ちりりと胸の裏に焼けるような痛みが走る。
透き通る琥珀の虹彩に写り込む邪気のない笑み。
蕩けるような色を帯びたそれには、なんのてらいもなくただただ愛おしさと優しさだけが滲みだす。
ちり ちりり
鼻腔をくすぐるこの匂いを自分は知っている。
何度も何度も、幾度となく繰り返し味わって来た焼けたような匂い。
どこか甘くそのくせ苦みを思わせるそれは、砂糖を焦がしたように甘く漂う小さな傷み。
■ ■ ■
両手を真っすぐに伸ばす小さな肢体をどこか危なげな、でも淡雪を抱きしめるかのような仕草で抱き上げると、その柔らかな肌に己の頬を擦り寄せながら、自然に綻ぶ対の眼。
ぷっくりとふくれた、まだ、夢すらもつかむこともしらず、ただ、未来だけを握りしめ、生まれて来た五指を精一杯広げて、抱き上げてくれる腕の主の温みを求めるかのように伸ばされた掌。
辿々しく溢れる音にしかならぬその声に、抱きしめた男がふうわりと笑む。
「あのさあ」
「ん〜」
この家を訪れてからこちらを向く事のない男に、ああ、自分の子供に嫉妬する等不条理も良いとこだとほんの少しの苛つきが滲む声にも、気づかぬ風で、なんやあ と返される辿々しいような口調は、目の前にある笑みにつられたものだ。
「いつまでそいつ構ってるわけ?」
「いつまでって」
と、言いつつ,漸く腕の中の重みを柔らかなベッドの上に返すと、城島は、ちらりと時計を見上げた。
「まだ、30分程やん」
な〜、ぷっくぷくやもんな〜 とベビーベッドの柵に両腕を預け、綺麗に爪を切った指先でその頬をぺこりとつつく横顔は、口元は綻び眦は柔らかく解けたままだ。
「そう、30分、アナタがこの家の玄関のインターホンを鳴らしてからすでに30分が過ぎてんだけどさ」
そう、と山口は机の上にどんと置かれたまんまのマグカップの片割れをぐいと傾け、すっかりと冷めきった珈琲を口に含んだ。
「ええやんかあ、久しぶりやねんで」
誕生日にも読んでもらえへんかったしな、と拗ねた幼子のように、ぷくりと唇を尖らせるその仕草に、山口は軽く肩を竦めてみせた。
「仕事だったんだろ」
「その日にしたん自分やん」
最近一緒のロケ多いのにな、ケチやんなあ とすよすよと健やかな寝息を立て始めた赤子のまだちんまりとした柔らかい鼻先をつつきながら、囁くように文句を言うが。
確かにこの男との仕事は、他のTOKIOのメンバーと比べて、格段に多い。多いのだが、如何せん遠出のロケが多いのだ。しかもほとんどのロケが日帰りと言う強硬スケジュール。たまに泊まりがあったとしても、翌日の午後にはどちらかに仕事があり、ゆっくりとプライベートを過ごす等、夢の夢だ。
「し〜げ」
お茶、冷めちゃったじゃん、と甲高い音に、やっと山口の方を振り返った城島に、ほら、と傍らのソファを叩くと
「けち〜ええやんか、もうちょっとぐらい」
ほんま、お父ちゃんケチやんなあ、穴があくわけでもないのにな、と漸く小さなベッドサイドから体を起こした。
「空くでしょ」
「空くかい」
あ〜、ぬっるぅ と軽く舌を出した城島に誰の所為だよ と山口はとんとソファに背を預けるようにして凭れた。
あな空いちゃうよな、きっと、アナタの視線なら と山口は無意識にすっと胸元を触り、あ〜あ、とため息を一つ零すと、どうしたん?と軽く小首を傾げた城島を少し上目遣いで見上げて。
「で、腹減った」
「あんなあ」
「飯、食わせて」
目の前でパンと合わされた両手に、僕、客やのに、と言いつつも立ち上がる城島に、「何使ってもいいってさ」と山口は上目遣いににかりと笑った。
こんな風にどちらかの家で、オフの日を過ごす等、どれくらいぶりだろうか。
互いの仕事が忙しいと言うのが前提にはあるが、山口が彼女と同棲、特に結婚してからは、城島からのコンタクトは確実に減り、プライベートな時間を共に過ごす事は皆無に近い。
だから、ではないが、とどこか浮かれたようにふわふわとした感情をぐいと無理矢理足で抑え込みながらも、さてどないしよう とキッチンで腕を組んでいる城島の傍らに立つように手元を覗き込む。
「何やの、自分」
邪魔やろ、と邪険に払う手にもめげず山口は、えっとね〜 と上の棚を開けた。
「何がいる?何出したら良い?」
場所わかんないでしょ、と母のエプロンの裾を掴んだ子供よろしく、にこにことした笑みを浮かべたままその場から動こうとはしない。
「そらまあなあ、けど、大体どっこの家も大まかな作りは同じやしなあ」
そう笑いながら、この家の主人の胃袋を表すかのように設えられている大型の冷蔵庫を開いた。
「ほんっと美味くなったよね」
アナタ と城島の手料理に舌鼓を打ち、せめて家人らしくと山口手づから入れたお茶を目の前に置いたまま山口は、満足げに腹を摩った。
「自分は相変わらずの食欲やね」
しかも、食うだけ、と賢くも食事の間健やかに眠っていた赤ん坊を膝に座らせた城島が、呆れたようにきゅっと口元を歪めた。
「ほんま自分の嫁さん、尊敬するわ」
こないな大食漢のために毎日飯作るやて、と器用に赤ん坊を抱えたもう一方と手で少し冷めた茶を一口口に含むと、こくりと音を立てるようにして飲み込んだ。
「しかも、ほんま綺麗に冷蔵庫ん中整頓されてんねんで、びっくりしたわ」
そう笑いながらも、食べてくれ と言わんばかりに積まれていたタッパウェアの中身に手を出さなかったのは、何故か、触れるのを躊躇ったからかもしれない。
「まあね、滅多に出かける事もないんだけどさ」
昼夜とわず腹をすかせたでかい子供のための常備菜だと、山口も頬を歪めるように小さく笑う。今日は、珍しく一緒にオフとなった城島が来ると言う事で、城島が来てくれるなら安心だと、久しぶりに友人の家に遊びに行ったのだ。
「子供好きだよね」
まあ、読みは確かだよなあ。と今も蕩けそうな表情で、木さじに載せた粥を一人息子の口にあ〜ん と言いながら食べさせているその横顔に、苦笑を覚える。柔らかな頬についた米粒を指で摘み、自分の口の中に放り込んだ男が、かつては、人と一つの鍋を突く事すら拒んでいたなどと誰が思うだろうか。
「せやねえ、まあ、可愛いわな」
くくっと笑い、今度は箸で裂いた芋を小さく割って、はい、もっかいあ〜ん と小さく開いた口に入れると、ふわりと笑みを浮かべる。
「けど、誰にでもこないなことするわけやないねんけどな」
「だっけ?」
ロケの時でも、出会った子供には、ほとりとした笑みを浮かべ、遊んでいるではないか、と軽く眉を歪めたが、確かにその腕に抱き上げて と言うのは珍しいかもしれないが。
だが、
「やって、ぐっさんの子ぉやん」
他の誰でもなく、山口の子供だから可愛いと笑う。
「しげ」
「それにな、この子にはええ男に育ってもらわなあかんねん」
「何?事務所にでもいれて、マネージングでもする気?」
だめだよ、無理強いは、と態と柳眉を寄せるが
「ん?僕の娘と将来結婚するかもしれへんやろ?」
「…、アナタいつ子持ちになったの?」
「や、まだ、予定は当分ないけどな、けど、僕の娘やったら、絶対べっぴんさんやもん」
●ちゃんかて、一目惚れするに決まってるやん 可愛い妹のような存在から、気がつけば一人の異性へ とどこかのベタな恋愛小説のネタのような事を言いながら、なあ〜 とまたそのすべらかな頬に自分の頬を押し付け、ククッと笑う。
確かに、と山口ははふりと息を吐き出した。アナタの娘なら、俺だって一目惚れしそうだよ と口には出さず、ありえないっしょ とお定まりの軽くくさすような言葉で小さく返した。
「でな、将来、お嬢さんを僕にください、って頭下げに来たら、許さんって殴ったるねん」
「しげさん?」
なああ と語尾を伸ばすように小首を傾ぐ後ろ姿に、山口は思わず体を前傾に倒した。
「やって、ぐっさん、殴ったら何されるか分からんやろ」
ほら、親の因果が子に報いってな とからから笑う城島の後頭部を軽く突くと、
「アナタ、殴った事ってあったっけ?」
「いや、ないけどな」
けどな、ほら、と自分の二の腕を山口のそれと並べ、とても試す事できへんやろ、と子供を膝に抱いたまま、山口の隣に腰を下ろした。
「まあなあ、殴る言うんは冗談やけどな」
やから、力こぶ作るんやめぇ と軽く眉を顰めると、嫌みなやっちゃなあ、とこぼりと固くそびえるそれを指で突き、太一の気持ちも分かる気がするとランニングが似合う男になりたいと毎年言い続けているメンバーを思い出したように小さくごちた。
「そう言う事ちゃうかなって思うねん」
だからな、と続いた言葉に山口は、軽く小首を傾げ、わかんねぇ と呟いた。
「せやからさっきのな」
「子に報いって奴?」
「そ」
ぽすりとソファの背に凭れた城島の腹に、倣うようにぽてりと凭れた赤ん坊は、軽く指を吸うようにしながら、その小さな眼を細めたまま、うとうとと体を揺らしている。
「報いやないけどな」
親が子を守りたいて思うんは自然なことや、けどなあ、
紅く染まった頬を指で摩り、かいらしいもんなあ とどこか舌ったらずな口調で城島が笑った。
「子供は可愛い、通りすがりの子ぉもロケ先でおうたこも、けどな、子供が愛らしい姿形をしとるんは、生まれつき持っとう自己防衛本能や」
たとえどんな殺人鬼であっても、その赤ん坊の無垢な笑みに一瞬戸惑う事があるという、そう言う事だと。
「やけど、だからって言うて、隣の家の子やったらまだしも、初めて会う子に何かしてやりたいとは思わんやろ?」
そう言ってすっかりと体重を自分に預けきって眠る熱に、あったかいなあ とくふりと笑みを零した。
「けどそいつだって、滅多に会わないだろ?」
いくら愛息とはいえ、愛娘じゅのんではないのだから、連れ歩く事はほとんどない。
「ぐっさんの子ぉやから」
だから、可愛いと眦を緩めるそれは、数年前に観た、某国営放送の朝ドラの時よりも柔らかく緩んでいる。
「松岡や、太一、長瀬に子供ができても同じように思うと思うけどな」
自分の大切な人との繋がりを持つ子だとそれだけで愛おしい と城島は小さく笑った。
「そんなもんかなあ」
「甥っ子君可愛いやろ?」
「まあ、そりゃね」
「それに近い感覚やね」
まあ、と城島はこりこりと顳かみを掻くと、この子寝かせてくるわ、とリビングの端に置かれたベビーベッドに赤ん坊を返した。
「そんな風に繋がりたいて思う弱さかもしれへんけどな」
「シゲ?」
「僕は結婚してへん、強いて言う程願望も前程あらへん」
自分一人の空間が大事だと言う男は、24時間誰かが傍に居続けるのは耐えられへんからな とどこか自嘲げに笑った。
「つまりは、家族が、おらへん言う事や」
「むっちゃんたちいるじゃん」
「せやけどな、親はいつか先に逝ってしまうんやで」
今は良い。
一人が好きだと笑っていられるぐらいに、周囲には人の気配があり、寂しくなれば、親元に心配だからと言い訳をしながら電話をすれば、誰よりも自分を愛おしんでくれる人の存在を感じられると。
「先、10年、20年経った時、僕は一人や」
「んなわけ…」
「皆な、愛するもんが大切やからな」
人ができることなんてたかが知れているのだ。誰かを守りたいと両手を伸ばしても、抱きしめられるのはその腕の中の人たちだけ。時折、希有なまでに腕が長く、世界中を抱えようとする人もいるけれど、そんな人は世紀のヒーローかペテン師に過ぎない。
「この掌からはみ出たもんのことなんてすぐ忘れてしまう」
そう、見下ろす掌に微かに残る温もりは、今の己にはけして手に入れることのできぬ命の欠片。
「やから、代償行為なんかもしれへんて」
ごめんなあ とすやすやと寝息をたてる子の柔らかく揺れる髪を撫で、しげ? と自分を見上げるかつての相棒を見下ろした。
そう、かつての。今の彼の相棒は自分ではなく、この子を生んだたおやかな女性。
自分はこの男の仕事仲間になれても、家族にはけしてなれぬのだ。
そう気がついたのは、もう、随分と昔の事だったけれど。
こう、目の前にはっきりと一般的な幸せの具象化した姿を突きつけられてしまえば、この男と自分の中にある『幸せの定義』はけして相似形ではないのだと認めざるをえなくて。
「いらんこと言うてしもたな」
気にせんといて と城島は床に置きっぱなしだった鞄を拾い上げた。その慌てた仕草に、山口は、あのさあ と些か呆れたような音を含んだ声で軽く肩を竦めてみせた。
「ばっかじゃねぇの?」
「うるさいわ」
そのまま玄関へと向かった城島が、言葉少なく靴を履こうとした。だが、つと、背後から回された腕に、僅かにかがみ込んでいた体の動きが阻まれてしまう。
「ちょぉ」
僅かな抗議は、いっそう力の入った腕によって、抑え込まれ、首筋にふっと触れた息に、城島はびくりと体を震わせた。
その、どこからしくない怯えた子供のような所作に、山口はくくっと笑った。
「俺が…俺たちが貴方を一人にすると思ってんの?」
え、っという問いかけのような返事は、無意識に唇に漏れたものらしく、僅かに丸く開いた唇は、そのまま言葉を紡ぐ事すら出来ず、城島はほんの少しだけ自由になる首を後ろへねじ曲げた。
「ぐっさん?」
苦し気な態勢の中、僅かに見える大きな虹彩が、山口の言葉を咀嚼するかのように数度瞬きを繰り返す。
「あのさ」
前に回した腕はそのままに、微かに緩んだ輪の中で、振り返った城島が、もう一度ぐっさん と小さく呟いた。
本当にバカだ、この人は と。
「いつか、アナタが結婚して、子供ができて、アナタの愛する家族ができたとしても俺たちはアナタを離したりしない」
っていうか、全力で阻止してしまいそうだけどさ、と後半部分は喉の奥でつぶやき、しげ、と けど と戸惑いを見せたままの城島ににこりと笑みを浮かべた。
「あのさ、俺たち何年の付き合いだと思ってんの?」
20年だ。
その間、つきあった女の数は両手を越え、会わなくなった友人は数えきれない。
「確かにさ、俺は結婚しちまったし、松岡は同棲、太一や長瀬もなんだかんだとワイドショーを騒がしちゃいるけどさ」
アナタと違って、と眼を笑むように弓なりにし、むっとしたような表情の城島に、でしょ、と小首を傾ぐ。
「けどさ、俺たちがTOKIOというグループの象徴であり、根底である存在のアナタを今更独りにするとマジで思ってんの?」
甘く見るなよな と眉を軽く上げてみせた。
「俺の代わりにこの子を可愛がるんじゃなくてさ、ちゃんと俺に言葉にして言いなって」
寂しいと。
「そんなんちゃうわ」
アホか、とふいとそっぽをむいた紅くなった耳の先に山口は、素直じゃないねぇと口角を緩めた。
本当にバカだ、俺は と山口は小さく笑う。
自分は、何に嫉妬をしていたというのだろうか。
二昔と呼ばれる時間の中、誰を失おうとも、いつも目の前に確かな温もりとして、この存在はあるというのに。
「嫁さん、子供、親、たくさんの守るべき存在はあるかもしれないけどさ、何が自分にとって大切かを決めるのは、世間でも他人でもなく、俺ら自身なんだよな」
何に遠慮する事もなく、誰に憚る事もなく、アナタはアナタ自身のままでここに居て欲しい。
「おおきにな」
「うん」
たとえこの先、互いの隣に立つ誰かという存在に怯えたとしても、他の誰でもない、自分自身が選んだこの人の傍を離れる事等ないのだと。