Taichi & Nagase

桜の花の咲く頃に

-->
今年はダメかもしれねぇなあ
空気がすぅすぅと漏れるような声の主は、傍らの幹をとんと叩きながら、少しかすれた音を立てながらそう呟いた。
そのすぐ横で、白いタオルをきゅっと頭に巻いたえんじ色をベースにしたチェックのコーデュロイを羽織った横顔が、やっぱりあきませんかあ とどこか間延びをした口調で答える、ほんの僅か、反り返った無防備な首筋がやけに寒そうに見えて、国分は、はあと小さくため息を零した。
 *****
こう言うのを、透き通るような青空と言うのだろうか。
すこんとどこまでも深い青さが広がる空を見上げながら、程よく日光に照らされてほんわりとした温もりを残す縁側に腰を下ろしたまま、国分は長靴に突っ込んだままの足の上に両肘を預けると見るともなしに広く開けた情景に、眩しげにまばたきを繰り返した。
去年の今頃ならば、眼下一面白一色に染められていたはずの山間の村の風景は、淡い緑と隠しきれぬ土色そこかしこに見られ、日のあたらぬ家の裏や、山の斜面などに雪の姿を残すのみという、春の兆しが見え始めるだろう一か月後の景色が広がっている。
確かに、ほかのメンバー、特に年中夏男である一名を除いても、よりも抜きん出て寒がりらしい国分にとってはこの冬は非常に過ごしやすい年である。
冬の初めの頃は、やっぱり肉体改造のお陰だよな、全然寒くないもん と薄っぺらな胸板をぐいと突き出して、ぽちりと作ってみせた小さな力こぶに、
「あんなあ、太一、多分それ自分だけやないで。日本に住む世間様み~んな、そう思てはると思うわ」
と苦笑を浮かべ、かくいう僕も、とわれらが年長者がいつもよりも上着が一枚少ない状態の自分を指差して見せていたなあと顔を顰める。
確かにそうなんだよな、とその時の城島の、何故か申し訳なさそうな面持ちを思い出しながら、ふわと浅い欠伸が自然とこぼれた。
いつもならば、手を切るような冷たい空気の中、ほとほとと凍ることを知らぬかのように流れ続ける冷たいはずの湧き水に、逆に暖かみを感じるこの時節なのに、米を研ぐ水の温度は、今年は外温よりも低くて。水に触れる度に痛みを増し、がさりと乾いた皮膚がぶわりと赤く染まっていくのを見るばかり。
「まじ、あったかいっすねえ」
まだ、カメラが回っていないのを良いことに、のんびりと日向ぼっこをしていた国分に、春先に生まれた子犬のようなはしゃぎっぷりで、こちらはすっかりと大人びた風情の北登と村の果樹園辺りを走り回ってきた長瀬が軽く肩で息を繰り返しながら、ふぃと額にほとりと浮かんだ汗を手の甲でぐいと拭ってみせた。
「雪なんて全然ないんすよ」
そのくせ、雪がない事にどこか詰まらなそうになる口調に、国分は薄らと笑みを浮かべる。
「まだ、2月なのにな」
靴で踏み締めるとザクザクと気持ち良い音をたてる乾いた大地は土色で、7年目にしてようやく歩きなれはじめた雪路をおっちらと上肢を揺らしながら気を張るようにして歩く必要もないのだ。
そういえば、国分に負けず劣らぬ寒がりで、平素から前のめりになる背を一層きゅっと丸めながら、ともすればすぐに足が取られてしまう雪中を、まろびそうになりながらも一所懸命といった雰囲気を醸し出しながら器用に歩く猫背を今年は一度も見ていない。
まあ、と安部が入れてくれた茶をずずっとすすりながら、その温度差のためか、わずかに白くなった息を吐き出した。
何に忙しいのかわからないけれど、あの人が去年に比べて村への出没率が低いというのも原因の一つではあるよな、とくるりと大きな眼を細める。
「梅の花、もうすぐ咲くって明雄っちが」
そんな国分の様子に気付くことなく、厚手の軍手を嵌めたままの指が差す先は、先日、国分が上二人と眺めた春を呼ぶ花の植わる場所だ。
後数日 と聞いてから、春めいた日差しがほんの少し緩んだせいで未だ膨らみかけた紅が薄く花開く姿は見ていない。
「桃の花も大分大きくなってましたよ」
美味い桃がなるといいっすね 等のいとも暢気な上に、随分と気の早い台詞を吐く男を白目をむくような三白眼がじろりと睨み付けた。最もそれぐらいで怯むような短い付き合いではないが、同時に、国分が怒っているのだと気付くぐらいには、長瀬であっても学習はしている。
「桜」
だから、たった一語の短い言葉にも、跳ねるように返事を返すのは、身をもって覚えた自己防衛本能。
「いっぱい芽がついてましたよ」
まだ、ぎゅっと固いままのそれは、それでも茶色に近いその色に淡い桜色をほのかに帯びて、細い枝にぴたりとくっつくのは柔らかな緑を思わせる色合いをしていた と。
「どれぐらいで咲くんすかね」
まだ当分先、否、今年にいたってはそうとも言い切れないけれど、のことをどこか嬉々とした表情で眦をきゅっと緩めた長瀬に国分はふんと鼻を鳴らしてみせた。
「ばあか、これで寒の戻りでもやってきたら、全部死んじまうんだよ」
「かんのもどりってなんすか?」
「お前少しは日本語勉強しろよな。寒の戻りってのはな。春になってから、一時的に寒さがぶり返すことだよ」
「ええ!!!そんなことになったら、蕾どうなるんすか?」
「だから、今、言ったろうが。死んじまうかもしれないって」
全部死んでしまうんよ ふと自分の言葉に重なるのは、先刻から嫌になるほど、脳裏を過っている男の、どこかのんびりとした、だが、いつもよりも抑えられた城島の声だった。
「けどさあ、またあったかくなったら芽が出るんじゃないの?」
植物って結構そういうもんじゃないの? と紺色の分厚い作業用の上着を羽織り、両手を深いポケット一杯に突っ込んだ、自然背中が丸まった姿のまま、目の前で、ゆるりと桜の幹を撫でる城島を見る。
「大体さ、今、まだ、2月じゃん。今散ってもさ」
大丈夫でしょ、とゆるりと伸びをするのは、やはり冬らしからぬ暖かさに筋肉のこわばりが少ないせいだろうか、そのまま筋を伸ばすようにぐるりと回した首が奥の方でこきりと小さな音をたてる。
「せやね、この子ぉが元気な桜やったら、もしかしたらそうなるかもしれんけどな」
愛し子を見るかのような眼差しの柔らかさに、国分はただの桜だってぇの と口の中でぼそりと呟く。
「けどな」
そんな国分に気付いたのか気付かなかったのか、薄い笑みを口元に浮かべたままの城島が背後に佇む男を振り返った。
「今年の冬は暖かいからな」
「だったらさ、このまま咲いちゃうかもしれないし、大体、木枯らしに痛めつけられることもなかったわけだしね。逆に良かったんじゃない?」
ふいと上がった視線につられるように、追った先には、薄紅がかった茶色い、まだ頑なな小さな蕾。
「あったかいから、眠ってへんねん」
「眠る?」
「せや、これは、桜に限らんことやけど、冬は大地の眠りの季節や」
しんしんと降る雪花が、茶色い大地を覆いつくし、視界に広がる銀世界 と城島はゆるりとした仕草で雪のない世界を見回した。
そこにあるのは、きしりと歩く己の足の音だけが耳朶に触れる無音の空間。
「けど、そこにはちゃんと植物とかが生きとるんよ」
冬の切り裂くような風に身を震わせながらも、厚く降り積む雪という名の真綿を被り、温かな大地の下で、植物の根はもうすぐ訪れる春の声を待って眠り続けるのだ。
「冬が寒ければ寒いほど、桜はよう眠ることができるんよ」
せやけどなあ、 と額がこつりとかさついた樹皮に触れ、擦れた皮膚が赤くなる。
「今年はあったかすぎて、この子も、他の木も、ちゃうなあ、里山自体が眠ってへん」
臨機応変に対応する人間と違うて、自然は、地球の声に敏感やからな、
「咲かなかったら悲しむかな」
「リーダーっすか?」
頭の中を覗いたようなその言葉に国分があからさまなまでに眉を顰めて長瀬を見上げた。
「なんでお前、そこでリーダーが出てくるんだよ」
ったく、松岡じゃあるまいし と続いた言葉に、一瞬、目を瞠いた長瀬がげらげらと笑う。
「え~、だって桜の話してたじゃないっすか」
「確かに桜の話だったけどな」
「しかも、あれでしょ、サトザクラの事っすよね」
そしたら、やっぱりリーダーですよ って思いません?と逆に同意を求められ、国分はなんでだよ とむずがゆげに鼻先をこりと掻く。
「あれ、生き返らせるのに、リーダーすっげェ必死だったし」
「それは俺だって山口君だって同じだろ」
50年を過ぎ、長い間手入れのされていなかった老木を生き返らそうという企画の中、仕事という現実を半分忘れて、誰もが一所懸命あの桜の命を取り戻そうと頑張ったのだ。その頃はまだ、レアな存在でなかった松岡も、目の前で、国分の上に影を落とす男も同じだったはず。
「確かにそうなんすけどね」
でも、やっぱりイメージはリーダーなんすよね、老木だからかな とさり気なく失礼な暴言を吐いている末っ子の、あ、でも桜っていうか、村っていったらリーダーかなあ と一人で納得しているようなその彫りの深い横顔に、国分はいぶかしげな視線を投げかけた。
「村のイメージなら山口君じゃないのか?」
少なくと俺はそうだぞ、と縁側から跳ねるように飛び下りると、山口の手による作品ともいえる古民家を振り返った。
「確かに、村っていったら山口君が一番来てるし、すごい似合うんですけど」
でも、と国分に倣うように茅葺き屋根を見上げていた小首を傾げて、何かを考えるように指先が顎をゆるりと滑る。
「村の景色に馴染んでるのって、やっぱり、リーダーって気がするんすよね」
不思議なんすけど、とまだ一見枯れ枝のようなサトザクラを振り返る。
「一緒に来てるときは、当たり前なんですけど」
城島が一緒に居ない時でも、村の中をそぞろ歩くとそこかしこに感じるのは彼の息吹。
「村のこと、考える時もそうなんですよね」
太一君は違うんすか?そう逆に問われて、国分は、わずかに身じろぎながら眉を顰めた。
「俺は、別に」
「やっぱり、あれかな」
やっぱ、俺が変なんすかね と、男前と言われる表情をきゅっと歪めながらも、つとあがった口元に浮かぶのは、その面立ちからは遥か離れた幼めいた子供のようだった。
「ここがふるさとってイメージだからですかね」
横浜で生まれ、横浜で育った長瀬に、実家はあるけれど、所謂、田舎と呼ばれる場所はない。
それは、東京生まれの国分とて、あまり変わらないのだけれど。
「故郷?」
「だって、ここって本当に日本の人の原風景って気がするってリーダー、言ってたんです」
なあ、長瀬、ここは古き良き時代て言われた、ほんまの日本が息づいてる場所やと思わんか。
僕は、村におったら、ほんまにそう思う。せやから、ここは大切にせなあかんねんで。
「だから、D A S H村=故郷なんですよ」
だから、村に似合うのはぐっさんじゃなくてリーダーなんです。
「お前、その三段論法は、一見正しく聞こえるけど間違ってると思うぞ」
思うのだが、柔らかい笑みを浮かべ割烹着を着た、どこかおっとりした仕草の城島の姿は、やけにこの村にしっくりと似合うのだ。
「ま、わかるような気はするけどな」
都会の片隅のバーでグラスを傾ける姿が彼の日常スタイルで、ギターを持てばどこか蠱惑的な色香さえもただようようなギタリストに変わる城島の世界は、隔絶された深いモノトーンに満たされる印象がある。
なのに。
ほとりとした微笑を浮かべた彼が醸し出す淡い色彩は、春の日差しに包まれた少し青みを帯びた浅く眩いこの水彩画のような憧憬を思わせる。
不思議な人だよな と呟きながらつと思い浮かんだ言葉は、
「つまりは、田舎のおふくろさんってことか?」
傍ら口やかましく煩いわけでもなく、ただいつも傍らにいて、一歩引いた場所から自分達を見守ってくれている、そんな変わらぬ存在だから、自分達の心のよりどころである村とリンクするのかもしれないと。
なら、仕方がねぇよなあ ここかしこのこの情景に、城島の笑みが垣間見えるのは、と長瀬には分からぬほど小さな安堵をため息を一つ吐き出した。
「ね、太一君、桜、奇麗に咲いたら良いですね」
そしたら、リーダーもきっと喜ぶのに、スタッフの撮影戻ります という声に大きな伸びを一つしながらも、そう続いた言葉に苦笑が漏れる。最近、リーダーが苦手だなんだと世間様に吹聴して回っているくせに、何かあると彼の脳裏に浮かぶのも、やはり彼なのかと。
「そうだな、そしたら、弁当でも作って花見でもするか?」
「いいっすね」
リーダーの手作り弁当を広げて、顔を照らすはほのりと灯る花明かり。
気の置けないメンバーと明雄さん、そして村人の安部も入れて。
その頃にはこの番組内では、レアな存在になった松岡も少しは時間ができるかもしれないから。
「花、一輪しか咲かなくても、みんなで一緒に花見しましょうね」
仕事も社会も暖冬も、その日だけは全ての悩みを放り出して、ただ、心行くまで酒を酌み交わすのだ。
ああ、そうだな と頷きながら、国分も午後からの仕事の気合いを入れるかのようにぱんと膝についた土ぼこりを叩き落とした。
桜の花の咲く頃に、描き出される村の風景にまた一つ、ほとりとなじむは柔らかな春の日差しの彼の笑み。
Category

Story

サークル・書き手