蒼い四肢を思う様に伸ばす。
ここと同じ訪れる人の少ない国境の小さな草原やったわ と細められた瞼を透けて揺らめくは、まだ、柔らかさを持つ鮮やかな緑葉。
「いつやったかなあ」
あいつがそこを訪れたのは。
「今の昌宏と同じぐらいか、もうちょっと年上やったかもしれんね」

 

緑の波の中、ころころと転がる自分の姿に、金色の髪を揺らしながらざざっと土を蹴散らしながら彼は草原の中に飛び込んで来た。
「貴方、誰?」
「僕?僕は僕や」
いくら問われても名前等あるはずもない、ただ、この地に生まれ、陽光に護られているだけの自分に。
最もその頃の自分はまだ、幼くて、達也の聞いた意味さえもわからんかったけど。

 

「達也って言うんだ」
その人 と掌に預けた頬をぷくりとふくらせた上目遣いの幼めいた表情がシゲルの笑みを誘う。
「せや、達也や。僕に、シゲル言う名前くれたんは、達也やった」

 

日が昇る前、夕日の落ちた後、忙しい野良仕事を器用に避けて、何時しか彼は毎日のように草原を訪れるようになっていた。
「なあ、シゲはさ、ここから出られないの?」
世界の果てにさ、『海』って呼ばれる大きな水たまりがあるって聞いたんだ、いつか一緒に行こうよ 俺が担げば大丈夫でしょ。
子供のような大きな瞳を煌めかせ、夢のように外の世界の一端を語り、当然のように差し伸べてくる大きな掌。
他愛もない事を語り、何も知らん僕に色んな事教えてくれたんよ。

広がるものは、ただ純粋までな憧憬に両手を伸ばす子供から大人への端境期。
零れる笑声さえも、今は遠い原風景。

ずっと、そんな時間が続くと思っとった、それが消えてなくなるなんて疑ってもみたことなかったんやけどなあ。
「せやけど、ここと同じでな、燻ったような匂いに空気が震えはじめたんや」
それが何に起因するものなのかは、当時の自分は知らなかったんやけど と自嘲的な色が滲んだ声に昌宏は唇を噛み締めた。

大きな 戦争が始まったのだと教えてくれたのは、自分よりも遥か長くこの地に根を張る大樹の樫爺。
大地が唸るような低い音はどこか悲しげに、それでも、末枝まで豊かにざわめく葉を揺らしながら戦の事を教えてくれた。
大地が燃え、木々が焼け、生きとし生けるもの全てが地に臥して、後に残るは焦土と化した命の消えた廃墟だけ。
それでも自分からはとても遠い場所での話やと思っとったから。
「シゲル君」
自分と一緒や とぽつりと零す横顔に表情はなく。

あれは珍しく達也が顔を覗かせなかった日の次の朝だった。
「シゲ」
重い鈍色の甲冑は、まだ真新しい輝きを放っていると言うのに、鼻腔をさすのは花の甘い芳香にじわりと交じる血の匂い。
呼び掛ける声も、向けられる笑みも、己のよく知る男のものであるはずなのに。
「たつ…や?」
「似合う?」
格好良い?と腰に下げた剣の柄を、玩具のようにくるりと回しながら、男は満面の笑みを浮かべて、草原に座るシゲルを見下ろしていた。
「軍隊に志願した」
「なんで?」
男の体を覆う指で触れる事の叶わぬ冷たい鋼。
「軍隊って結構稼げるんだって」
知ってた?悪びれる事もなく、一歩も近付こうとしないシゲルに気付く事もなく達也は笑う。
「達也、お金欲しいん?」
「ん〜?だって、お金あったら、旅に出られるでしょ?」
今のまま、いくら土を耕し続けたとして、たいした稼ぎになることはない。日々の生活の糧に消え、夢は口で語るだけのものとなる。
「だからさ、手柄たてて昇進して、たくさんお金貯めるから、待っててよ」
こんな大きな植木鉢と水入れ、手に入れて戻ってくるからさ。
「そしたらさ、海見に行こうよ」
「そんなん」
やって戦争って、家が燃えるんやろ?草木が枯れるんやろ?大地が死ぬんやろ そんなん無理や、嫌や 駄々を捏ねる幼子のようにかぶりを振り続けるシゲルに苦笑を浮かべ、達也はその手をそっとあげられる事のない頬に伸ばそうとした。
が、びくりと痙攣を起こしたように引き攣った表情に、触れる事叶わずに達也の手が空を切る。
「シゲ」
「ごめ」
「俺が、恐いの?」
違う、違う。
恐いのは達也ではない。
「わからんねん」
それでも、彼を覆う鈍い光が二人の距離を深くする。
「それ、僕と相容れんもんやねん」
達也を隔てる、人の手によって生み出され、自然の命を奪うもの。
大地の手によって生み出され、命を育む事を自然とする己には、それに触れる事はできないと、無意識に後じさるシゲルを達也が淋しげに見つめた。
だが、徐に剣を背後に投げ捨てると、達也は上肢を護っていた帷子をじゃらりと脱ぎ捨てた。
「これなら、平気?」
「けど」
「此処は戦場じゃないもんね」
こんなもの必要ないよね、ごめん そう呟くとシゲルの前に膝まづいた。
「確かに、シゲの言う通り此処もいつ戦場になるかわからない」
そうならないように俺、頑張るから、この綺麗な草原が赤く黒く染まる事のないように、頑張るから。
「なあ、自分帰ってくるんやろ?」
告げる達也の微笑がやけに心細くて、握り締めた綿のシャツに幾重もの放射状の皺が寄る。
「決まってるだろ」
だから、待っててよ その言葉に泣き濡れて汚れた頬がほとりと紅を差し、幼子のようにこくりと頷いた。
「約束やからな」
うん 細められた眼の中に映る自分に安堵したのか、漸く零れた笑みに達也が小さく安堵の吐息を零した。
「これお守り」
おずおずとシゲルが差し出された掌から転がり落ちた黒い小さな粒を達也は両手でそっと受け止める。
「種」
「種?」
「せや、自分帰って来たら一緒に蒔こう」
「そうだね、シゲル君の代わりにこの種蒔こうか」
そして、旅に出よう この大地に貴方の代わりの命を落し、貴方と二人旅に出よう。

「その次の日な、達也、行ってもうた」
「でも、でもさ、帰って来たんでしょ?」
びん シゲルの手の中で細い弦が哀れな程に忙しく揺れて昌宏の上着がぶわりと風に舞う。
「だ、だってさ、あんた、今ここにいるじゃん」
その人以外の誰が、アンタを連れ出したって言うんだよ 早口に綴る言葉にもシゲルは振り返らず弦を掻き慣らしていたが。
「僕をここに連れて来たんは達也と同じ隊におったっていう小柄な奴や」
唐突に途切れた音の合間にぽつりと溢れた言葉に昌宏は大きく目を見開いた。

途切れる事なく響き渡る辺りを踏みにじるような足音。
耳朶に残る樫爺の断末魔。
逃げる事叶わず、炎に巻かれ泣き叫ぶ多くの仲間たちの声。
忘れるはずもない。
「僕がおる草原の周りの家もどんどん燃え落ちて行きよった」
もう、ここも燃えるんかなあ 達也に会われへんようになるなあ そう思っとったよ。

 

「悪いんだけどさ。俺、わからねえから」
三白眼の小柄な男は、肩に担いだ小さな桶を茶色く変色したかつての草原に転がした。
「俺、山口君と同じ隊の国分太一」
目の前で揺れる幾つもの花々に、つまらなそうに言葉を落とす。
すぐ背後にまで迫った戦火の嵐。
「頼まれたんだ。アンタの事」
ざくり、見境なく掘り返されて行く花々は、それでも丁寧な手つきで桶に移されて行く。
「なあ、達也は?」
ざくり、あげられる事のない額にじわりと汗が滲んでいた。
「この国は負けたよ」
ざくり、突き立てられたシャベルが深く張る根を弾きちぎった。
「敵の軍がここに来るまでに、シゲル君を助けてってさ」
ざくり
「達也は?」
ざくり。
ぐらりと大地が揺れて、震える花弁が色を失うように頭を垂れる。
「俺にはさ、アンタが見えないんだ」
でも、と数十本にも及ぶ花々を植えた桶を肩に担ぎ上げ、黒い煙が立ち昇る背後を振り返り、軽く舌を打つ。
「山口君に託されたから、アンタをどこか安全な草原に移し変えるから」
胸元にぶら下がった小さな巾着袋。
ざらついた麻の袋を切り取っただけのそれは、あの日達也がシゲルの目の前で作ったお守り袋。
「けどさ、俺も命はってんだわ。植えかえた先でまで、アンタの面倒見れないからさ」
悪いけどアンタも自分で頑張って生き抜いてよね

 

 

「ここの草原に咲く花は、皆そん時に一緒に植えられたもんや」
その時から僕はここにおる 広げられた掌に誘われるように周りの緑が大きくざわめいていく。
「あのさ、ずっと気になってたんだけど」
ん?
「あんた本当は真っ白な花でしょう?」
足下に咲く無数の花の中。
たった一輪。大輪でもなく、一目を惹く鮮やかな色を持つわけではない。だが、深みのある白い花弁の先に描かれた不規則なまでに無数のくすんだ紅色。
「それって」
相変わらず聡い子やねえ とシゲルは薄い紗を纏い上げふうわりと円を描くようにくるりと廻って見せる。
「せやけど、達也の血ぃやないよ」
大地に染込んだ夥しい血の色や この地に漸く根付いた頃にはこうなっとったわ 愛し気に哀し気に紅を辿る指先。
見たくないと思った。

「種、俺にもくれない?」
「昌宏?」
「俺は絶対帰ってくる。あんたを独りにしない」
だから、真直ぐに差し出された掌に、シゲルは小さく頭を振った。
「帰ってきたら俺があんたを海に連れて行ってやるよ」
「なんで、なんでそないに戦争に行きたがるねん」
「行きたくなんてないよ。でも…」
「格好ええ 言うたやん」
自分を試したいのだと お金を稼ぎたいのだと 様々な夢を語って彼らは国を後にする。
そして、優し過ぎる心に、折り合いのつかぬ罪障を受けて、自らを傷つけて帰ってくるのだ。
「やれへんよ お前には」
無知に、無邪気に、お守りとそんな口はぼったい事を言えるわけが無い。
太陽に守られて、空の恵みに 生きるしか無い自分に、誰かを守れるわけ等ないのだから。
「自分はほんまに優しい子やから、約束したら自分が縛られるやろ」
「シゲル君!!!」

 

 

「お〜いそこのでっかい奴」
はい?伸ばした掌がシゲルの肩に触れようとした時だった。
背後から響いた声に驚いて振り返った視線の先、土手の上の二つのシルエットが昌宏を見下ろしているのが見えた。
「アンタさあ、ここいらで松岡って家知らない?」
「松岡は俺ン家だけど?」
訝しげに小首を傾げた昌宏に、やったあ、ビンゴ とがたいの大きい青年が傍らの男の肘を掴んで勢い良く土手を駆け降りてくる。
「お前、道通れよ、道」
そう言いながらも、抗う事なく揃って駆け降りてくる二人の姿にシゲルが惚けたような表情になる。

 

 

「たいち…」

「え?なに?たいちって、さっきシゲル君をここに植え換えたって言う?」
んなわけねえじゃん と言いかけた昌宏の言葉に、図体の良い男が子供のように邪気のない声で肩に飛びついた。
「すっげえ、なんで太一君の事知ってるんですか?」
「って、アンタ、まじでたいちっての?」
「確かに俺は国分太一だけど、何?なんで知ってるわけ」
じろり、低い位置から見上げてくる目つきの鋭い男、太一に思わず腰を引きかけながらも、昌宏は答えを求めるようにシゲルを振り返った。
だが、
「大体さあ、さっきから、一人でぶつぶつしゃべってるし、もしかしてアンタヤバい奴?」
「ヤバい奴ってどう言う意味よ」
見えへんのは血筋やなあ 思わず顔を引き攣らせた昌宏に、シゲルがふうわりと笑う。
「そうか、自分、太一の曾孫になるんやねえ」
それならば、太一が探してる松岡は、目の前にいる昌宏で間違いがないはずやと軽くその背を太一の方へと押し出した。

 

「俺の曾爺ちゃんが昔ここらへんに住んでる松岡って奴に頼んだ『花』を植えた場所探してるんだけどさ」
アンタ聞いた事ない?
「松岡って、俺の?」
「せや、昌宏の曾爺ちゃんの事やよ」
自分と同じように、僕の事見る事ができたんよ だから、太一は松岡に桶を預けたのだとシゲルが言葉を続ける。
昌宏の祖父や父は声を聞くのがやっとやったけどな と。

「だったらさ、此処の事だと思うけど」
目の前で微笑を浮かべるシゲルが見えないのか、ふうわりと風に揺れるシゲルの遥か彼方まで広がる草原を見遣る太一は、ふうんと小さく頷いただけだった。
だが
「えっと、そこに誰かいます?」
「お前、見えるの?シゲル君の事」
智也と名乗った男が、目を細めるようにしてじっと獲物を見付けた猫のように空間を睨み付けている。
「見えるっていうか、その、なんとなく声が聞こえるだけっすけどね」
「おるよ、僕はここに」
智也やっけ?探しに来てくれておおきになあ そう続く柔らかな声が届いたのか智也は、頬を綻ばせ子供のような笑みを浮かべた。
「だったら、これ、ここに植えたらいいっすよね」
シゲル君 と得意げに差し出された大きな掌の上には、数個の小さな種子と残骸のように破れた麻布が転がっていた。

 

「なんで」
だが、向けられた笑みに反し、掌から零れる種にシゲルの瞳が大きく揺れ、それに倣うように智也の掌の種が小刻みに揺れる。
「ちょっと、待ってよ、この種って」
慌てたような昌宏に構う事なく、種子から緩やかに立ち昇りはじめた白い影に、シゲルの琥珀の瞳が一層大きく見開かれていく。
「何んだよ。これ]
だが、種を持つ智也にも、その隣で腕を組んだまま眉をしかめている太一には何も映ってはいないらしく、二人は小首を傾げるようにして昌宏を見つめている。

やがて視界を奪うように広がりをみせていた白い靄は、渦を巻きながら一つの塊へと姿を変えて収縮し始めた。
胎児のような小さな塊は、周囲の靄を全て吸い込みながら、やがて 蹲る男の姿を露にしていく。
太陽を掴むように ゆっくりと伸ばされる四肢。凝った筋をほぐすかのようにぐるりと回される厚い首筋。
辺りを確かめるように見回していた少し眩し気に細められた眼差しが、満面にたたえられた笑みと共にシゲルへと振り返る。

 

「久しぶり シゲル君」
「たつや」
だらりと落ちた掌が、ゆっくりと立ち上がった目の前の男の頬に怯えるように伸ばされる。だが、その手が頬に触れるよりも早く、伸びて来た達也の手がシゲルの手を握り込み、そっと己の額を押し付けていた。
「ごめん。随分待たせたよな」
そのまま引き寄せた自分よりも薄い体をそっと抱きしめて、もう一度ごめんと呟いた。
「でも、なんで、自分、ずっと前に」
死んだはずだ と言葉にする事さえ叶わずに、シゲルは喉の奥からただ嗚咽を零す。
「死ぬ寸前まで、これ握りしめてたから」
俺の中の魂は消えても、魄だけが宿ったのだ と達也はその背を宥めるようにぽんっと叩く。
「なんで、自分、なんで」
「ごめんな、もっと早く迎えに来たかったんだけどさ」
こいつもこいつの親爺も、全然見えねえんだもん とシゲルを引き寄せたまま、達也は溜め息と共に、憮然とした面持ちの太一を振り返った。
「漸く、智也が俺のことなんとなく感じとれてるってわかってさ」
無意識の中にシゲルを探しに行くように囁き続けたんだ と照れくさそうに笑うと、先ほどから繰り広げられる風景に、傍らで呆然としている昌宏ににやりと口角を緩めた。
「お前もさ、お前の先祖にも、感謝してるよ」
この人寂しがりやだから一緒にいてくれて助かった と。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あんた、何?シゲル君どうしようってのさ」
あれ?聞いてない?と悪びれもなく悪戯な子供のように目を細めて、まだ、どこか信じきれていないような、否、信じる事を怯えているようなシゲルの髪をくしゃりと撫でる。
「約束だからさ。海見に行くよ」
その言葉にシゲルの肩が大きく揺れた。
「達也?」
「もう、十分だろ?」
うん、こっくりと頷く幼子のような所作に昌宏が下唇を噛み締めた。
「なんでよ、何が十分なんだよ」
目の前の二人の姿が薄らいだように揺れるのは己の目の錯覚か。

「この人、一年草だから」
本当ならば、戦が終わる前に尽きていたはずの儚い命。
それが と達也は柔らかな猫毛を梳く手を緩める事なく、言葉を濁す。
約束に縛られていたのはシゲルだった。
いつか帰ってくると告げた男の言葉を信じ、いつ果てるかも分からぬ命を空気のように永らえて。

昌宏は今日も変わる事なく国境の草原を訪れていた。
今年も草原一面に咲き誇るは、あの日、大地に蒔いた種から育った、雪よりも白く、陽光よりも煌めく無数の花々。

あの日、最後に聞こえたのは、ごめんなあ と耳朶を霞めるように空に消えた間延びしたような柔らかな声。

昌宏は、雲よりも淡く掻き消えた彼等の居たはずの場所にあった茶色く萎れた一輪の花と一粒だけ拾った種を挟んだ布をそろりと撫でる。
あれから2年。
軍に志願する事を辞め、ただひたすらに働いて、今日、漸く約束を果たせるのだ。

「言ったでしょ。達也って人の代わりに俺が海へ連れて行くって」

海へ行くと笑った男が守った誓いはただ一つ。

「お〜い、まぼ〜」
遅いよ、と両手を振りながら走ってくる智也と その後を呆れたように歩いてくる太一に片手を挙げて、昌宏はくるりと草原に背を向けた。

もう一つの叶わなかった夢の地へ、旅立つために。

Story

サークル・書き手