TOKIO

笑い皺

-->
ずっと子供の頃、皺は老いの象徴だった。
綻ぶように緩んだ頬に、幾重にも刻まれた皺。
それが恐くて気味が悪かったことを覚えている。
だけど、いつだっただろう。
目の前にまっすぐに差し出された皺だらけのその手が、すごく奇麗で格好良いのだと気付いたのは。
とんと背表紙が軽い音をたてるように、机の上へと存在意義を与えるように落ちると、白目がちな三白眼が、ちらりと壁にかかった時計に視線を走らせる。
ありがたいことに、ずいぶんと増えた司会業に、時間に追っかけられるような日々。
その合間を縫うように始まった、2年ぶりのライブの準備。
あ〜あ と思わずこぼれたため息にも近い吐息に混じるものは、三十路を過ぎた男の僻か、押さえきれない疲弊の色か。
そんな駆け足のような生活をしていれば、ほんのわずかな休憩時間でも、『休憩』したいと思うのが人の常だ。そう思いながらも、今、国分の目の前に広げられているのは、明日撮影予定の番組のゲストについて書かれたぶっとい資料の束だった。目上の人に会うのだから、ある程度は予備知識を と毎回渡されるのだけれども、自分の足下さえも見下ろす暇のない状態の生活の中で読み切れるものでもなし、自然、目の前に積みあがっていくのは開かれることのない書籍の山。手の中にあるものも、ならば、せめて目次だけでもと持ち歩いているものの一つだ。けどさ、と自然ごちたくなる。
ぽかりと開いた空間を彩るように窓から差し込むのは、春を待つかのような淡さを持った金の光。周囲にはざわめく人の声も少なく、たゆるように揺れるのは、日常からかけ離れたような気持ちの良い穏やかな時間。
否、穏やかな時間、と呼ぶには、少し語弊があるかもしれないが、唯一5人が揃うレギュラー番組の合間に許された僅かな休息の時間なのだ。
そんな時間を惜しむように、一人は壁に背を預け、ヘッドフォンを深くかむったまま携帯の画面を覗き込み、二人は畳の中央を陣取って、がはがはと何やら楽しげに言葉を交わし、最後の一人は、緩やかな日だまりに、猫のようにくるりと背を向けて。時折、唇に揺れる笑みさえも心地良さげな健やかな寝顔が一つ、淡い光にふわりと揺れる。
前の撮影がスムーズであったことと、次のゲストが遅れているから、いつもよりもほんの少し長い休息時間。といっても何時間もあるわけでもなく、長くてせいぜい30分ほど。そんな短い時間さえも、熟睡できるのは、これは一種の特技と言っても良い。もっとも、彼だけではなく、ほかのメンバー全てが持っている特技ではあるけれど、と国分は薄く目を細めた。
ゴールデンになって、4年、深夜の頃をを含めると10年近く続いた彼の番組の最後の撮影がこの間の土曜日だった と聞いている。そして、その番組が終わることが決まるよりも先に、出演が決まった同放送局の番組の企画の打ち合わせも、既に始まっていると言ってたっけ。
それだけ疲れてんだよな と国分は喉の奥でごちるように呟いた。
目の前に出された台本を、ただ、素直に読むだけのタレントではなく、自らその番組づくりにのめり込んでいく人だから。
もっと気楽に生きれば良いのにと時折思わないではないけど。
「なんか子供みたいっすね」
ちんまりと丸まった城島の隣、無駄に長い両足を思いっきり伸ばした長瀬がうぃと眠気を払うように伸びをしながら、傍らですぴすぴと惰眠を貪る城島を覗き込んだ。
「お前さぁ、声でけぇって」
その前に座っていた松岡が、しぃと指を唇に当てながら、長瀬を倣うように城島を見下ろした。
ったくさぁ と 国分は松岡の後ろに回された右手に握られたままのコートをみつけ、わずかに眇めた眼を向けるとわざとらしく、はあ とため息をつく。
どうせ、あの男のことだから、こんなところで寝てたら風邪引くじゃん リーダーvv とか思ってるんだろうけど、テレビ局の中は。冷暖房完備の上に、城島の上半身の上には、しかりと革のジャンパーが掛けられているのだ。その上に、松岡のコートなんて掛けたら、逆に起きた時が寒いに違いないのだが。
まあ、人よりも長めな足を寒そうに縮めている姿を見ればその気持ちもわらかないでもないけれど、如何せん、そのジャンパーの持ち主が、あれだもんな と向けた先には先刻から、我関せずとばかりに自分の世界に入ったままの山口の横顔があった。
無理だよなあ と頬に張り付くように浮かぶのは、わずかな憐憫と楽しさが入り交じったもの。所詮人の不幸は蜜の味 違うか と国分は読むことを既にやめていた本の表紙を諦めたようにぱたりと閉じた。
「いつもはおっさんなのになあ」
松岡の注意事項と傍らからの恨めしげな視線に、ほんのわずか押さえた声の長瀬が城島の頬をぷくりとつく。
「でも、子供みたいに寝てても、やっぱり皺はあるんすよね」
先刻から気になっているのか、指先がしかりと指すのは、深く刻み込まれた眦のそれ。
「リーダーの年でさ、ぜんぜん皺のない人だっているのにね」
不思議そうに小首を傾げそのくせ楽しげに、俺の年のときにも、リーダー皺あったっけとつるりと自分の頬を撫でて、
「若いのか老けてんのかほんと分かんない人っすよね」
そう、くふりと一つ笑うとくるりと国分を振り返った。
「そういえば、太一君も、ここんとこに皺、できますよね」
違いましたっけ、と指先で釣り上げるように眦を持ち上げて、嬉しげに口元を綻ばす恐いもの知らずに、松岡は、ちらりと国分を振り返り、そのまま山口の方に救いを求めるように視線を動かしたが、それを受け止めてくれる兄貴分は、手の中の携帯が器用な角度で滑り落ちることなく掌の中で歪んでいることにも気付かずに、薄く唇を開けたまま、正鵠に呼吸を繰り返すように寝息を立てている。
「うるせぇよ。心配しなくても、すぐにお前の方が皺だらけになるだろ」
お前みたいに大口開けて、何でもかんでも笑ってたらすぐに皺だらけになんだよ、とぎしりと椅子を引き気味に音をたてながら国分も、また、長瀬の向こう側で横たわる男のその寝顔をゆっくりと見下ろした。
「え〜、ひでぇ、んなことないでしょ」
「眦に浮ぶ皺はな、笑い皺ってんだよ」
そう、その人の顔に刻み込まれた消えることのない幾重もの皺。
昔、まだ、20代だった頃は、さほど離れていないはずの男の顔にゆっくりと描かれるその線が例えようもなく醜く思えたことがあった。
仮にもアイドルだろ?
やんわりと綻ぶ笑みさえもどこか作り物めいて、その眦に浮かんだそれを見る度に、腹の奥がふつりとした違和感を覚え、ただ、闇雲にこの人を避けていた時期があった。
「笑い皺、って笑ってたらできるもんなんすか?」
国分の台詞に一瞬きょとんと眼を見開いた後、長瀬が不思議そうな面持ちになった。
「そういうこと…かな」
確かに表情の変化により、伸び縮みした冬の弛みによりできる皺を笑い皺と呼ぶが、けしてそれだけではない。皮膚の乾燥度合いや、当然のごとく加齢によるところが大きいのだが。
知るかよ と軽く舌を出しながら、僅かに眉を潜めた国分をよそに、そうだっけ 傍らで小首を傾げた松岡に、そっかあと妙な納得を返して。
「だから、皺ん中で笑ってるお婆さんって可愛いんすね」
ほら、ロケ先とかでもよく会うじゃないっすか、と、のほほんと全てを楽しむような屈託の欠片もないその横顔をほんの少し羨むように見上げながら、国分はするりと自分の眦から頬に指を滑らせた。
そこに確かに感じるのは、眠りにつく男よりは深くはないが、幾重にも連なった確かな皮膚に刻み込まれた年月の証。
「そう言うことだな」
皺が多いってことは幸せな証拠なんすね、と嬉しげに口元を綻ばすと、その指先をもう一度、城島の眦に滑らせた。
「だったら、リーダーは、今すっごい幸せってことっすね」
いつだろう。皺が老いの象徴ではなく、一本一本がその人が歩いた年月の道筋なのだと気が付いたのは。
「松岡」
「何?」
「時間、まだあるか?」
「後、10分ぐらいはあるんじゃない?」
そう、時計を覗き込むようにして律儀に答える弟分に、頬を綻ばせて、きゅうと眦に皺を描くようにニカリと笑う。
「下のコンビニでもいこうぜ。間に合うだろ」
ジュースぐらいなら奢ってやるぞ。ズボンのポケットに捩じ込んだ財布に、やったと両手を挙げる長瀬に、TOKIOの稼ぎ頭がジュース一本で何を大喜びしてるんだか そう、思いながらも、早く早くと既に楽屋口の扉を大きく開いて振り返る満面の笑みに、おぅ片手をあげて返事を返し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「あんたの笑顔が、本物ばかりじゃなかったことは知ってるけどさ」
まあ、これからは、幸せな皺でも増やしてよ、そう、静かな言葉をそこに落とすと、音をたてぬように扉を閉めた。
笑みを浮かべ、時に怒り、時に哀しんだその全てを忘れぬように、しかりと刻み込まれたその証。なのに、人は、老いを嫌い、若くあろうと無駄にあがき、大事な時間をあっさりと手放すのだ。目の前で、くしゃりと表情を崩し、差し出されるその手はとても暖かく、その人の生そのものを教えてくれているというのに。
「ってことだからさ、貴方は安心して、年、とりなよね」
どんなに年を経ても、あなたは格好よく、年を重ねるに決まってるんだからさ。
いつから聞いていたのか、柔らかな笑みを滲ませるようなその相棒の声を背なで受け止めて、城島は、煩いわ アホ、と呟くと、肩に掛けられた上着に、顔を埋めた。
Category

Story

サークル・書き手