両足をぶらりと揺らしながら、眼下に薄く広がる街を見る。
眼下、といっても、見上げる世界の方が多すぎて、何処が上かしたかさえも判らない。
不思議やね。
とっと慣れた仕草で取り出した煙草を口端に銜えるとジーンズのポケットの奥を探るようにして引っ張り出したのは、カラフルな半透明のおまけのライター。
あんた、仮にもアイドルなんでしょ、いつだったか、家鴨口の男の前で取り出したそれに、あからさまに顔を潜められたことを思い出す。
アイドル言うたかて、ま、所詮こんなもんやね ときゅっと上がった口角が月より細い笑みとなる。
どこまでも青い雲一つない空と称すべきなのかな と山口は、目の前の建物に沿うようにして見上げた空に苦笑を浮かべる。
東京では、これでも珍しいほどに澄んだ空かもしれないが、己の住う、ほんの僅かこの大都会から西へと離れた海沿いの街や、フィールドワークのように定期的に通う南東北の彼の地と比べたならば、どことなく白くけぶった頭上の色彩。
春霞と言えば、言葉も美しいのかもしれないけれど、と口角をきゅっと引き締めると、音もなく開かれた硝子のドアの中へと足を踏み入れた。
嫌煙家というものが大流行りであり、『禁煙』という二文字が広い世界を我が物顔で闊歩している昨今、大勢の人間が出入りをするここテレビ局もその世間の波に押し流されるのは当然のこと。とは言え、昔から、制作と言われる事を生業とする者の多くは、何かに息詰まると何くれと煙草に頼る輩が無闇に多いのが現状だ。
まあ、学生の頃からそうやって制作してきているのだから、社会人になったからといって、今さら世情に流されたと言って辞められることではないのかもしれないが。しかし、そんな彼等であっても、時代の流れを曲げることはできないらしく、そこかしこにぺったりと張られた『禁煙』の文字やマークと、それに付き従うように戸口の影や木々の枝葉に隠されるように作られた喫煙スペースは、いつ訪れても大にぎわいとなっている。
そして。
「おはようございます」
今日も飽きることなくそこにたむろっている人々に軽く頭を下げるように挨拶を繰り返しながら山口は玄関脇ロビーを通り抜けると、そのまま正面奥のエレベータのボタンを押した。
やっぱり、居なかったよな
車を停めにいったマネの訪れを待つ事なく、軽やかな音をたてて開いた四角い小さな箱に山口はするりと乗り込んだ。珍しく一人だけになった空間に、自然、思考がほろりと音になるが、それに気付くことなく、今日の仕事の相棒である男のどこか物憂げな横顔を思い出して、軽く肩を竦めると山口はそのまま背中を冷たい壁へと押し付けた。
居るはずもないか。
確かに、全館禁煙命令がここかしこのテレビ局で叫ばれはじめた頃は、灰皿を求めて右往左往していたご同輩と肩を並べるように、我等が愛すべきヘビースモーカーである城島も、どこにいけば良いのかと彷徨うよりは、とどこか諦めたような面持ちで、申し訳無さげに置かれた小さな灰皿と黒いビニルのソファに座った姿を見かけることは多々あったけれど。
だが、元来、彼は潔癖性の気来があるのだ。今の彼を見て、それを信じる人は多くはないとは思うけれど、あくまでも彼等が知るのはテレビ用の彼の一面。
三つ子の魂百までも ではないけれど、幼き頃に育まれた性癖がそう簡単に治るわけもなく、メンバーだけが騒ぐ楽屋でさえも彼は一人で時間を過ごすことを好むことが多い。
そんな彼が、不特定多数が集う喫煙所を好むはずがない。ましてや、目上の人に対する礼儀や周囲の人々への挨拶に対して、彼は人一倍うるさい性質だ。
あんなあ、『おはようございます』と『ありがとうございます』何があってもこの二つだけは忘れたあかんで。この魔法の言葉が人間関係を円満にする秘訣なんやで、そう、まだ物事の道理がわかっていない幼い長瀬にまで、事ある毎に言い聞かせていたぐらいだ。まあ、そんな教育の賜物か、長瀬が神主の新年の挨拶に、思わず『ありがとうございます』と答える大人が育ったのは、とりあえず横においておくとして。
再び、甲高い音とともに開かれた扉の向こう側から差し込む昼日中の眩い光から逃れるように覆った手のひらの影で、山口は形の良い眉をぎゅっと顰めた。
まさに言葉どおり、時間に追われるような仕事と仕事の合間に、ふっとできる小さな時間。疲弊しきった張りつめる息をほとりと吐き出すほんの束の間許された憩い。
じりと白い紙を焼きながら、淡い紫煙を燻らせる至福の時に、何故に他人の間に好き好んで紛れたいと望むだろうか。確かに、カメラが回っている時よりも業界人の前に居る時の彼は格段に口数は少なく、どこか控えめですらある。それでも傍らに見知った誰かが訪れたなら、挨拶の一つは交わすだろうし、他愛もない井戸端会議を避けることはできない。
疲れを癒すために煙草を求め、反して、その時間が彼の神経を磨耗していく。
TO KI O 城島・山口様 と書かれた楽屋の扉をノックもせずに勢い良く押し開けると、山口は中を見ることもなく鞄を傍らのソファへと投げ出した。
ごうと渦巻く風がビルとビルの谷間を走り、高すぎる摩天楼に遮られ行き場のない陽光が灰色の石を僅かに照らす。
高いところは得手ではないが、風につられたのか、何となく凭れた鉄柵の隙間を縫うように立ち昇るのは煙草の紫煙。あまりにかけそないそれに、煙を吐き出した己の姿が微かにだぶり、ほんの少し大きめに開いた唇から、ほうと吐き出されるのは淡く広がった吐息の欠片。
頭上から降り注ぐ太陽の恩恵に厚めの上着を羽織った腕はじりりと灼けて、冷えきったコンクリの上にぽてりと投げ出した両足と尻はじんじんと痛い。
ほんまアンバランスやなあ そうごちると指先に挟まれた半分以下の短さになった煙草を銜え直した。
この笑えるほどの機械化された時代の中において、無駄に高い建築物の一番上にまで届くエレベーターは存在しない。否、最上階まで一気に上がる四角い箱で、上り詰めた場所から後1階分足りないだけなんだけどさ、とぎしりと床を一つ軋ませながら、軽い足取りで段を飛び越える。
普段、こちらが口を酸っぱくするぐらい動けと騒いでも、ロケであんだけ動いとうからこれでちょうどええねん 等とのらりくらりと躱しながら、インドア派を貫き通す彼。
だが、中途半端に出来た空き時間。どこまでも澄み渡る青空。そして禁煙だらけのテレビ局、ときたら、あの人が大人しく楽屋になんて座っているわけがない。
「やっぱり、ここにいた」
近代的な建物の中、ここだけが忘れ去られたかのような重たすぎる鉄の扉によって阻まれた向こう側は、彼の世界のように頑に外界を拒むような風が吹く。
「なんや、自分か」
風に流されながらも耳に届いたどこか弾んだ声にも、城島はじろりとねめつけるように視線を動かしただけだ。モニター越しに見ることができる『おかん』と称されるような温和な表情はその中には欠片も見ることができない。
だが、いつもより低めの声も気にする風もなく、取り繕う振りさえしないそのどこか憮然とした面持ちに、山口は軽く口角をあげてみせた。
「なんや って随分ご挨拶じゃん」
そういいながら、右のポケットからぐいと引っ張り出すように差し出したのは、通りすがりの自動販売機で買ってきた深みのある赤い缶のレモンティー。
それを黙って受け取ると振り返りもせずにぷしりとプルトップを開ける横顔に、山口は苦笑を浮かべながらもその隣に腰を下ろした。そのままこくりと傾ける城島に倣うように、もう一方のポケットからは、黒い小さな缶のブラック・コーヒーだ。
「あったか」
不機嫌そうな表情を崩すこともなくぽつりと零すと、小さく肩を落としてみせる。
それでも、と思わず緩みそうになる頬を隠すように、傾けた缶から勢い良く流れ出したコーヒーをこくりと飲み込んだ。
そんな貴方の態度が嬉しいと思ってるなんて、貴方はこれっぽっちも気が付いてないんだろうな と。
アイドル事務所の中では最大手と言っても過言ではない会社に所属はしているけれど、この人は周囲が思っているよりもずっと苦労人なのだ。
事務所に入るまでのバックボーンもそうだけれど、仮にも芸能人というレッテルを貼られてからも、この人の前にあった途は、とても前途洋々等とは言えるものではない。
雨後のタケノコのようににょきにょきと育つ10代デビューが当然のアイドル予備軍達。なのに、成人してもデビューという言葉の欠片さえも見えない今日を過ごす日々。
『財布の中身が2円やったこともある』と少し情けなさそうな表情に苦笑を交えながら話していたのは、太一の番組にゲスト出演したときのこと。そして、それは嘘でも誇張でもない現実の話だった。
まあ、なんだかんだあった後、 結局はデビューはできたけれど、それまでの最高齢デビュー記録を城島はあっさりと塗り替えた。まあ、彼がいなければ、塗り替えたのは山口だったかもしれないが。もっとも後すぐ、後輩と呼ぶべきか、同僚と呼ぶべきか微妙な存在である某グループのリーダーによってそのありがたくない記録はいとも簡単に書き換えられてしまったけれど。
出会った時は、人のぬくもりの残る椅子には座れない潔癖性、その上、無表情で自分の感情をあまり外に出さない見えない人。なのに、デビュー前、そして某事務所のアイドルとしては異例なほど売れなかった数年間の間に、この人は自分自身を変えることを選んだ。上には大人しく頭を深く垂れ、周囲の人とは軋轢が生まれぬようにと柔らかな微笑を覚え、自分の我をを抑えることをこの人は自らに課したのだ。
「頭を下げて、大人しく頷くことで仕事が貰えるんやったら楽なもんやろ」
そう言って、自嘲気味な笑みを唇元に張り付かせて。
そうして、いつしか周囲の彼に対する印象は、人の笑いをとろうとする三枚目アイドルという不思議なイメージと、温和でいつも穏やかな笑みを浮かべている良い人になっていた。
嘘つきだよな。
山口を気づかう風もなく、新しい煙草を銜える細面の横顔に、思わず零れそうになった言葉を珈琲で喉の奥深くに流し込む。
「今年は良かったね、暖冬でさ」
代わりに舌の上にころりと乗せた言葉に、城島は、あ~っと低い声で否定を返す。
「確かに、今年も村とかは大変になりそうな予感がするけど、安心して煙草を吸える場所が確保できたじゃん」
去年は足をばたばたさせながら吸ってたもんね、寒がりの貴方がここで、と続けると、意外にも跋が悪げな表情を一つ浮かべて、煩いわ と横を向く。
「良い天気だし、まあ、ここでも十分に癒されるんじゃね?」
「あんなあ、そう思うんやったら、自分、なんで邪魔しにくるねんな」
ったく、ほんまうるさいやっちゃ とがりりと整髪前の髪を多少いらつくようにかきあげて、それから、はあ と溜め息をつくと、しゃあないなあというような表情で茫洋とした空を見上げる。
「ほんま、自分ぐらいちゃうか?」
「何がよ」
それを真似るように、山口も両手を背後につくとゆったりとした仕草で城島の視線の先をおいながら薄い青空を見上げた。
「機嫌悪いてわかっとって、僕の横におるん」
「他の奴らだって平気だろ」
「何言うとんの、あの子ら、すぐに傍から消えよるわ」
よっぽど、居心地悪いんやろなあ と軽く上げられた口角に薄らと浮かぶ自嘲的な笑み。それはいつか見た、あの微笑にも似て。山口は呵々とやけに明るい笑い声を響かせた。
「貴方、肝心のところで鈍いよね、まじ」
「なんやの、それ」
漸く、山口へと向けられたそれは先刻までの排他的な色は消え、拗ねたような口調の混じるどこか、幼めいた表情を滲ませている。
「長瀬はさ、貴方がだんまりを決め込むから、ただ単純に詰まらなくなるだけだし、松岡は貴方のこと気づかって距離をとるだけじゃん、太一にいたってはとばっちりを受けたくないから素知らぬ振りを決め込んでるんだろ」
「ほな、自分はどないやの?」
「俺?俺は別にいつもと変わらないでしょ?」
話したいから話しかけるし、どうでも良かったら放っておくだけ、とにこりと笑みを浮かべると途端に返されるのは本のわずかな戸惑いと、剥れたような表情。
でもほら、煩いと文句を言いながらも、貴方は俺たちを消して疎ましいとは思わない。いつだって、傍に居ることを黙って許すのだ。それに、どんなに不機嫌でもひん曲がった唇を見せられても、それを嬉しいと思いこそすれ、誰も居心地が悪いとは思いはしない。だって、それは、心をほんの少しでも貴方が許してくれている証だから。
作り笑いをしなくても、擦りたくもない胡麻を擦らなくても、誰も貴方から離れたりしないと貴方が無意識に信頼してくれているのだと、教えてくれるから。
だから、ここに来るのだ。
特に用事があるわけでもなく、掛けた言葉に返ってくるものがどれほどぞんざいな態度だったとしても、その瞬間に与えられるほんの少しの優越感を感じたくて。
「よっしゃぁ」
2本目の煙草を吸い終えたらしい城島が、声とともに勢い良く立ち上がると、ぱんと尻についた埃を払い落としていく。
「ニコチンも補給したし、そろそろ戻ろか」
「え?もう?」
この心地よい日だまりにもなんの未練もなさそうなその顔を見上げて、山口は思わず唇をヘの字に結んだ。
「もうって、自分何しにきたん?そろそろ、撮影始まるんちゃうんか?」
その声は、もういつもと変わらぬ彼のもので、ちぇ と何故か寂しさが胸の奥で小さく声を上げる。
「ほら、自分も早よ来ぃや、どうせマネージャーほってきたんやろ?」
だが、ほとりと声とともに向けられたやんわりとした笑みは、モニタ越しのものよりも一段柔らかくて。
「ああ、せや、紅茶おおきにな」
美味かったわ とくるりと向けられた背中越しに、ひらひらと揺れる薄い手の甲。
なんだ、 と山口は小さく笑う。
貴方の傍に居ることに、なんだかんだと御託を並べ、こんなところまでやってきて、見もしらない誰かに向かって、どうだ と自慢するように胸を張る。
そんなものは、ここに来るために自分の頭が無理矢理くっつけた理由付けに過ぎないんじゃん と。
だって、空はどこまでも青く、春先というのに頬を撫でる風の手はどこまでも優しくて、柔らかい暖色を思わせる日溜まりと貴方の傍がただ居心地が良いだけ。
跳ねるような勢いで立ち上がると山口は、扉の向こう側、埃っぽい階段を下りきった踊り場で、笑いながら待っているだろう笑みに向かって走り出した。
ただ、それだけなのだと。