たんたん っと勢いのある音が鼓膜を震わせ、それに合わせるように、とっと軽やかな音と共に伸びやかな四肢が空を舞う。
基本的なステップや定められた動きではなく、自由気侭に、だが、何の制約も感じさせない目の前の男の動きは、ここが四角く切り取られたちっぽけな空間であることを忘れさす。
見栄えがする程背が高い訳ではないが、彼特有の躍動感のある動きは存在感があり、見るものを引き付けずにはおかない迫力があるのだ。
その日、学校を早めに引けたおかげでいつもよりも早い時間からレッスン場の壁に凭れてその様を見つめていた国分は、あ〜あ と声にならない溜息を一つついて自分の掌をじっと見る。
練習をサボった事等ないし、元来スポーツ大好き少年である国分は身体を動かす事が苦ではない。だが、それとこれとは別問題。
同じ道を志し、彼同様背に恵まれることのない、とはいえ、まだまだ成長過程なのだからこの先どうなるかは判らないけれど、そんな自分にとっての彼の存在は素直に悔しく、羨ましいとさえ思う。
まあ、ね、だからといって、こんなところで彼をぼんやりと眺めながら腐っていたのでは勝てる試合も負けてしまうだろうけど、と、国分がとんっと背を壁から引き離した時だった。
辺を憚るような仕種で静かにそっと押し空けられた扉の隙間から擦り抜けた細みの男が、国分の立ち位置から逆の壁にゆうるりと身体を預ける。
それは何度か見掛けた事のある顔だった。
事務所内の廊下で。先輩達のバックを待つための楽屋で。そしてこのレッスン場の片隅で。
けど、と国分は再び背を壁に預けると、細められた眼差しだけをくるりと男を伺うように横を向ける。
記憶の中の彼は、いつもその口角を緩めるような笑みを浮べている。
そう、彼の傍らにいる人間が誰であろうとも、まるで透明な膜のようにその表に浮ぶ微笑が変わることはない。
だが、今、目の前に佇む彼に己の知る面影はなかった。
襟足に掛かる髪を後ろで括った男の横顔は、暮れ行く夕陽を受け止めているせいか、どこか愁いを帯びたような影を帯び、時折、軽く伏せられる睫毛がなだらかな頬に陰影を落とし込む。
ほとり、ほとり、と音もなく、姿も見せぬ緩やかな色が滲むような横顔に、国分はあからさまなまでに眉を顰めた。
「山口く〜ん。お迎え来てるよ」
だが、抑えきれぬ苛立ちに、国分が声をかけるよりも一瞬早くあたりに響いた、まだ、幾分の幼さを持つ声に、言葉に出来ぬ苛立ちを含んだ空気は、あっさりと行き場を失ってしまう。
「来てるんなら、声かけてくれればいいのに」
じとりと全身に纏う汗を拭いながらの満面の笑みを浮べた先ほどまで円の中央で踊っていた山口と呼ばれた男を、国分が睨み付けていた男が軽く片手をあげて彼を迎える。
「せやって、自分気持良さそうに踊ってるやん」
あんなん見たら楽しそうで声掛けられるわけないやん と軽く尖らせた唇で答える男の横顔はいつもの柔和な笑みに彩られ、先程、垣間見た陽光の影等微塵も感じさせはしない。
「そりゃね、身体動かすのは好きだしね」
待たせてごめん と合わせた手をぽんと叩くと足元に置いてあったらしいギターケースを肩に掛けた男と、すっかりと息を整えたらしい山口は自分達を見つめる瞳に気づくことなく扉を開くと、穏やかな笑声をたてながら国分の前から姿を消した
「ねえ、俺さ、山口君のダンス好きだよ」
学校に行く必然性のない祝日の朝、自主レッスンの為の小さなスタジオでの事だった。
周囲では、既に数人の夢見るJr.達が思い思いのステップを踏み、鏡に写る自分を見つめている。
切れがあって気持良いよね そう告げると
「おお、ありがとな、国分君だったっけ」
てらいも照れもなく、おおらかなまでの笑みを浮べながらも、山口は先ほどから探し続けてるらしいCDを選ぶ手を止めることはない。
「本当に踊るの好きって感じだよね」
「ん〜、そうだな。踊ってると何も考えなくってもいいしな」
実際、気持良いからなあ、と考える事もない即答に。
「じゃあ、ダンサブルな感じでデビューするんだ?」
あの日から二日が過ぎていた。
「あの2人さ、バンド組んでるらしいよ」
勿体無いね、あんなにダンス上手いのにさ、 あの時、山口達と踊っていた少年達の会話が繰り返し脳裏を過り、その度にぽつりと浮んだ消えない染みがじわりと滲みを増して行く。
「あ?」
「だからさ、山口君は、ダンサブルなグループとかでデビューするのかなって思ったんだけど」
「しねえよ」
「なんで?ダンス好きなんでしょ」
「好きだよ、でも、俺、バンドだから」
何度、擦っても拭っても、消えない痕は、自分がどれ程望んでも得られぬモノを、好きだと口ではいいながらもあっさりと捨てた男への妬みなのだろうか。
「何だ、知ってたんだ」
俺がバンド組んだの と下から、睨み付けるような上目遣いで見上げてくる、少年と青年の端境期の面立を色濃く残した後輩の表情に、漸く手を止めた山口が口角を微かに歪めた。
「そんなにベース好きなんだ」
身体動かすより?そう問いかける国分に山口は既に選びだしていたらしいCDを傍らに置いて苦笑を浮かべる。
「まあ、身体動かす方が性があってるかもしれないけどさ」
でも、なんで? と逆に小首を傾げて、国分を見返す。
「見るからに楽しそうな表情で踊ってるのに、なんでかな って思っただけだよ」
別に、と横を向いた男に、何で自分が怒るかな とくしゃりと前髪を掻き混ぜると、軽い溜息をつく。
「そうだなあ」
一度、途切れた言葉は、何かを探すように辺を彷徨い。
「会っちまったから」
は? と言葉の意味をとり損なったように、大きな瞳が零れ落ちそうに見開かれるのを見て、山口は照れくさ気にこりこりと鼻先を掻く。
「だからさ、あの人に会っちゃったからさ」
「ちょっと待ってよ。じゃあさ、山口君は、何、ベースをやりたいからバンド組むんじゃないわけ?」
「や、ベースは好きだけど」
軽い肯定は否定に近い。
「じゃあ、何?あんた、あの人のへらへらした笑いに絆されて、好きなダンス放り出そうっての?」
ふ〜ん、茂君の事も知ってるんだ そう小さく呟くから。
「時たま見掛けたりするぐらいだよ」
ダンスの自主レッスンにも出て来ない奴なんてさ、と今度は正面から見下ろされた国分が居心地悪気に視線を彷徨わす。
「確かに、あの人自主レッスンはよくサボるよなあ」
くくっと楽し気に笑うと、伏せられた睫毛が微かに揺れる。
「けどさ、それ違うから」
何が違うのさ、そう問いかける間もなく、山口が拾い上げたCDケースをぱかりと開くと、そこには有名なギタリストの写真の入ったジャケットが現れる。
「絆されたんじゃなくてさ。一緒にやりたいと思ったんだよ」
俺が、あの人と、そう区切るように言うと山口は、にやりと笑う。
「俺自身、音楽1本でやって行きたいのか、それともドラマメインにやりたいのか、それともダンスか なんて、まだ分かってないよ。ここにだって入ったばかりだし先なんて見えないだろ?取りあえずできることからやってみようかって感じで、事務所入って、練習やってさ」
自分もそうじゃないの? つぶやきながらも、尚も指先が辿るジャケットの写真。
「そう…だけどさ」
「でも、あの人、茂君はさ、自分のしたいこと見据えてる人だから」
吐息のように低く零れ落ちた声に、滲みがじわりと広がる。
「海のモノとも山のモノとも判らない自分がいるのに、人のしたいことにつきあうなんて、随分とリスクの大きい道を選ぶんだね」
自分の目の前に幾筋も延びた道を捨て去って?と次第にきつくなる語尾に、山口は、軽く眉をあげると、CDラジカセのボタンを押した。
かしゃりと開かれた皿にCDを滑り込ませると待つ程の間もなく流れ出すのはアコースティックギター。
「リスクを選んだつもりはないよ」
あ、これ、あの人が好きだって言うからさ、ずっと探してたんだ と、聞き入るように目蓋を臥せる。
「人に聞け聞けって薦めといて、持ってないって言うんだからひどいだろ」
だが、何のいらえも返さずに己を見据える大きな瞳に一つ肩を竦めると、きゅっと唇を歪めて選ぶように言葉を綴る。
「俺が選んだのは、茂君、城島 茂っていう存在かな」
一つしか選べないなら、その時、一番大切なモノを選択するしかないからさ。
初めて会った日、バックを踊る為に集まったJr.達の中、彼は一人ギターを持って所在な気に立っていた。
誰もが、右を向けと言われて、言われるがままに右を向いて、足をあげる日々の中。
彼だけは、真直ぐに前を向いていたんだ と。
「だから?」
「そう、だから」
「この事務所から、バンドデビューしようって?」
「そ。前例がないからって、従う必要もないだろ?」
「あんたが踊ってるのに声も掛けられず、ぼ〜っと気づいてくれるの待ってるような人でしょ?」
「押し弱いんだわ、あの人。部屋に遊びに行ったら、練習したい癖に、俺がしゃべるのに延々とつきあい続けちゃうような人だから」
優し過ぎるのかもしれないけどさ、そんなとこも放っておけないでしょ と国分を見つめる瞳は、目の前のお存在を通り過ぎた遥か彼方を見ていた。
デビューが後か、先か、ダンスが巧いか、下手か 彼らが見据えているものは既にそんな距離ではない。
脳裏に浮ぶ男はいつも口元に笑みを浮かべて、誰にもその内側を探らせない存在。
「この曲は、まあ、悪くはない選曲だとは思うけどね」
ここのギターのラインが凄いよね ふいと横を向いたままの言葉は、自分の負け そう考えて小さく笑う。全ての物事を勝負としてしか捕らえられていない自分の小ささに。
「へえ、こういうのも聞くんだ」
「まあね、一応、ちょっとはバンド経験もあるしさ」
軽く弦を弾く指使いに山口が目を細めた。
「お前さ、一度、練習見に来ねえ?」
つっても、場所も金もないから、大概どっちかの部屋だけどさ。
「メンバー今探してるんだわ」
でも、この事務所じゃん、中々居ないくてさ 楽器の経験者 と悪びれもなく肩を叩くから。
「見に行くぐらいはいいけど、楽器被るよ?」
俺、ベースだもん と口角をにやりと歪めて悪戯な笑みを作る。
「悪いけどベース以外のパートで頼むわ」
「何でよ。何でもやってみるんじゃないの?」
あの人と一緒にいる為なら
「ベースはさ、主旋律支える重要なパートじゃん」
譲れないでしょ。それだけはさ と言うが早いかCDをケースに仕舞い込むと勢い良く立ち上がった。
ゆっくりと扉を開かれる。
こっそりと、まるで呵られるのをおびえる子供のように扉から覗く小作りの綺麗な顔。
「見つけたよ〜、キーボード候補」
レッスン場に響き渡る声に、振り返った表情がふうわりと笑う。
柔らかな金の陽光を帯びて、揺れる表情に影はなく、てらいもなく真直ぐに見つめてくる瞳に膜はない。
「って、ちょっと待ってよ、俺、キーボードなんて弾いたことないよ」
でも、ベースは譲らねえからな 囁くが早いか、城島の方へと駆け出して行く背に国分は思いきり顔を顰めてみせる。
琥珀色を透ける光に触れて、ほんの少し薄らいだ心の滲み。
逃げて行く背を追い掛ける為に、勢い良く踏出した右足に、国分は、形になりきれぬ何かを一つ選んだ瞬間だと大きな目を細めた。