TOKIO

想いの重さ

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静かに押し開かれた扉の向う側、のっそりと現れた男の表情に、椅子から立ち上がりかけた松岡が思わず動きを止めた。
「兄ぃ」
それでも躊躇いがちに掛けられた言葉に、男は軽く手を挙げるだけで返事を返し、言葉もなく持っていたボストンを楽屋の片隅に投げ捨ててどさりと黄ばんだ畳の上に体を預けた。
途端にざわりとざわめいた室内。
いつもならば、隣室からよくも苦情が来ないものだと思う程に煩い楽屋なのだが、今日は静なまでに低い声が聞えるだけ。
落ちてくる光を避けるかのように瞼の上にかぶせた腕が辺りの空気を敏感に感じて僅かに震える。
こうしていてもわかる。
伏せられた瞼の奥の光を確かめようとするかのような視線の渦。
分かってはいるのだ。数日前、サーファー友達を亡くしたばかりの自分を慮っての彼等の態度。だが、大丈夫?元気出してね。訳知り顔で絶え間なく掛けられる同情の言葉を聞く度にイライラして、放っておいてくれ、お前等に何が分かると叫び出したくなる。
「えらい、お疲れやね」
「貴方に言われたくないよ」
珍しく鏡台の前ではなくテーブルの端の椅子に座っていた城島が、黒縁の眼鏡越しに山口を見下ろしている。
「さよか」
この数日の間、閉じられたままの携帯電話に残る無数の着歴に、数度彼の名前があった事を思い出しながらも山口は、ふい とその声に背を向ける。
そんな態度に、態とらしいまでに聞える溜め息。
「何か言いたそうだね」
「そうか?」
低い己の声に反して返されるその飄々とした返事に、ぎりっと山口は握り拳に力を込めて、どんっと畳を叩いた。
「言いたい事があれば言えば?」
「別に」
ぱさり、手許の雑誌を閉じた音の後、ぎしりと椅子が引かれる音が室内に響き、軽い足音が閉じた視界の分、敏感になった耳朶に届く。
「確かに、友達の事はご愁傷様やとは思うけどな」
ただ、そんな顔仕事に持ち込みなや と続く言葉に、
「よく、そんな事言えるな」
人の気も知らないで と勢い良く上肢を半分起こした山口が、ぎっと城島を睨み付けた。
「そうか?同情はいらん、触るな、放っといてくれ、みたいな顔して、その癖、突き放されたら腹立てるような自分には言われとうないけどな」
「リーダー」
言い過ぎ、と柳眉を寄せた松岡が、城島の方を心配気に振返った。
「うるせえよ、大事な友人を悼んで何が悪いんだよ」
だん、傍らの畳がめしりと凹み、薄らと色が変わる。
「いや、構わんよ、いくらでも哀しんだらええ。せやけど僕には関係ないことや」
そんな鬱陶しい顔見せんといて欲しいわ、とにこりと笑い、その手はポケットから煙草を取り出した。
「ちょお、太一、煙草吸うてくるから、後頼むわ」
「いいの?」
あれ、と眉を怒らせた山口を指差して、国分も松岡に倣うように顔を顰める。
「ボクがとやかく言う事やないやろ」
自分も仕事までに気持切り替えときや、山口に背を向けたまま、軽く手を挙げた城島の肩をぎちりと厚い掌が掴みとると、次の瞬間、壁が揺れる程の勢いで城島の薄い体が壁にぶつかった。
「あ、兄ぃ」
思わず咳き込んだ城島の姿に、固唾を飲んで成り行きを見守っていた松岡が思わず悲鳴のような声を上げるが。
「自業自得とでも思ってるんだろ」
勝手に海に入って、勝手に海で死んだ莫迦な奴だと。
「誰もそこまでは言うとらんよ」
軽く立った埃を払う手つきに、山口が口角をきゅっと上げた。
「言ってなくても思ってたって事だろ。口では御愁傷様とか言いながらも、内心ではどうでもいいって思ってるんじゃねえの?」
関係ねえって、と続いた言葉に、
「そうかもな。ボクには関係ないことや」
誰が海で死のうと怪我しようともな、そう返した城島に、 人でなし と声にならない言葉がぽつりと落ちる。
人でなしなあ くくっと城島がどこか自嘲気な笑みを浮かべる。
「ほな、人でなしついでに教えたるわ。せや、良かった思うたよ」
亡くなったんがそいつで、と城島が襟首をぎりと握り締める山口を厚い硝子の奥からじろりと睨む。
「っくも」
「良かった、思うたわ、亡くなった奴の名前聞いた時、それがお前の名前やなかったことに、ほっとしたわ」
え? 想像だにしなかった言葉だったのか、僅かに緩んだ手をぱしりと叩いて城島は扉側にずれるように山口から離れる。
「良かった、思うたわ。亡くなった人を気の毒やとか、可哀想やとか思う前にな」
自分がどんなけ哀しんどうやろうとか、つらいやろうとか、そんなもん全部吹っ飛ぶぐらい、喜んだわ!!
「これで、気が済んだか?」
ほな、煙草吸うてくるわ そう一言だけ残すと、人一人分のスペースだけ開かれた扉の隙間から、するりと消えた背を山口は呆然と見送った。
ヘビースモーカーには厳しい世の中。
喫煙所は自動販売機のある小さなスペースの横にちんまりと存在する。
体躯の割には長い足を不器用に組んで、そのくせ背中は丸く前のめりという器用な姿勢のまま、城島の厚ぼったい唇から一筋の紫煙をゆっくりと立ち昇る。
「なんや、うまないなあ」
ほう っとここに来てから何度目かの溜め息を誤摩化すように煙を吐く度、舌先に残るのは絡むような苦さだけ。
知っていたのに と。
海で命を落としたと言う友人を彼がどれだけ大切に思っていたか。
そうでなくとも、気質の真っ直ぐな山口の事、海という恐さを分かっていても彼が受けたショックは図りきれない。
何れ程彼がつらい思いをしたかなどわかりはしないけれど。
それでも。
「あれはやっぱりまずいわなあ」
誰かの上に必ず訪れる『死』と言う瞬間。
それは誰にも平等に訪れる と言うけれど、それは言い訳に近い嘘だと思う。
生まれる事さえもできなかった赤子、周囲を苦しめ続けながらも天寿を全うする老人、突然の事故で奪われる命、余命を指折り数えながら生き続ける生命。
その長さはまちまちで、平等などあり合えないのだ。
少なくとも残される側にとっては…。
すっかり短くなった煙草を灰皿に押しつけて、城島は新たな一本を口に銜えた。
「リーダーさ、兄ぃの顔見るまですっげえ不安そうな顔してた」
叱られた犬のように項垂れたままの松岡が、ぽつりと言ったのは、城島が姿を消してから2分後の事。
「俺さ、サーファーが波に浚われたってニュース聞いた時に、リーダーの傍にいたんすよ」
初め、山口君が良く行く場所だったし、知った名前が二三出て来た時、リーダー、蒼白な顔してた。
でも、顔色だけだったんです と長瀬が小さく呟くようにぽつりと話す。
「カメラの前では、いつもみたいにふうわり笑ってたんすよ」
だから、俺、ぜんぜん、気付かなかったんす、マネから山口君はその時その場に居なかった、その前に海からあがって移動中だったって聞いた時に、そうか そう一言だけ答えたリーダーの掌、爪の跡で真っ赤になってたんすよ。多分撮影中、ずっと握り締めてたんだと思います と。
「気付いてた?いつものあの人なら、今頃は髪型に夢中になってるのにさ」
誰よりも早く楽屋入りしてたくせに、衣装一つ着てなかったんだよ と国分が頬杖をついたまんま、山口を見上げた。
「あの人がさ、どういう人かは、山口君が一番良く知ってるはずじゃん」
あれ、リーダーじゃなくって、他の誰かに言われたんならそこまで腹立たなかったんじゃねえの?
口角をきゅっと上げて、まだ、どこか呆然とした表情の山口に、国分はにやりと笑ってみせた。
よくミステリドラマ等で、『君の気持はわかるが』等という台詞がよく使われる。
心配げな表情で、同情していますと言う面持ちで。だから、もう諦めろという眼差しが加害者を襲う。
だがあれも、嘘だと思うのだ。
分かる訳がないと。
大切な誰かを亡くした瞬間に、心の内を抉るように突き刺さる刃の痛みは、切り裂かれた人間のものでしかないのだから。
そんな人を多く見て来たよ、貴方と同じ境遇の人を知っているわ。
そう語り続ける主人公の目は、外部の、テレビを見ている人間と同じ視点でしかあり得ない。
その瞳の奥にあるものは、けして、加害者側に堕ちていく人間の色を理解する事はないのだ。
そして、現実もそんな大した差はないのではないのだろうか。
もし、その人が同じような事故で大切な誰かを失っていたとしても、その人の痛みは当人以外感じる事等できやしない、同じような赤い涙を流したとしても、それはけして同じ色ではない。
今の城島がまさにそうなのだ。
何れ程言葉を綴ろうと、彼の痛みは己のものではありえない。
心配したのも事実、亡くなった方を気の毒だと思ったのも本当。
だが、山口の五体満足な姿を見た途端、沸き上がったものは押さえきれない安堵と、その反動のような怒り。
事故の事を聞いてからも、一向に繋がらない電話に苛つき、顔を見る迄どれほど心配したかわからないのに と。
無事なら連絡の一本も入れろ、電話にぐらい出ろ。
ああ、彼の心情を振返る事もないなんと自分勝手な感情論理。
「すまん」
膝についた両腕に顔を埋めているためか、押しつぶすようにくぐもった声に、近づいてきていた足音がぴたりと止まる。
「自分の気持ちも考えんと、ひどいこと言うた」
「いや、俺の方こそ悪かった」
そのまま緑の植わったプランターをぐるりと回ると山口は城島の隣にとすんと腰を下ろしす。
「心配掛けたなんて思ってなかった」
「それこそ気にせんでええわ」
僕が勝手に早とちりしていらん心配しただけやから と顔を上げる事なく城島がぼそりと呟く。
「でも、俺、自分がいっぱいいっぱいで、貴方からの電話の着歴気づいてたのに」
うん と僅かに城島がこちらを向いた。
「怖かった」
「しげ?」
「もし、海に飲まれたんが自分やったらて思うたら」
「うん」
煙草を取り出すと此所に来て4本目の端を唇で挟む。
「11年前、大きな地震があったやろ」
突然の言葉に山口は意味を掴み損ねたが、ここにはおらぬかのような城島の横顔に小さく頷く。忘れる訳がない、その震災をきっかけに自分たちはj-friendsというユニットを作り10年近くもの間チャリティー活動を続けてきたのだから。
「朝一にはな、大きな地震で大阪のどっかでおばちゃんが転んで骨を折ったらしい 言うニュースやってんて」
だが、時間を経るにつれ、次第に明らかになっていく被害情報。
その時の城島の隣に自分は居た。時間が許される限り、電話を駆け続けていた彼。
その頃はまだ、彼の母親は奈良に住んでおり、また、奈良で学生生活を送っていた彼には、多くの友人の居る場所だった。
「なかなか繋がらんくて、どないしたらええかて思うたよ」
刻一刻と届けられるテレビの映像は、現実と言うにはあまりに衝撃に近いものがあった。
これほど迄に文明というものはあやふやで頼りないものだったのかと。
そして、同時に、喜んだのだと城島が笑った。
「ああ、奈良やなかったんや て喜んだわ」
ようよう電話が繋がったのは、夕方ぐらいだったろうか。どこか気が抜ける程のんきな母の声を聞き、友人たちの詳細を訪ねて、自分は安堵したのだ。
「電話の最中、良かったなあって笑いあっとうその横で、テレビの中では街が燃えとった。24時間途切れる事なく、行方不明者の名前が耐える事なく流れ続けとったし、事務所の中にも親がそこに住んどる奴もおった」
けど、今と同じや、僕は喜んで安堵して、その後漸く正常に動き出した感情の中、思った事は、可哀想に。
つい5分程前迄の自分は彼らと同じ被災者の一部であったはずなのに、途端に世界は大きく回り、ここにいるのは他人の自分。
「反吐が出そうやったわ」
人というものはなんとエゴイストで自分勝手な偽善者なのだと知った と乾いた声で小さく笑う。
それから10年。
自分たちができる範囲でチャリティーやボランティアに参加して、それなりに社会を生き抜いて、少しは成長したかと思いきや、蓋を開けたら人間の性根等そう簡単には変わりはしないのだと教えられたわ と。
「僕らの歌聞いて元気になって欲しいて言うとう同じ口で、僕は」
ごめんなあ つらいんは僕と違うのにな と城島は山口に薄い笑みを浮かべる。
「しげはさ、頑張れとか大丈夫って言わねえのな」
「やって、大丈夫の訳ないやろ。此処にぽっかり大きな穴空いてもうた人間に、何が言える?」
とんとんっと山口の胸部を軽く指先が叩いた。
何れ程言葉を綴ったとして、その穴ん中通り抜けてまうだけやろ と。
そう言うと、僅かな躊躇いの後、城島の掌がゆっくりと山口の髪に絡むように触れる。
「亡くなった人の代わりにもなれんし、なりたいとも思わん」
「うん」
それはけして強くなく、だが、抗うことのできぬ優しさで山口の頭部を己の肩に押し付けた。
「けど、忘れんといてな」
自分が、その人の死を哀しむように自分に何かがあった時心に瑕を負う人間が居る事を。
「これからも、多分、同じような事があったら、僕はそれが自分やなかった事をきっと喜ぶと思うわ」
人は大人になっても、子供が思う程に大きくなく、この掌はとても小さいものだと何かを失って初めて気付く。
だから、自分がおり、この手の届く範囲の人が幸せならばそれで良い。それが何れ程エゴイストで、自分中心的な考えであろうとも。
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