そこを通りかかったのは偶然に過ぎない。
そう、ただの偶然だ。
譬えこの後、5人揃っての撮りがあろうとも、ここで彼を見るつもりはなかったのだからただの偶然だ、と、『あの男』が他の誰かと談笑している渡り廊下を睨み付けながら、国分は小さく舌打ちをした。
*****
穏やかに言葉を交わし、他愛もない相手の言葉を受け止める。
談笑、そう言えば聞こえは良い。
ああ、平和で良い事だね。
だが、相手に気づかれない程、微かに顰められた眉間の皺を見れば、ただ、今日の天気を語り合っている訳ではないのは一目で知れる。
揶揄されても、貶されても、やんわりと綻んだ口角は変わる事なく、ただ、ほんの少し困ったような色を滲ませた静かな瞳で相手を見つめて、怒りの鉾先を相手に向ける事等しない人。
なんでさ、 ぷくりと膨れた頬に、素直に怒りが滲む。
腹が立つなら怒れば良いのに、と彼の行き場のない感情を受け止めたかのように傍らの壁をがつりとけり飛ばしてくるりと楽屋の方へと背を向けた。
「よお」
「おはよ、随分と良い趣味だね」
振り返った視界の中に、突然現れた満面の笑顔に、あからさまに眉を顰めて睨み付けたが
「覗き見よりはましだと思うけど」
気にする事なく、くいと指し示す親指の先から頑に視線を逸らすと、視界を阻むように立っている男の脇をすり抜ける。
「覗いてなんてない」
ふ~ん と小さく口角を歪めてにやりと笑う山口に、ざわざわと波立つ感情が一層の苛立ちを引き起こしていく。
「随分不機嫌じゃん」
あの人絡み?言外の言葉に眉間の皺+鼻の上に皺が寄る。
「関係ない」
「じゃ、アノ日?」
「バカ言わないでよ」
ぐわっと牙を向いて振り返れば、こわっ とわざとらしく両手をあげる。
「大体、何なんだよ。山口君もあの人も」
俺もかよ と大きく見開く瞳さえも、苛立ちに輪を掛ける。
「おかしいだろ。何言われても、平気な顔してへろへろと笑ってるなんてさ」
腹立つなら、怒れよ、もっと、表情に出せばいいだろ ばたん、気がつけば、辿り着いた『TOKIO様』の紙が貼られた扉をけたたましく蹴り飛ばして楽屋に入る。
「って、なんでお前が腹たててるんだ?」
呆れたような口調の山口が放り出されたボストンがパイプ椅子の上で音をたてた。
「だって、山口君はむかつかないわけ?」
リーダー、と尖った唇は、まだ到着していない四男を思い出させて山口の苦笑を誘う。
「むかつきはしないでしょ」
あれがあの人のキャラだし と小首を傾げると明るい金に近い茶色がさらりと揺れる。
「キャラってね、芸人じゃないんだよ。そりゃ、俺だってね、リーダーじゃなかったらどうでもいいけどさ。仮にもだよ、俺達TOKIOのリーダーが」
「いやあ、愛されてるねえ」
ぱしん 合わさった両手から響く音が2人の間の空気を震わせる。
「それ、違うでしょ。俺が言ってるのは、リーダーだから」
「だから、太一はリーダーがバカにされてるのに反発しないのが腹立つんだろ?」
「そうだよ」
「やっぱり、愛されてるじゃん」
間違ってないっしょ とリーダーだから腹が立つしリーダーだから怒って欲しいんだから 『リーダー』その言葉の場所で確認するように揺れる指先に、国分も一言づつ軽く小首を傾げて追うが。
「って誰が愛されとうん?」
「茂くん」
おはよぉ と台詞の間に交わされる言葉に国分は眉根を顰めた。
「誰に?」
「太一」
違う と咽の奥まで飛び出しかけた言葉は、あからさまに顰められた城島の表情に行き場をなくす。
「なんだよ」
「や、なんか」
「なんかなに?」
「長瀬や松岡相手やったら、諸手をあげて、おっちゃんも好きやで~ って言えんねんけど」
「けどなんだよ」
低く沈んだ声がショルダーを置く背に向かって響いた。
「太一相手やったら」
「俺相手だったら?」
ん~ と指先が頤の辺を彷徨って、天井を眺めていた視線が城島よりも少し低い場所にある国分の幾分丸みを帯びた幼い面立の顔を見下ろした。
「微妙?」
「良い年の男が語尾上げで聞くな」
一段と引くくなる声に、やってなあ と城島は苦笑をしてみせる。
「長瀬と松岡ならってことは俺ならどうな訳?」
じゃあさあ と、背中から伸びて来た手の甲をぺしりと叩く城島に怯む事なく背に懐いた男の腕に、暑いわボケ と小さく呟いて。
「や、お前やったら、なんや後が怖そうやから慎んで御辞退申し上げるわ」
ひでえな こんなに愛してるのに、 な 太一 と振り返った山口に、
「って同意求めるな。俺を引き込むな。大体俺が言ってるのはそんなことじゃないだろ」
一気に言い募り、両肩で浅い息を繰り返す国分の姿に城島が背後に懐いたままの男を振り返った。
「なんや、えらい不機嫌やな」
「ちょっとね」
囁く声は聞かせないための心遣いか、それともこちらの気を引く為の作戦か。
「もしかしてアノ日か」
「駄目駄目、二番煎じだとインパクトないよ」
さっき俺使ったからそのネタ と肩ごしに交わされる会話は明らかに後者。
「俺が言いたいのは、あんた、俺達の、TOKIOのリーダーだろ」
せやね、残念ながら と答える城島の頭を 残念ながらじゃないでしょ と山口が軽く叩く。
「だったら、言われるままに受け流すなよ、嫌な事言われたら怒れよ。言われっぱなしにするなよ」
きょとんと 一瞬言われた意味を掴み損ねた城島がきょとんとした子供のような表情になり、それからふうわりとこぼれるように破顔する。
「心配してくれるん?」
「だ~ もう、だから違うっての」
俺が言ってるのは、とぐしゃりと整えたばかりの黒髪がかき乱れていく。
「けどなあ、しゃあないやん。あんなん真面目に受け止めて怒ったところで、こっちが莫迦みるだけやし」
適度に聞き流して、必要な事だけを受入れたらええねん と続く言葉は確かに正道。
それでも、腹が立つのだ。
「そう言うの情ねえと思わないわけ?日和見主義、事なかれ主義って言うんだよ」
「何、自分も同意見なん?」
肩口でぐりぐりと動く顎から聞こえた溜息。だが、城島の言葉に山口は小さく頭を振る。「いや、俺は別に判ってるし」
何が!!
そう叫び掛けた言葉は、勢い良く開かれた扉の音にあっさりと掻き消された。
あいつの所為だ。
アイドル笑顔満面でカメラに映る己自身に苛つくのも、自分がミスタッチをした事も、全ての原因はあの男の所為だ。
久しぶりの音楽番組だったと言うのに、と憤懣やるかたないといった風情で、無意味な程、足音を響かせながら廊下を歩いて行く。
前の撮りで時間が押していたらしい弟達の勢い良い出現と、おはようございます とのんきに響き渡る長瀬の声に、張り詰めていた空気は、ぱしんと弾けるように霧散して、行き場を失った怒りの鉾先は己の中に深々と埋まったままだ。
こんな心情で、まともに弾ける訳がないだろう という事さえも言い訳と気づく事が出来ない程に、苛立つ自分。
何故、ここまで腹が立っているのかが判らない事さえも、
そこまで考えて漸く国分は足を止めた。
「なんで俺こんなに怒ってるんだろう」
浅く喘ぐように繰り返していた呼吸に、息苦しくなって来た自分に気づいて。ゆっくりと辺を見回すように深く息を吸った。
「たかがアイドルだろう」
「そうそう、自分が作曲したかなんだか知らないけどさ、自慢げに話すなっての」
己の様子を不安げに伺っていたメンバーをその場に残し、自分勝手にスタジオを飛び出して来た事に多少なりの罪悪感を思い出した国分が踵を返そうとした時だった。
「気づいてたか、キーボード、思いっきりミスしたろ」
「わかるよそりゃ。で、その時、しまったって顔したあと笑いやがったんだよ」
笑って許されるとでも思ってるのかねえ、仮にもバンドだって言い切ってる奴らがさ とせせら笑う声がする。
TOK10をバンドだと、ミュージシャンなのだと鼻ッから認めもしない恐らくは長瀬達と変わらない程の年若いAD達の声。
頬が引き攣り、ざわめいていた外界の音がぱたりと静寂に閉ざされる。
だが、一瞬の内に冷えきった心臓に反して、どくりと高まった鼓動の合間にも、聞きたくもない声だけが隙き間を縫うように響いてくる。
「あいつら」
ぽんと肩に掛かった掌の温もりにあげた視線の先にあったものは、山口の無表情なまでに端正な横顔だった。
「山…」
そのまま、己の先を制するように前へ出た男の腕を国分が慌てて握り止める。
「太一?」
「いいよ」
「腹立つだろ」
その言葉に、ふと国分は口角を歪めるように笑みを浮べた。
「そうだ、笑ってやろうよ」
何を言われても平気だって顔で、どうせアイドルなんだからさ と人よりも大きな黒めがちな瞳が綺麗な弧を描く。
そうだ、笑えば良い。
あの人のように。
たかがアイドルなんだから何を言われても平気なのだと見せつけてやればいい。
「ほら」
会話の間にも、一層近付く足音を受け止めて、国分は山口の肘を掴むと一歩前へと踏出した。
「さっきはお疲れ様でした」
髪の毛をつんと逆立てた幼い顔立ちの男が見えない程に細い目を見開いて、少し低い位置でにこりと微笑する男の顔を凝視する。
「あ」
「いや、あの」
ひくりと頬を引き攣らせ、傍らの同僚を肘で突きあいながら、無意識に一歩後下がる。
ほら、なんでもないだろう と三日月のように細められた眼に、緩やかな曲線の口元。
綺麗な程な笑みを浮べた男の肩を山口がなだめるように軽く叩いた。
「太一、もういい」
「何がだよ」
ほとり、ほとり
こぼれ落ちる球体が放つ光に山口は微かに吐息を吐く。
なんでだよ。
笑っているのに、勝手に流れ落ちて行く感情の欠片。
咽の辺が熱くて、塊のように息が引き攣る。
だって、あの人は平気で笑ってたじゃないか。
「誰やねん。太一泣かしたん」
国分が頬を拭うよりも先に傍らを擦り抜けた影が、目の前の男の胸ぐらを掴み上げていた。
「りー…」
「や、俺達別にそんな」
な、な と互いに目配せをする男達を交互に睨み付けた城島の薄い背中がそこにはあった。
「何もせんでこいつが泣くわけないやろ」
どっちや、自分か?自分が太一泣かしたんやな 普段、おっとりとした柔らかささえ感じる彼の関西弁に低く混じる声は迫力があり、じりりと壁際まで追い詰められた2人の男の顔が、高々と振り上げられた拳に一層青ざめていく。
「もう、いいよシゲ」
だが、ぽすんと拳ごと握り止めた山口の掌に、城島が唇をきっと噛み締める。
「せやって、こいつら」
「いいよ、シゲ、こんな奴等殴って貴方のギター弾く大事な手に瑕でもついたら大変じゃん」
「けど」
「けどじゃないでしょ」
にこりと綺麗な笑みをほとりと浮べた、だが、少しも笑っていない眼差しが目の前の2人をじろりと睨み付ける。
「大体貴方はこんな荒事には向いていないんだから」
そう言うのは俺に任せなさい そう勢い良く掲げられた腕に今度は城島が縋り付いた。
「あかんて」
「バカじゃない」
ぽつりと、大騒ぎしている上2人よりも、低く響く声が空気を震わせた。
「太一」
同時に振り返った2対の瞳に映り込む4人の自分。
「ほんと、莫迦だよね、2人とも」
未だ湿っている頬をぐいと親指の付け根で拭ってにっと笑みを浮かべると、国分は爪先立ちで壁に懐いている2人に顎をしゃくって行けよ と合図を送る。
「なんであんた達2人が怒るのさ」
「なんでって太一」
「だってそうだろ。今、莫迦にされたのは俺でリーダーや山口君じゃないんだよ」
なのに、なんであんたが怒るんだよ と顎に皺を寄せた口元が不満げに言葉を綴る。
「莫迦にされたんが太一やからやろ」
自分の為には怒らない癖に と音にならぬ言葉にほろりと頬の筋肉が緩んでいく。
「あんただって、同じような事言われてるんでしょ」
気がつけばだらりと落ちていた両の肩をふるりと震わせて、城島は傍らの山口をちらりと見た。
「そら、まあな」
ぽそりと綴る力ない言葉と顳かみの辺を行き来する居心地悪気な指先に見隠れする心情に、情けない程口角が弛んでいく。
「僕がよう言われるのは、ほんまにギター弾いとるんか 言う事やけどな」
途端に顔を引き攣らせた山口の腕を軽く叩いて。
「そりゃ、僕かて聖人君子やないんやから、腹はたつよ。けどな、僕はええねん。なんて言われようと、僕は、僕自身がギター弾いてるの知ってるし、誰よりもメンバーの自分等が判ってくれてるから」
それで十分やから、でもな、自分言われたんさっきのミスタッチの事やろ と城島は眉間に皺を刻み込んだ表情のまま伺うように小首を傾げた。
「確かに、太一は間違えたし、笑って誤魔化した。せやけど、太一かて、アイドルやからそのレベルでええなんて思うてへんやん」
どんなに仕事が忙しくても、夜中過ぎまで掛かろうとも、自分に妥協する事なく練習をしている太一のことあいつら知らんくせにな とまた微笑を浮かべた。
人の事なのに、その笑みがあまりに辛そうで、国分は逆に笑い出したくなる。
「シゲ」
小さく名前を耳打ちすると城島が廊下の向うを見て微かに首肯する。
「本当莫迦だよね」
数歩歩いて、山口の前を通り過ぎると壁の前で立ち尽したままの城島の傍らに背を預け、止めのように三たび重ねる言葉。
「嫌になるよ」
阿吽の呼吸のように、互いの行動の先を読みあっている2人。入り込めない空気、それさえも羨んで。
ただ、全てを理解し、昇華しているようなこの人の存在が悔しかった。
だが、一所懸命笑っていたのだ。
この人は。
「アイドルのくせに暴力沙汰なんか起したら大問題ってわかってるはずだろ」
爪を磨ぐ事も牙を剥く事も許されない自分達が唯一対抗できる手段として、この人は笑い続けているのだ。
何を言われても、何をさされても、ただ、バカの一つ覚えのように微笑を浮べて。
「けどさ」
ん? と倣うように背を預けた城島が咽の奥で返事を返す。
「俺は、あんたのする事に腹が立ったら、これからも文句言うよ」
今朝みたいにさ、と片目を軽く瞑ってみせる。
「ん」
「だからさ、あんたも言えよ、言いたい事あったら。腹ん中に溜めずにさ」
でないと、その薄い腹なんて直ぐ破裂しちゃうよ 聖人君子じゃないんだからさ 城島の言葉を借りて。
「せやね」
「俺はさ、山口君や松岡とは違うから」
この人に笑っていて欲しいなんて思いもしない。長瀬のようにこの人の笑顔に甘えたりはしない。
「ほしたら、僕も遠慮なく言わせてもらうわ」
せやからよろしくな、 目の前に差し出された掌をぺしりと弾くと軽く舌を出す。
「だから、よろしくしねえって言ってるの」
「なあ」
「なんや山口」
先刻、耳打ちをして消えたはずの男の声に、城島が軽く見開いた。
「あのね、いくら俺でもこいつら2人の首根っこ捕まえてるだけで精一杯だって、仲直りしたんだったらそろそろ楽屋戻らねえ?」
状況説明してやってよ こいつらが拗ねる前にさ そう言うと猫の子のように襟首を摘まれた背の高い弟達が、唇を尖らせて何度も頷いてみせるから。
しゃあないなあ、 ふうわりと笑み溢れた表情で城島が、泣きそうな表情で自分達を見下ろしている長瀬の頭をくしゃりと撫でた。
途端に花が咲くのを待ちわびた子供のように邪気もなく、笑みを浮べた末っ子の表情に国分もまた、微かに微笑を誘われる。僅かに、苦い色が滲むものではあったが。
嬉しかった。
笑顔ではない横顔を見せたこの人の生の表情が。
笑顔より、仮面のような微笑より、この人の心の内が見たくて、意味もなく突っかかっていた自分。
でも、だからこそこれからも自分の態度が変わる事はないのだ。
だから。
「仲直りじゃないから」
山口君 と前方を行くひょろりと背の高い2人組に挟まれた背に口角を緩めながら歩いている山口の隣に追い付いて。
「宣戦布告だから」
これまでの、そしてこれからの あの人と俺との とにやりと笑う。
「ま、お手柔らかに頼むわ」
一瞬、瞠目した端正な男が、次の瞬間に浮べた悪戯な子供のような笑みに、ほんの少し早まったかな と思った次の瞬間、国分は心の内で負けねえからな と軽く舌を出した。