なだらかな曲線を描く薄い背が視界を過る。
いつもは頭一つ分上から見下ろすあの人を背後から見上げるポジション。
手持ち無沙汰にスティックをくるりと回し、暇なんだよ というポーズを作りながらも追い駆ける一つの背。
四角く閉じられた録音スタジオの中。
チューニングを繰り返すギターとベースの音が絶間なく響いている。頷きあうでもなく、各々別の行動をしているような二人の背。だが、時折、計ったように交じる視線。
叶わないと思う一瞬。
届かないと臍を噛む感情。
届きそうで、触れそうで。そのくせ気がつけば遥か前を歩いている小さな背。
出会った頃はとても遠く大きいと思っていた背にそっと目蓋を伏せた。
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ほら、押すなよ。
だから、お前が足踏んでるんだよ。
そんな囁くような声が窓の外から聞こえ、松岡は何の気はなしに廊下の窓をからりと開いた。
真上と真下、内と外、そんな位置関係で、一瞬、見合わせた視線に、自分と差程歳の変わらないように見える少年達は、綺麗な顔を引き攣らせた後、脱兎のような勢いで壁沿いに左右へと別れて姿を消す。
その間ものの20秒程。
逃げ足が早いのは、都会も田舎も変わらないよなあ と北海道出身の少年は、そのまま彼らが覗いて居た木の向う側へと視線を移動させる。
差程興味があったわけではないが、彼らが身を顰めてまで覗き込む『何か』には、好奇心旺盛な少年として見逃す手はないでしょう と。
「ここらへんだったんだけどなあ」
柔らかな草が踏み付けた足下でほろりと崩れる。
夕べ、見たのは と、だれひとりおらぬぽかりとした空間に溜息を一つつくと、傍らの木に背を預けて無数に重なりあう木々の隙間から零れ散る金の光の渦に眼を細めた。
とても、綺麗な音だった。
巧いとか下手だとか、そんな技術的な事は楽器に触れた事がほとんどない松岡にはわかろうはずもない。
ただ、夕闇に沈みゆくゆったりとした空気の中、周囲を憚るように静かに密やかに聞こえてきた旋律には、弾き手を知りたい そう思わせる程には魅力的であり、静かな中にも迫力があったように思う。
だが、彼は誰時とは良く言ったもので、とうに日が落ちた薄暮の光は、無情にもその手の持ち主を松岡から阻むように、ただ緩やかに音に乗るように揺れる影だけを垣間見せるだけで。
眼前を薄い紗に包まれたようなもどかしさに、伸ばした手が届くはずもなく、だが、窓枠を飛び越えるだけの勇気はなく、かといってその場を後にするにはあまりに惜しい心地よさに、凭れた腕に頬を埋め、空が瑠璃色に染まるまで、その音楽に身を預けたのだ。
食事を終えた食堂で、すれ違う廊下で。
朝からどれ程眼を細めてみても、顔さえ判らぬ相手を見つけられるわけもない。ましてや、ここで衣食を共にするデビュー前の雛は数多い。
それに、と無意識に溢れる溜息の数。
もし、彼がこの寮の住人ではなかったら?
既にデビューを終え、ただ、たまたま用事があって、昨日、ここを訪れていただけかも知れない。
なんで、あの時、もっと近くまで寄らなかったのだろう。
「あ〜あ、俺って大バカ」
「なんや、先客?」
へ? 唐突に降ってきた声に、松岡は音がしそうな程ぱちくりと大きな瞳を見開いた。
逆光の為によくは見えないが、一人の男が幹に背を預けたまま座り込んでいた松岡を覗き込んでいる。
「う」
「う?」
「嘘でしょ?」
頬にかかった髪をさらりと指で払うと、覗き込んで居た男が半歩後ろに引いて小首を傾げる。
「何が?」
だが、目の前の存在とかっきり開いたニ歩分の距離を幸いに、松岡は何度か声もなく頭を降り続けた後、後ろを振り返る事もせず、脱兎のごとくその場を後にした。
「なんやろ?あれ」
傾げた小首をもう一方へとことりと倒した後、城島は肩に掛けていたギターケースを木の根元にゆっくりと降ろした。
細い面立を彩る柔らかな猫毛、透きとるような浅い色の瞳に意志の強そうな眉。
自分を少し見下ろす背丈。
そして、耳の奥深くに残るふわりとした印象の低い声。
彼だと思った。
顔を見ていたわけではなかったけれど、ほんのひとかけらも疑い用もない程の確信だった。
「俺って、やっぱり大バカかも」
そんな優しい関西弁を話す、いつもギターケースを肩に掛けている男は、城島 茂と言う名前の持ち主であることは難無く知ることができた。
何処かで見た顔だと思ったら、いつも松岡が欠かさずに見ているドラマの出演者の内の一人であることもすぐに知れる事実。尤も、役柄上、関西弁ではなかったけれど。
何度か寮の中を彷徨った結果、偶然にも、あくまでも偶然にも彼の部屋も見つける事も出来たことにも、松岡は自分が驚く程に、素直に喜んだ。
夜の空いた時間にその扉に背を預けると、振動のように聞こえる音楽。
あの後、何度かあの裏庭の小さなスペースで垣間見たギターをかき鳴らす彼の姿が瞼裏に蘇る。
普段、廊下ですれ違う時も、食堂で見掛けた時も、どこかふうわりとした空気を纏い穏やかな表情を見せる彼。
だけど。
ゆったりとした仕種でギターを抱える。
途端に彼の周りにあったどこか茫洋とした雰囲気は消え去って、彼を包み込む凛とした空気。
己の奏でる音に没頭し、生み出されていく旋律が彼を取り巻き、一瞬前までそこにあったはずの外界全てを凌駕する。
そこにあるのは彼だけが存在する世界。
掛け値なしに格好良いと思った。
彼と話してみたいとも。
だけど。
ふう 日々積み重なる溜息の渦。
何度、声を掛けようとしたことだろうか。
だが、一人でいる時の彼の何処か愁然とした面持ちの綺麗な横顔に息を飲み、彼が屈託も無く微笑んでいる傍らにはいつもがたいの良い、こちらもまた端正な面立の男に身を隠す。
何故、あの時逃げることをせず、答えを返さなかったのか。
そうすれば、今頃はこの扉の向う側に座り、彼の奏でる音楽の一端に触れることが叶っていたかもしれないのに。
思い返す度に、できることは後悔に髪をぐしゃぐしゃと掻き回すだけ。
「おい」
「へ?」
「お前、そこで何してんの?」
ぷかり、目の前にふわりと浮んだ白い輪に思わず一度咳き込みながら声のする方を振り返った。
「あ」
背に負うようにベースを掲げた、今ではすっかりと見慣れた男の片割れが、自分を見下ろしており。
「何?山口なんかあったん?」
気がつけば、背なに感じていた振動はなく、戸外の騒ぎに興味津々といった眼差しが扉の隙間から松岡を眺めている。
「あ、あの」
「うん?」
右手では、訝し気な面持ちで自分を睨み付けている男が一人。
左手には、軽く小首を傾げた仕種で眦をやんわりと綻ばした男が一人。
前門の獅子、後門の虎。
蝦蟇の油
三竦み え〜っと、と意味の無い言葉が脳内を駆け巡るが、現状を打破する為の言い訳は欠片も顔を出すことは無く。
「失礼しました」
何故、逃げたのか、そう後悔したのは、ほんのつい先ほどの事なのに と自分を振り返る余裕もなく、松岡は、再び肉食獣に睨まれた小動物のような勢いで、踵を返すとベースを掲げた男の横を擦り抜けてその場を後にした。
「なんや、僕、あの子の背中ばっかり見とう気がするわ」
「何?やっぱ、茂君の知合い?」
「うん『嘘』の子やねん」
「何それ」
まあ、入りぃな と扉を開いて招き入れる城島の横をすべり抜けると、山口が慣れた足取りで荷を申し訳なさげに敷かれたラグの上に置く。
「どうせ、貴方の事だからあいつの名前まで知ってるんだろ?」
「そら、まあなあ、あれだけ周囲でちょこまかされたらいくら僕でも気ぃつくわ」
ことり、置かれたマグを両手で抱え、
「せやけど、声一つ掛てこうへんねん」
何なんやろうなあ と眉を潜めて笑う男を上目遣いで見上げると山口は、ふんと鼻先で息を吐いた。
小さな憧れ、それに連なる大きな誤解。
その後、松岡は、彼等がメンバー募集の為のオーディションを開催する噂を耳にする事になる。
小さなはったり、それに繋がる大きな未来。
ばん 勢い良く響いた音に、松岡はびっくりしたように目を見開いて、自分を覗き込む琥珀色の瞳を受け止めた。
「って、あれ?リーダー?」
あれ、やないやろうと
「どないしたん?自分、気分でも悪いんか?」
心配げに差し出されたのは、いつのまにか掌から滑り落ちていたスティック。
「あ、何言ってんのよ。全然、何でもないって、ちょっとぼおっとしてただけじゃん」
ん、と記憶の中の彼よりも幾分か年輪を重ねた眦がほろりと綻び、あの頃と変わらぬ瞳が小さく笑みを浮べる。
「松岡、平気やて。ほな、最初からやり直そか」
軽く手をあげると、城島は、ギターのコードを引っ掛けないように、松岡にくるりと背を向けた。
ひょこりひょこりと視界を過る薄い背中。
いつしか見下ろすようになっていた彼の旋毛。
それでも。
耳に響く、弦の音にあわせるようにスティックを鳴らす。
あの頃も、今も、そしてこれからも。
ギターを奏で続けるあの背がある限り、自分はこのリズムを刻み続けるのだ。
彼が生み出す世界の一端で、あの音を聞き続ける為に。