薄い、おそらく、明るい中で見たならば柔らかさを思わせる淡い暖色系の壁に、等間隔に設えらえられた間接照明からやんわりと落ちる光はほの暖かさを滲ませる淡いオレンジ系。
店内に流れる曲は、ヒーリングミュージック とまではいかないまでも、揺れる風を思わす静かな旋律。
行き交う人の足音は毛足の長い絨毯に吸い込まれ、からんと揺れる氷の音のみが耳朶を振るわせる。
ここを訪れる人々も趣味が良いというべきか、重ねるグラスの音に、辺りを巻き込むことのなく、囁くような声がさざ波のように辺りに満ちていく。
確かに良い店だ と山口は小さくごちる。
重厚なカウンターの向こう側。自分も見切れるだけの客数だけを受け入れることを良しとしているのであろうこの店の初老のマスターと、談笑を交わす常連客。
芸能人であっても、ここを訪れているときはプライベートと知っているのか、それともこの大都会の端では、テレビで見かける顔も然程珍しくないのか、むやみやたらに騒ぎ立てる輩もいない。そう、それだけ礼儀をわきまえている大人の店なのだと思う。一応、お茶の間のアイドルとして年齢層幅広く顔が売れているはずなのだから、誰一人気付いていないとは思いたくないのが正直なところなのだけど。
現に、時折、小さなノートを手に、一見おずおずと、その反面、押さえきれぬ好奇心の満ち満ちた表情を隠しきれない、そうほんの少しこの場に似つかわしくない大人になりきれない人間が お一人ですかあ、お仕事じゃないですよね、と少し間延びした語尾で、声をかけてくるのだからそれも強ち自惚れではない。
今も、と差し出されたシステム手帳に、にこやかに微笑を貼付けた表情のままで、さらりと名前を書くと、ごめん、プライベートだから と軽く片手をあげたところだ。
そうですか とやや残念そうな微笑を落としながらも柔らかく空を舞うスカートの裾を翻し、それでも名残惜し気に振り返る人の影に気付かぬ振りを決め込んで、山口は目の前に置かれた淡い光の影に琥珀の色を落とすグラスに手を伸ばす。
正直、可愛い女の子は嫌いじゃないけどね と。
でも、今日は、一人で飲みに来たわけではないからと、細められた眼の端に映る男の横顔に口角を歪めた。
あ〜あ、時節柄、まだ、空高く日を残す夕暮れの中、車窓から差し込む橙色の光を頬に受けながら、山口は自分の手をぎちりと握りしめた。
今日は久方ぶりに、一般的に見ればアイドルが受け持つにしては、過酷 としか表現しようがないロケばかりが続く長寿番組の撮影日だった。
訪れるのが遅かった分、まるで凝縮したかのような暑さと容赦なく輝く太陽の照り返しの中、それでも敢行された撮影に、すかりとだるくなった体を椅子に預けるように四肢を伸ばす。それだけで、ぎちりと強張っていた膝頭が音をたてるように解れていくのがわかる。
「こんなにしんどかったっけ」
「自分、久しぶりやしなあ」
独り言のように零れた愚痴に、間髪入れずさらりと返ってきたいらえに、ちぇっと拗ねたような舌打ちを返す。
確かに久しぶりの連ドラで、がっちりと缶詰状態になってしまった山口に、以前のような遠方ロケや無茶な撮影が来ることは極端に減った。村ロケが減らないのは、村という絵的に山口がいることがあまりにも当然すぎるからだろうか と疑いたくなるぐらいには、久しぶりの体力勝負のロケだった。
「やっぱ、鈍っちまったかなあ」
ぽんと小気味良い音をたてて、軽く盛り上がった力こぶを叩き、それからゆっくりとひりひりとした痛みを訴える手のひらを見下ろしながら、赤く擦れた哀れな皮膚に浅いため息を一つついた。
「自分やったらすぐ戻るやろ」
既にコンタクトを外し、硝子越しにふうわりと笑う城島の鼻先も、日焼けのためにほのりと赤い。
「貴方に慰められるっていうのもなんだかねぇ」
「慰めとるんとちゃうけどな」
そういうと、伸ばした手が遮光カーテンに触れた瞬間、僅かに、眉を顰めた。
「シゲ?」
「僕は慣れんなあ」
そう、きゅっと片頬を窄めるように歪めた口元が苦笑に似た笑みを描きながら、きゅっと拳を握りしめたが。
「あなた、この手」
有無をいわさぬ強さで、ぐいと掴まれた手首とじろりとねめつけ眼に、渋々と言った態で手のひらを開くその様は、どこか悪戯が見つかった幼子のような表情だ。
「しゃあないやん」
我等がドラマーのお株を奪うかのようにぽてりとした唇を僅かに尖らせて、俯き加減の眼が苦笑ぎみの山口の表情を伺い見る。
この間のな、ハリセンボン引いた自転車は予想しとったより重かったし、飛び込みんときかて縄登ったし、それに今日やろ、と今日新たに刻み付けたであろう固くなった皮膚を破くようにして重なる赤い豆を見下ろして、しゃあないやん と もう一度呟いた。
「けど」
と、山口はその手のひらを指先でするりとなでる。
ごつりと肉が盛り上がるそれは、まるで節々に肉がついた労働者の手だ。
確かに、男である城島の手は、もともと華奢な手ではない。それはわかっている。でも、この人は、ギタリストなのだ。その張りつめた肉も堅い筋も、弦を弾き、押さえるためのもののはずで、こんな風に、力仕事をするための手ではないのだ。なのに。
「ごめんな」
「何謝っとうんよ」
思わず、零れた言葉に、城島がきゅっと眼を眉月のように細めてくっくと笑う。
「そんなん仕事やねんし、自分のせいやないやん」
「でも、力仕事は俺の担当じゃん」
「DASHは僕らの看板やで、そんなん誰かが出られへんかったら、ほかのメンバーがそれを補う、そんなん当然のことやんか」
何言うとるの?と笑うその表情に屈託はない。
だが、と山口は、ゆるりと指でその掌をそっと慰撫するように握りしめた。
分かってはいるのだ。理性では。
それでも、エアチェックができず、録画していた番組を見た時、なぜ、自分はここにいるのだろうかと疑問に思った。目の前の小さな画面の中では、城島と国分が見ているこちらが不安になりそうな程、疲れきった表情で、それでも、その手を、足を休めることなくがんばっているというのに。首にタオルを掛けた寛ぎきった状態で、麦酒片手にテレビのリモコンを弄んでいる現実。
「けどさ」
そう、本当の体力勝負は、当然のように自分や松岡や長瀬が主に受け持っていたのだ。
レギュラー番組を持ち、ドラマに主演して、ただ単純に喜んでいた自分のつけをこの人が負うことになるなどと、考えてもみなかった。
すっかりしょげ返ったように頭を垂れてしまった山口の姿に、城島は少し呆れたような笑みを頬に浮かべると未だ手をしかりと握りしめたままのその甲にぽんともう一方の空いた手を被せて、ぽんぽんと宥めるような仕草で叩く。
「そしたら、今夜は自分の驕りな」
えっと思わず顔を上げた山口に
「今日も頑張ったしな、期待してええやろ?」
久しぶりやなあ、自分と飲むん と嬉しげに綻ぶその横顔に、この話はこれで終わりという意味を言外に汲み取って、山口はほんのわずか口角を緩めた。
「言っとくけどさ、俺、明日も撮影だからね」
「心配せんでも、わかっとうよ」
もとより蟒蛇につきあえるほど強くあらへんわ と言う憮然とした面持ちに山口は、どうだかと小さく笑みを浮かべた。
こんな空気は久しぶりだった。
やっぱり飲む前に、下地入れなきゃ悪酔いするからね と城島お奨めのバーに行く前に、少し前に仕入れた店なんだよ、と少し自慢げな山口がつれていった隠れ家のような小さな居酒屋で、バカバカしい程に他愛のないことを話しながら、一つの小鉢に持った煮物を両方から箸でつつくようにして食べて、今日のロケのことや、少し前の撮影であった裏話、あん時なあ 長瀬がな、と最近増えた末っ子との撮影時のことを楽しげに話す城島の硝子の向こうでふわりと笑み毀れる眼に、つられるように山口が笑う。
画面の中で作られた笑顔ではない、僅かに空気を震わせるような柔らかな笑みが嬉しかった。
なのに、と山口は目の前に置かれていたグラスの中身を一気に煽るとスツールを滑らすように立ち上がった。
時々なあ、松岡もきとるみたいやわ と間接照明のみが頼りの足音を吸い込むような布ばりの階段を通り過ぎて、城島のとっときの一件なのだと軽やかなチャイムを鳴らしながら押し開かれた扉の向こう側。
通りすがりの人と軽く頭を揺らすだけの慣れた挨拶。軽く手を挙げただけで心得たようにグラスを用意するマスター。そこには確かに城島の好みそうな、そして山口があまり訪れることのない静かなしとりとした空間だった。
「一人で行きますよ」
この間も、トーク・バラエティ番組で、肩を上下に揺らしながら答えはネタでも嘘でもなんでもなく、あの男は、一人で飲むことを好むのだ。それは、長すぎる付き合いの中でいやというほどに知っている。だけど、今日、ここには二人で飲みにきたのだ。
一杯、二杯と酒がすすむうちに、ふいに音もなく立ち上がった城島を見上げて、山口は僅かに眉を潜めた。
それでも、トイレかもしれないと放っておいたのだけれども、待てど暮らせど一向に戻ってこないその人を探すように彷徨った視線の端にちらりと映ったのは、いつもよりも丸くなった背をこちらに向けて、ゆうるりと立ち上る紫煙を纏いながら、物憂げな面持ちで独りグラスを揺らす男の姿だった。
分かっている。あの人はそういう人だ。
誰といても、どこにいても、つと気が付けば薄い膜を己の回りにはり巡らせ、誰の目に見えない幾重もの壁を作り上げてしまう。
そして、その壁が生み出されていく瞬間、それを寂しいと思うぐらいの距離に自分達は立っているのだ。
「シゲ」
二度、囁くように呼びかけられた名前に、ん?と振り返る緩慢な動作と頬に散る朱がこの男の酔い具合を教えてくれる。
「ぐっさん?」
僅かに小首を傾げて、ああ、せや、自分と来とったんや と細めた眼に、ふにゃりと表情が綻んだ。
「どないしたん?」
「どないしたんじゃねぇよ、帰るよ」
その言葉に、確認するのは腕につけた大きめのアナログ時計。
「もう、こないな時間かあ」
しゃないなあ、と情けなさそうに潜められた眉と僅かに尖った唇はほんの一瞬。
「車どないするん?」
居酒屋の近くに止めたままの車のことを慮るぐらいの理性はあるわけね と城島の荷物に手を伸ばすと、ほら、と城島の背を叩いた。
「代行頼んだ」
「そうかあ」
もう一度、そうかあ と小さくつぶやくとしゃあないよなあ、とかりと指先を噛んで
「したら、気ぃつけて帰りぃや」
ほんの少し、表情を歪めるようにして小さく笑う。その表情が、どこか泣いているように見えるのは気のせいだろうか。
「何言ってるの?貴方も帰るんだよ」
ほら、と腕ををとると城島は、子供のようにいやいやと頭を振った。
「僕、まだ、飲みたいん」
その幼い仕草に山口は、はあと深いため息を一つつく。
「うち、来れば良いだろ」
「うちて?」
「俺の家」
やってぇ、 と語尾が伸びるのは心地よい酔いの所為だろうか。
「こんな貴方一人放って帰れるわけないでしょ、飲みたいならうちのバーで飲ましてやるから」
「ああ、テレビで見たわ」
ええ感じのカウンターバー作っとったもんなあ とまるで、初めて知った事を告げる子供のように邪気のない表情に山口は、こりと額を掻く。
「テレビで見たのが最初じゃねぇと思うけどね。とにかく、ほら、立って」
ぐいと差し出した腕に今度は逆らうことなく、ふらりと立ち上がり、
「ほな、ちょっとだけ待っとってな」
トイレ〜とゆらゆらと山口の手を離れたその背に、もう一度深いため息をついた。
「あの人いっつもあんな風なんですか?」
財布を取り出しながら、時間潰しのように山口は目の前でグラスを拭いていた男に声を掛けた。
「そうですね、あんな城島さんは初めてかもしれないですね」
「初めてって」
「あの方はいつもリーダーですから」
その言葉に山口は訝しげな声になる。
「それはどういう?」
酔い覚ましのためか、フルート形のグラスに注がれたペリエをありがたく受け取って、城島が座っていたスツールに腰を下ろした。
「どれだけ召されても、周囲に気を使われることをけして忘れないと言うんでしょうかね」
誰に対しても同じように声を掛け、誰もが気分良く飲めるように、退屈しないようにと気を張りつめているようで とマスターは、白髪まじりの眉をゆるりと緩めるようにして口角をきゅっとあげるようにして笑みを形作った。
『リーダーはマジックが始まれば良い感じに酔っている証拠』とラジオで、城島と一緒にパーソナリティーをしている女性が話していたか。『すごいんですよ、飲みにいってもリーダーはリーダーなんです』そう、嬉しそうな声で答えていたのは城島よりも10歳ばかり下のグラビアアイドル。
「ですから、あんな風に、同席しておられる方のことを気にせず、自分の世界に入られることなど滅多にない」
だから、驚きました と向けられた視線に、思わず山口は顔を反らした。
「でも、松岡とかも、来てるんでしょう?」
「ええ、確かによく一緒に飲んでおられますけれど」
その語尾に含まれた意味合いに、自然に頬が緩んでいくのを感じて山口はペリエを一気に喉に流し込んだ。
「お待たせぇ〜」
何と言うべきか と考えている背にかけられたどこか気の抜けるようなその声に、助かったとばかりに立ち上がった山口の耳に届いた
「良かった」
そう、呟くような声に思わず振り返ったが、山口の目の前にいるのは、先刻までとなんら変わることなく、アルカイックな笑みを浮かべ、グラスを磨き続ける初老の男がいるだけだった。
「どないしたん?」
二人分の荷を持ったまま、動きを止めた山口の背にかけられた訝しむような声に、慌てて頭を振って
「なんでもないよ」
そう、どこかふらつくような足取りの城島の背に腕を回した。
一人を好み酒を飲むこの人が、誰にも邪魔されることのない自分の部屋ではなく、バーへ行く理由など、本当はとても単純なのかもしれない。
「なあ、何があるん?」
焼酎だけやないやろなあ とふらふら歩く城島の
「心配ないって、この間松岡が持ってきた酒も残ってるしな」
なんやあ、松岡とは飲んでるんやあ と拗ねたような口調は、大人びた、否、老成したといった方が正しいか、そんな城島が、他人に見せることのない隠された一面。
一人を好むくせに独りが苦手な寂しがりやで、他人が苦手な我侭な男。
「ほら、拗ねてないで自分の足でちゃんと歩かないとここに捨ててくからね」
「歩いとうわ」
そんなあなたが無防備になれる時間を生み出す一環に自分がいられることは嬉しいけれど、と山口は、ほらと城島の背をぱんと叩く。
それでも、一緒にいる間ぐらいは、他の誰かではなく、自分の傍に居て欲しいから、
「今度さ、貴方の好きな酒、一緒に買いにいこうぜ」
この人が自分だけの空間に入り込んでも、誰にも邪魔さない空間を生み出すために、あれこれと考える自分のホームバーに、城島好みの酒が並ぶのも、そう遠いことではなさそうだと山口は、薄い笑みを浮かべた。