長く続くオフホワイトの廊下は、どこか無機質な印象を与える。
窓から落ちた陽光を帯びて床にしなやかにのびる影は、通い慣れた学校となんら変わるはずもないのに、未来へ続く溢れんばかりの夢と希望、そして傍若無人なまでの無邪気さを持って、自らこの建物に飛び込んで来た彼等は、昨日までの見慣れた友人達とは少し違うのかも知れない。
もっとも、今、その廊下の中央を、大きな瞳を輝かせながら歩いている少年もその中の一人ではあるが。
窓の外を覗くように爪先立ちになっている少年の名は、長瀬智也といい、つい先日、ここJ事務所という名のアイドルを育てる有名な芸能事務所に所属することが決まったばかりであり、今日ははじめて一人で事務所を訪れた、所謂、一年生になる。
温かな家
歩いて通える小学校
登校路にある、放課後、友だちとサッカーをする小さな公園
指を折って数えれば、もう一方の指を折りはじめる前に、己の知る場所は全て終わってしまう。そんな狭い箱庭のような世界から、突然放り込まれた『芸能界の入口』は、見るもの聞くもの全てが面白く、目に映る全てが気になるらしく、はじめて春の野原に飛び出した子犬のような好奇心たっぷりで、長瀬はあちらこちらを物珍しそうに眺めながら歩いていた。
だが、
「あ、悪い」
あまり広くない幅の廊下を右や左と周囲に注意する事なく飛び回っていた長瀬は、背後から駆け抜けて行く人にぶつかり、勢い良く前につんのめる。
「いって〜」
先に、声ぐらいかけてくれてもいいのに、と形の良い愛らしい唇を尖らせても、声にならぬ程の小さなつぶやきは、瞬く間に走って去った背中に届く訳もない。
強かに打ちつけた膝と、ごつりと壁にぶつけた額をまだ成長しておらぬ指先でひとしきり擦る。
ひざ頭に滲む小さな擦り傷を自覚すると同時に沸き起こる じんわりとした痛みに、唐突に競り上がる寂しさとせつなさ。
お母さん
ここにはいない温もりに縋りたくなる。だが、頬に触れてくれる母の手があるはずもなく、長瀬ははじめて、自分が一人なのだと思い知らされた。
先ほどまでの春の日射しのような柔らかな光は翳りひそりと浮ぶ小さな雫。
「大丈夫か?」
どれくらいそこに座っていたのか。
気がつけば、降って来た頭上からの声と共に、ふうわりと大きく開かれた窓から射し込む光を遮った見上げるような大きな影があった。
心配そうに向けられる、優しい、だが、どこか聞き慣れないイントネーションを孕む言葉に、長瀬は黙ってこくりと頷く。
「そうか、怪我しとらへんか?」
痛かったなあ と大きな掌が、項垂れたように揺れる柔らかな髪を掻き混ぜるように頭に触れる。
「せやけど、自分も男の子やろ?泣いたあかんで」
幼子をあやすような甘さを含んだ声のまま、弧の字に口角を緩めて目の前の男は、やんわりと微笑うと長瀬の目の前に右手を差し出した。
ぽすんと重ねた掌の温もりに、さっきまで感じていた寂しさがすうっと吸い込まれていく。
廊下に座り込んだ自分を誰一人振り返ってくれない冷たい場所は、目の前の男の綻ぶような笑みにゆうるりと温められて行く。
きゅっと縋るようにその手を掴み、立ち上がる為に長瀬が片膝をついた。
だが、男が長瀬の手を引いて起こすよりも早く、少年達が男の背に軽くぶつかるように彼の背後を駆けていく。それは本当に微かな接触だったのだが、長瀬に手を差し出していた男のバランスはやじろべえよりも頼りなく。
「わわ」
ぐらりと近付いて来た男の目はとても大きく見開かれていた。
驚きに縁取られた透通るような琥珀の瞳。
長瀬はこんな時なのに、綺麗な目だとぼんやりとその瞳を見上げていた。
そして、容赦なく男に掛かる重力に、二人の額がぶつかるその瞬間。
「こらあ、廊下は走るな言うとるやろ」
「貴方ね、怒るより先に自分で立ちなさい」
両手の中から男の掌が消え、長瀬が目を開けた時には、触れあうような距離にあった男の温もりは、彼を支えるように背後から延びて来た腕の中にあった。
「おおきに、やって助けてくれたん自分やってわかったもん」
腕太いもんな と少しも悪びれる事なく、腰を支えている男の手から擦り抜けて、男がふうわりと笑った。それは、先ほどまで長瀬に向けられていた笑みとは違い、随分と大人びて見えていた男の笑顔は驚く程邪気がなかった。
「お前も」
ぐいと目の前に差し出された先ほどのものよりも一回り大きなそれに、長瀬は一層身体を竦ませる。
「ほら、廊下にいつまでも座り込んでたら邪魔だろ」
柔らかな栗色の髪の男よりもほんの少し高い声は、微かな怒気を孕んだような色合いを持ち、漸く乾きかけていた大きな瞳が新たな露を帯びる。
「自分、何、怖い声出しとうねんな。気にせんでええよ。こいつ、君よりえらい年上に見えるけど、自分と同じジュニアやねんから」
からからと笑いながら関西弁の男は、その両腕をすっかりと縮こまり壁にひそりと押し付けられていた小さな身体の両脇に滑り込ませて、勢い良く長瀬を抱き起こした。
「貴方に言われたくないんだけど」
膨れたような声音に含まれる甘えから見て、もう一人の男も、長瀬の想像よりも年はいっているようには見えない。
「ま、そやね」
で、どないしたん? と傍らの男に伺うように小首を傾げる。
「オーディション、詳細決めるって約束したのに、貴方いつまでたっても来ないから様子観にきたんだよ」
なのに、こんな所で、子供押し倒してるし と続く言葉に男がくすくすと笑う。
「アホ、誤解されるような事いいなや。まるで僕が危ない奴みたいやん」
そら、鄙に、稀に見る別嬪さんやけど? と向けられた悪戯な表情の慕わしさに、長瀬が漸く小さく笑った。
「鄙って、貴方、ここは一応そう言う奴ばっかりが集まって来るんだよ」
それよか、もう、行くよ ふいと背を向けた背に、男が慌てて長瀬の前に膝まづく。
「なんか困った事あったらいつでも言いに来ぃな」
お兄ちゃんが助けたるから ともう一度、ふうわりと頭を撫でる掌の温もりに長瀬は目を細めた。
「ちょお、待ってえな」
礼を言う間もなく、踵を返し、もう一人の男の背を追い掛けていく一回り小さい背。
「あ、あの」
だが、畏縮した小さ過ぎる声は、前を行く二人に届く事はない。
この事務所は驚く程人が多い。
だが、その中には1週間で居なくなる者もあれば、数年後不意に姿を消す人もいると聞いた。今声をかけなければ、もう、次はないのかもしれない。
「あの、僕」
廊下の窓が震えるような、ボーイソプラノが響き渡る。
驚いたように振り返る柔らかな面立を長瀬はきっと見上げた。
「僕、ながせ、長瀬」
「知っとおよ。智也君やろ?」
その肩越しに先程の男も覗き込むように長瀬を振り返る。
えらい美人さんが入ったって噂やったから とふうわりと眼を眉月のように細める。
「ああ、せや、困った事言いに来ぃ、言うといて名前言うてへんかったな。僕は城島、城島 茂、こっちは山口 言うねん」
降り注ぐ温かな笑みは、柔らかな木漏れ日のようにあたりを満たす。
ほったら、またな と、そう言うと今度こそ角の向うに消えた姿に長瀬が小さく小さくその名を呼び掛ける。
大切に両手で包み込むようにして、溢れた声も落とさぬように掌に小さく抱き締めた。
ほとりと心に落ちた温かな宝物を無くす事がないようにと。
消える間際、山口が軽くしかめっ面をして、ピストルのように伸ばした人さし指で自分を撃った事を長瀬は知る由もない。