白茶けたショコラ色の粉末に覆われた柔らかなトリュフを招き入れるように小さな塊1つ分、唇が微かに開いていく。 色の少し悪いそれがゆっくりと蠢く度に、ちらりと見え隠れする結晶のような鮮やかな白。 卓上に置かれた小さな箱の中から、甘い香を摘まみ上げた二本の指の腹についたココアを嘗めとる様に薄く開いた隙き間から、こぼれ落ちた薄い紅が濃い色の硝子に歪むように映り込んだ。
紡ぐ
ゆっくりとほどけるように溶けて行くトリュフを咀嚼していた唇が、背後から軽く叩くように肩に掛けられた掌の持ち主の名をゆるりと形作るように音を喰む。 他愛もない会話を交わし、時折、溢れる笑声に描く形は三日月のような綺麗な弧線。
不思議だと思った。
今、彼と同じモノを口内に放り込み、なんの感慨もなく噛み砕いて行く己の唇は、先刻までの彼の唇と同じ所作を繰り返している。 きっともう少し経ったならば、ぼんやりと彼を見つめている自分に、サングラスの下の視線が何処を向いているか等誰にもわかりっこないのだが、誰かが声を掛けて来るだろう。否、恐らく、他の誰の物でもないあの唇が言葉を紡ぐのだろうけど。 何をぼんやりしているのだ と。 そうすれば、己の唇は、今目の前で、ゆうるりと音を紡ぐ唇と同じ動作を繰り返すのだ。 かけられた問に対するいらえを返す為に。
「どないしたん?」
ぼんやりして と続く言葉に、ほら、 と掠れた声で笑う。 先刻、目の前の城島が、彼の椅子の背に凭れるように声を掛けた山口に穏やかな笑みを返したように、今、自分の口端が自然に緩む。
「別に、何でもないんだけどさ」
「へんな奴やなあ、なあ、山口」
口角を仄かに緩め、だが、その眉は不自然な程に顰められたままテーブルの上に組んだ手の上に置かれた松岡の小作りの顔を覗き込んだ。 その間も、柔らかな紅を纏う唇は薄い息をつき、微かな音を紡ぎ出す。
しかし、いくら心配気な表情を見せられたとしても、先ほどからその唇の動きを追っていました 等とは流石に言える訳もない。 松岡は、場を誤魔化すく糸口を探すようにつんとたった前髪をくしゃりと掻き混ぜた。 だが、
「本当に、お前さっきから変だぜ」
「え〜っと、本当に大したことじゃないんだけど」
と軽く唇を尖らせてみせても、メンバーの中でも、年嵩の二人、特に松岡が素直に認めたがりはしないけれど、心底人間として惚れ込んでいる城島 茂という存在と、男として憧れて止まない山口 達也の二人に心配気覗き込まれては、最期まで誤魔かし通すことなどできはしないことは判り切った事実なのだが。
「何かさ、不思議だなって思っただけなのよ」
両手の親指が拗ねたように膨れた頬の肉にやんわりと埋まり、組まれた掌が小さく揺れるが、暫しの沈黙の後、先を促すような鋭い山口の視線に渋々と指を解くと漸く諦めたように松岡は鞄のポケットから何かを取り出した。
「これがどないしたん?」
上半身を乗り出すように卓上に頬杖をついた城島の目の前におかれた掌サイズの冊子は、先日発売された他でもない彼ら自身の新しいアルバムの歌詞カードのように見える。
「これ」
やはり目の前のものは自分達の歌詞カードだったらしく、ぱらりと捲る黒く艶やかな黒地の紙面の上に浮き出す見慣れた白い文字。そして、松岡はその脇に小さく刻まれた作詞者の名を差し示す。
「シゲだな」
いつのまにか、城島の隣に腰を落ち着けた山口も興味深気に隣の男の肩に触れそうな距離で覗き込んでいたが、松岡の言う意味を捕え損ねたらしく、二人は顔を見合わせると同時に松岡を見上げた。
「不思議でしょ」
「せやから、何が不思議やねん」
「あんたって人がさ」
軽い溜め息と共に、ぴしっと延びて来た指先が城島の眉間の辺を綺麗に狙いをつける。
「な、なんやねんな」
「ほら、普段のその信じられないぐらいべたべたな関西弁」
一体何年、東京暮ししてるんだっつうの、とまず一本親指を綺麗に折り込んだ。
「誰に対しても、いつも笑ってる口元」
まあ、俺達はさ、あんたが本当に笑ってるのか作り笑いしてるのか判るからいいけどね、と次に折り込まれたのは眉間を狙っていた長い人さし指。
「何考えてるかわからない独自の行動パターン」
いっつも決まったことから少しずれた事してくれたりするわけじゃない と中指を倒して、薬指と小指が空に残される。
「なあ、まだあんの?」
ずいと視界全面に押し出された握り拳から逃れるように、傍らにある肩辺に皺を刻み込みながら、半歩引き気味になって城島が小首を傾げる。
「それ、貴方がやっても可愛くないから」
間髪空けずに隣から聞こえた笑声に、城島の手が縋っている肩の肉に爪がぎゅっと突き刺さり山口は顔を顰めたが。
「ちょっと、聞いてる?」
松岡のスティックを握るように折られて行く指の動きは止る気配はないらしい。
「つぎね、時と場所を選ばない駄洒落の数々」
長瀬が空気を読めないって言うけどさ、廻りが一気に引いた時の空気もちゃんと読んでよ と薬指も折込まれてしまう。 それを喜んで拾ってるのは、誰だろうねえ と言う台詞を、賢明にも口にすることのなかった山口が、無言のまま、で? と話を促す。
「で、取りあえず最後にしとくけど、台詞を直ぐ噛むでしょ。あなた」
「それがどうしたんだ?」
「どうしたじゃないでしょ。日常のこの人みてたら、この人のどこをどうやったらこれが生まれてくるのよ」
山口君は思わないの? と薄い合板製の机を叩くと、薄い冊子が微かに跳ねてはらりと捲れる。
「思わないのって言われてもなあ」
現にシゲが書いてる訳だし と見開きに写る男の写真を見下ろしてぼそりと呟いた。
「結局、自分僕の何にこだわっとうんよ」
もしかして突っかかりたいだけなんか?と苦笑混じりの問掛けに、 「だってさあ」 鼻先を指で擦るとぷいと横を向いて。 すっげえ、エロいじゃん 言葉の一つ一つがさ、 とどこか怒ったような口調の弟分に城島の眦に一層深い皺を刻み面映ゆ気に微笑を滲ませる。
「おおきに」
いや、礼を言われる事じゃないんだけどさ と照れ隠しのように歪めた唇がそのまま軽く尖る。
「なのに、なのによ、この人と来たらやたら猫背だし、O脚だし」
「って、全然最後ちゃうし、それただの身体的特徴やし」
なんや、誉められとるんか貶されとうんかわからんやん と呟くと、どこかわざとらしく、深い溜め息を一つついてへしょりと山口に懐いたが、凭れた肩先からくっくと響く振動を感じて城島も微かに笑を浮かべる。 だが、タイミングが良いのか悪いのか、二人が尚も、松岡の真意を探ろうと顔を見合わせた時、とんとんと軽いノックと共に顔を覗かせたマネージャーに呼ばれた城島は、しゃあないな と立ち上がった。
「ほな、行ってくるわ」
ほい、御苦労さん とぽんと触れあった目の前の掌に松岡は憮然とした面持ちを隠せぬまま、それでも、いってらっしゃいと城島を送りだした。
「で」
城島が席を外したのを機に、楽屋に設えられてあった珈琲を二人分、紙コップに注いで戻って来た松岡を見上げて、山口が口角をにやりと歪めたまま先を促した。
「で?って何」
「先刻、お前が逐一シゲを追ってたストーカー行為の理由って、あれだけか?」
「ストーカーって言葉悪くない?」
「その、濃い硝子の奥」
見てたんでしょ?あの人の事 と眉月のように細められた眼に頬が微かに上がり、バレてたんだ と松岡は軽く突き出した唇のまま、ふんと息を吐いた。
「そりゃあなあ、あの人が俯いたらお前俯くし、俺のこと振り返ったら、お前の視線も自然にあがるし」
それでバレなきゃ詐欺だよなあ と山口は器用に肩を竦める。もっとも、視線の先に居た当人が気づいていたかどうかは今となっては聞きようもないが。
「本当、マジ、そんなんじゃなくってさ。ただ、本当に不思議だっただけなんだけどね」
いつも変わらずに柔らかな笑みを刻み込んだ口唇は、一見驚く程控えめで、上質なクッション材さながらに相手を心地よく受け止めるように言葉を綴り、そのくせ、時に聞く者が顔を引き攣らせてフォローをするようなギャグを言う。
なのに、同じ音を発する唇から溢れるあの人の詞(ことば)は、A-10のギリギリのラインをくすぐるような音を紡ぎ、聞く者を軽い惑乱の世界に落とし込んでいく。
「なんであんなにギャップがあるんだろうって考え始めたら止まらなくなっちゃって」
緩やかに傾けた紙コップに透ける琥珀のような色合いが細められた誰かの瞳の奥を思わせて、口角に浮ぶ色が優しく滲む。
「単純にさ、言葉を考えるのって頭の中だけど、それを形にするのは唇じゃん」
どんな風に音を発するのかな、そう思ったら、目が離せなかった と筋金入りの意地っ張りが素直に明かすのは、唯一の聞き手が山口だからかもしれない。
食べ物を咀嚼し、嚥下する。 言葉を発し、息を吸う。
何ら自分達と変わらぬ行為を繰り返す彼の唇。
だが、咽の奥から響く音を共鳴し、彼の声を生み出す器官が一つの楽器のように思えて と松岡が空になったカップを握り締めた。
「T0K10のヴォーカルは長瀬じゃん。だから、こんな風に感じるのは凄く変なんだけどさ」
なんか、エロイ器官なんだって思っちゃったわけよ 微かに紅く染まった鼻をした綺麗な横顔に、山口の細められた眼差しがいっそう柔らかく笑みを濃くした。
「いいんじゃねえの」
音楽やってる者にしたら、それって最高の褒め言葉だと思うし、と最後の一滴まで飲み干したカップをぱこんと卓上に戻す。 まあ、あの人の場合は、音に搦む時限定の気もするけどな それに と頼り無いパイプ椅子の背もたれが悲鳴をあげるように身体を預ける。
「あの人の歌詞は、どっちかというと音遊びに近いだろ。言葉の選び方って言葉自体の意味もあるけど、音としての言葉を楽しんでるイメージ強いしな」
音から先に指先から溢れて、それを綴るように言葉が零れる。それを拾い上げた先から、遊びのように言葉が踊り、再び一つの楽を紡ぎはじめる。
「けど、お前、シゲが音を発してる器官って唇だけって思うか?」
へっ?と返ってきた素頓狂な声に、山口は反り返るように天井を見上げた。
10本の指先が、別々の生き物のように6本の弦に絡み付き、小さなピックが弦をかき鳴らす度に震える空気自体が色を変え、ずしりと肩に掛かった重みを全身で受け止めて、彼自身が共鳴体となって音を響かせる。
ギター弾いてる時のあの人は、ほんと別人だよな と軽く閉じられた目蓋の裏に映るのは、先日終わったばかりのライブの余韻。 飄々としたメンバー内最年長の男は、ギターという媒介を借りて、誰よりも鮮やかに城島 茂という個体の音を全身で奏でて続けているのだ。
「それにさ、曲や詞ってさ、ある意味その人となり全てだろ」
バラエティの方が素顔が見えて楽しいと言われることが多いけれど、それでもそこにはモニタという壁があり、己達の周りには無意識の薄い膜が貼り続けられる。
一本のラインだけを残してゆらりと揺れる椅子の軋む音が、山口の言葉に重なる。
「人一人、真剣で感動させたいモノを作りたいなら、それは作り手の内側、思考をすべて晒さないと無理だと思うんだわ。そりゃ、表面上で器用にモノを作っても、技巧的にはすげえもんができるのかもしれないけど、薄っぺらなものしかできない。でも、シゲの曲はそうじゃないから」
あの人が作った過去から現在の歌、そして今から生まれてくる歌詞や奏でる曲を聞いて、その中に含まれるものをさ、見てみろよ。そしたら秘密主義って謂れてるあの人の中に息づくモノが見えてくるかもよ と器用に眇められた片目が見つめる先は、城島の背を飲み込んだ薄い扉の向う側。
「そっちの方が唇見てるより、よっぽどお前の言う所のエロい城島 茂って人間がわかると思うけど?」
軽い語尾は、疑問よりも確定に近い。 それが、まだまだ自分は彼の事を知らないのだと言われている気がして、松岡はあからさまに眉を顰めた。 そんな、歳よりも幼い表情を晒す松岡に山口が咽の奥で微かに笑う。 くしゃりと潰れた紙コップが綺麗な弧を描きながら、部屋の片隅のプラスチックの箱の中に吸い込まれて行くのを追い掛けていた柔らかな光が一瞬強明滅して、透き通る虹彩に憮然とした面持ちの松岡が映る。
「諦めなって」
鮮やかに口端が天を突き、細められた眼が作り上げるのはメンバーでさえ見愡れるような端麗な笑。 松岡昌弘と言うドラマーがこの世の中に影も形もない頃から、あの人が紡ぎ続けてるモノを見続けてるんだからさ。