ピバリピバリと小さな山間に響く甲高い声は春告げ鳥。
透き通るように高い空の中、ぽかりと浮かぶは白い雲。
うららかな日だまりは、翠葉を映しながらも幾重にも渦巻く金の色。
ああ、穏やかだ。
春は張ると言ったのは誰だったか。
春は張る、全てのものに新たな命の力が張り巡らされる力強い季節。
時折、風の声に重なる音は長閑なまでのヤギの声。
どこかではしゃぐ子供のような声さえ、眠りを誘う子守唄。
こういうのを至福と呼ぶのかもしれない。
やんわりと視線を俯かせながら、手の中の茶を啜りながらほうと淡い吐息を一つつく。
ゆうるりとけぶる世界に揺れるは儚いまでの薄紅。
村と桜と進化論
じゃり、と固い地面の上に散らばる砂を踏み潰すような音をたてながら、首筋に巻いたタオルでぐいと汗を拭う。さほど重くはないが、それでもゆうるりとマリンスノーのように溜まった朝からの疲れを表すかのように、容赦なく肩にずしりと食い込むのは鈍色に光る歪に歪んだ鍬の柄だ。これとて市販されている今時のもの、はたして今時鍬が普通に売られていると仮定して、ならばもう少し軽い作りになってはいるのだろうが、如何せん、自分達で見よう見まねで鉄を叩いて作り上げた一品もの。そんな人に優しい仕様にはなってはいない。
「お帰り、ぐっさん」
寒の戻りと言うのだろうか、春の終わりすらほど遠いひんやりとした青く乾いた空気の中で、汗をしとどに掻く相棒の姿に、苦笑を交えながらも城島が出迎えるように顔をゆっくりとあげた。
「ただいま、っと貴方、休憩中?」
どしり と縁を軋ませるように隣に座り込んだ山口に、まあなあ、と城島は曖昧に答える。
「果樹園の方、撮り終えたから休んで下さいて言われてな」
と、どこか言い訳がましく続く言葉の裏に、除かせるのは不満げな色。
「仕方ないんじゃね、ここんとこ、特番とかで、オフなかったしさ」
スタッフも心配してんだよ。 と片膝をもう一方の足に乗せると、漸く落ち着いたといった風情で、ふうとため息をついた。
「自分、一人なん?」
傍らの盆を引き寄せると、こぽりと音をたてながら、慣れた手つきで丸っこく背の低い素朴な素焼きの湯飲みに茶を注ぐ。
「戻ってくる時にさ、北登つれた安部ちゃんにあってさ」
ついと丘を描くように動いた指先に、ああ と頷いた。
「元気やなあほんま」
まあ、一服し とやんわりとした微笑を口元にうっすらと浮かべながら縁の後ろに下げてあった円座を引き寄せる。
「あなたさあ、今誰の母親だよって顔してたよ」
「母親てなあ、僕、子供生んだ覚えはあらへんで」
「育てた記憶はあるんじゃね?」
差し出された円座に素直に腰を下ろすと、ん〜っと軽く伸びをする。途端にぎしりと悲鳴をあげるのは、年より若く見えても、そこはまあ、三十路を超えて幾年かを数えるTOKIOの年長の一人だ。
たっぷりと注がれた茶から立ち昇る香に鼻先をくゆらし、山口はその表面に浅く息を吹きかけながらも、一瞬飛んだ熱の隙間を縫うように、ずずっとそれを一口啜る。ふうとあたたかな空気が臓腑を抜けて、思わず毀れるのは安堵のため息。
その横でこりりと城島の歯の隙間で小気味良い音を立てるお茶請けは、城島自身が漬けた紫蘇の守口大根だ。粕漬けや糠漬けよりもあっさりとしたこれを山口は特に気に入り、休憩する時には必ずこれを好んで食べることが多い。そして、今も、
「でさ、貴方は何に黄昏れてたわけ?」
こんな真っ昼間から、とこりと小気味良い音が周囲に響く。
「黄昏れてへんわ、情緒に浸っとうとか感慨にふけっとうとか、ほかに言い方あるやろ」
そ? と眇めるように向けられる視線に、そ知らぬふりで城島も軽く唇を尖らせるように二杯目の茶を啜る。
「お」
二人を包み込むように走り抜けた春風が巻き上げた砂塵に、揃って瞼を伏せたのは一瞬だった。
「見てよ」
ざわりと揺れた枝から、ふうわりと舞い散るは、雪よりも濃い紅を纏う儚い花びら。
「茶柱ならぬ桜茶やな」
例年にない暖冬と、遅すぎる冬の声によって、咲くことすら危ぶまれたサト桜が一枚、山口の手の中でゆらりと揺らいでいた。
「そういえばさあ、こういう企画やったよなあ」
桜の花びらを杯に受けてそれを酒と一緒に飲み干す奴 趣味と実益をかねた企画だったとゲラゲラ笑う。
「さすがに一回だけだったけねぇ」
「桜いうたら他にもいろんな企画あったわな」
北と南から桜前線を辿って、出会うことができるかという途方もない企画もあった、と城島も呵々と笑ったが。
「シゲ?」
「なあ、ぐっさん、僕ら、この桜、後何回ぐらい見ることができるんかな」
と、枝葉の先からすり抜けるようにこぼれる青を見る。
「貴方、そんなに老い先短かったっけ?」
「アホ」
思わず返した茶化すような台詞に、こつりと頭上から落ちてきた拳は、音の割には痛くはない。
「俺らが頑張ってる間は見られるって」
その言葉に、やけどなあ、と頼りなげに小さく口角を緩めてみせた。
日本の地図上にDASHの名前を残せるか、と始まったはずの、村作りの企画。
そう、これは仕事の上の企画の一つに過ぎない。
「いくら僕らが頑張ったかて、番組が終われば、否応無しに村はなくなるやろし、番組が続いても、企画が打ち切りになったらそこまでや」
僕らにはどうすることもできん と。
「けど」
「悲しいけど、それが現実や。この村が地図に乗ることは未来永劫あらへん」
それははじめから分かっていることだ。
この村は、ドラマを撮るために作り上げられたロケ現場の街と同じこと。ロケが終われば、風に揺れる緑の木々も、目の前を流れる小川も、全てが蜃気楼。
ライトが消えると同時に呆気無く霧散する。
「けどなあ、ロケで作られる町並みはそれでええかもしれへんけど、この村の生き物や作物、桜の木はどないなるんやろうなあ」
城島がここを初めて訪れた時、驚くほど自然に包まれた地だと思った。だが、いざ、開墾するために足を踏み入れた自分達に指し示された土地は、無闇矢鱈にぼうぼうと草が生え、本来ならば豊かであろうはずの地下水は、ちょろちょろと哀れなほどの水量でしかなかったのだ。
曾ては人が住んでいただろう屋根の崩れ落ちた朽ちた家、かさかさと水気一つない大根一本は得ることのできない枯れた田畠。それまで、人の手が入らぬ方が自然は豊かなものだと信じていた城島にとって、軽いショックだったのを憶えている。
「僕らがおらんようになったら、また、この桜は咲かんようになってしまうんやろうか」
「だったらさ、やっぱりいなくならないように頑張るしかないじゃん」
空になった湯呑みを盆に返して、山口は、からりと笑う。
「この村だってさ、俺たちが初めてここに来たときとは全然違うんだぜ」
自然の揺れ一つで変わりはするが、それでも、作付けの準備を終えた目の前の田には豊かな水が光を放ち、ロープでぐるりと守られた畑には、青々と今年最初の作物が植わっている。
ごとりごとりと回り続ける水車の音は、去年の実りのを糧へと変えるための石臼が回り、メダカ一匹いなかったため池にはモリヤマガエルが小さな水掻で水を切り、山際の小さな小川には銀の魚影が水面を揺らす。
「一つ一つがさ、俺たちの足跡だし、この村が成長し続けてる証じゃん」
希望だけを握りしめた何も持たぬ赤子が、よちよちと歩き出しやがて二本の足で駆出すように、この村は成長し続けているのだ。
「俺らもさ、それに負けないようにどんどん新しいことをやってけばいいんじゃね」
ほら、と足先が触れた鍬ががらりと音を立てて大地に横たわる。
「銅も作ったし、土も焼いたし、鉄も叩いて」
「この間は硝子も作ったわな」
そうそう、と軽い相づちに、おんと小さく笑う。
「そうやって、進化してくんじゃん」
俺らも、村も。
「けど、そう言うて、面白い企画、人を引き付ける企画やて、僕らは間違えんとやっていけるやろか」
「シゲ?」
「やて、はじめは良かったで、人間が生きていくための最低条件を揃えていくだけやった」
食を求めて田畑を開墾し、住を求めて家を建てた。
暖を求めて炭を作り、衣を求めて綿花を紡いだ。
「けどな、銅を鋳造して、鍬や言うて鉄作って、硝子に焼きもんやて」
求めるものは豊かさと楽。
「 僕らは間違えんとちゃんとこの村育てていけるんやろか」
触れる自然が優しければ優しいほど、襲いくる風雨が激しければ激しいほど、この村の中に息づく命の重さを痛感するのに。
求めるものは視聴率と華やかさ。
そこに歪むことのない道はあるのかと。
「なんだ」
「ぐっさん?」
よっこらせと立ち上がった山口が太陽を背にくるりと振り返るとどこか情けない表情の城島を見下ろした。
「あなたそんなことうじうじ悩んでたんだ?」
「そんなことて」
思わず片膝で立ち上がった城島に、向けられたのは彼が背負う太陽よりも明るい満面の笑み。
「だってさ、今さらじゃん」
そのまま、山口の言葉に思わず腰をあげた城島の腕を勢い良く引っ張り上げる。
「いろんな間違いとか経験してきた俺らよ」
多分、おそらく、確実に。
J事務所に所属して、無事にデビューを迎えることのできた他の奴らと比べて、自分達が経てきた道の蛇行はその比ではない。
「けどさ、それでも正しいって思う道を探しながら歩いてきて、今があるわけじゃん」
「せやね」
「だったらさ、大丈夫なんじゃねぇの?」
とんと伸びた手が、桜特有のざらりとした幹に触れ
「はい?」
ゆっくりと見上げる先にはほろりと揺れる桜色。
「村企画が始まったときから、何がこの村にとって一番いいかを考えて、今まできて」
これからもそれを模索してくんでしょ と、どこか惚けたように自分を見つめる琥珀の瞳に、片目をつぶる。
「だから、小さな間違いはこれからもするかもしれないけどさ」
先を怯えず、今、何が必要かだけを考えて、自分達は進化し続けてきたのだ。
「それが今の俺たちで、今ここにある村なんじゃないの?」
今の幸いだけを良しとせず、明日に続くものが今だから、未来を拒んだその瞬間に自分達の進化はそこで終わるのだ。
そしてそれを誰よりも知っているのは、目の前で困ったような面持ちを隠せずにいる城島自身。
「自信持ちなって」
「せやね」
とんと山口の手が触れる幹よりも少し上に城島の手のひらが触れる。
「決まってへん先を今からぐだぐだ悩んどってもしゃあないわな」
来年もこの桜の花を見るために、今できることをするだけ。
「そういうこと」
それが明日に続く新たな一歩になる。
そして、止まることのない進化を続けるのだ。
「よっしゃぁ、おっちゃんは、頑張るでぇ」
「や、それは、そこそこでいいから」