びう 庭木の梢が大きく揺らいだ瞬間、しかりと嵌められたはずのサッシが震え、格子に嵌め込まれた硝子ががたがたと悲鳴を上げる。 眼下では、容赦なく吹き上がる風に、舞い上がる服の裾をしかりと抑え、小わきの鞄を抱きかかえるように俯き加減で歩いていく人の波が通り過ぎていく。
ひたりと硝子に張り付いた掌がきゅっと固い拳を作り、顰められた眉の下、心配げに見上げる琥珀色の瞳に影が落ちる。
今朝から変わる事なく、頭上一杯にどんよりと厚く垂れ込めた鈍色に見える空の色。 いや、時とともに一層深く増したようにさえ見える重すぎる灰色。 テレビでは、接近する台風の進路についての気象情報が飽く事なく繰り返されて、テレビをつける度に、何時頃に首都圏に近付くのか、直撃の進路をとるのかと気象予報士達が口々に状況をご苦労なまでに叫び続けている。
いくら台風が来たからと言って、小中学生ではあるまいし、警報ぐらいでは仕事が休めるわけもない大多数の社会人達は、巻き上がる砂塵に疲れたような表情をするぐらいしかない。 とはいえ、どの世界のどんな人間にも、多かれ少なかれ自然の脅威の影響は及ぶものである。そう、ここTV局という四角四面に切り取られた小さな空間にも、明日の仕事に大きく関わる人間が不安な時間を過ごしていた。
やっと終わったあ と安堵のような大きな伸びを一つしながら山口は勢い良く楽屋の扉を押し開ける。 今日、ここテレビ局の一室を訪れたのはメンバー全員が揃うものではなく、末二人を抜いた上三人、つまりは城島、山口、国分だけであった。 撮影が最後の国分は、まだスタジオ入り中であり、楽屋の中で山口を待つ者は一足先に撮影を終え、既に休憩しているはずの城島一人のはずだった。
「あれ?」 だが、楽屋内いつもの定位置にあたる中央の長テーブルの横に彼の姿はなく。
「何やってんの?」
窓際にまで引っ張っていかれたらしい椅子の背を跨ぐように座っている薄い背が山口の視界に飛び込んでくる。
「ん〜」
「シゲ?」
「ああ、おん、お疲れさん」
後は太一だけやねえ、とどこかのんびりとした声で答えながらも、その視線は初めて電車に乗った子供のように窓の外から外れる事はない。 「何か面白いものでもあるの?」
日が暮れ、光を閉ざした空に貴方の興味を惹くようなものがあるとは思えないけどね、そうごちても、やはりこちらを振り返る事のない城島に、山口は鞄のポケットに突っ込んであった携帯を取り出した。
どこか詰まらなそうな表情のまま城島に背を向けて座り込むと、そのままアクセスするのはサーファーが集まる情報サイト。
スクロールされる画面に次から次へと現れる波情報には、湘南の波の高さの予想とその時間が克明に表示され、同時にやはりと言うべきか、高波と強風への注意が呼びかけられている。
「波随分高いんちゃうん?」
「あん?」
波やろ と笑いを含んだ柔らかい声。
「風、大分ひどうなってきたから」
「そうだね」
顔を上げれば、漸くこちらを振り返った綺麗な弧を描いた瞳が、窓の桟に頬杖をついたまま山口を見下ろしている。
「昔なあ」
「うん?」
「台風言うたらなんやワクワクしとった」
わくわく? そう返された城島が口角を微かに緩める。
「せんかった?」
まだ、空も青いうちから警報が出るのを心待ちに天気予報を見つめ、登下校を呼びかける教師の心配顔を余所に、寄り道をする小学生。
「何時もより早う帰れる事も嬉しかったし、なんか、空気自体が違うような気がして」
次第に重く垂れ込めはじめ、どんどんと窓を叩き始める風の手に、いつもならば閉めない雨戸をしかりと閉めて、閉ざされていく日常と言う名の空間。 それだけで、何かいつもと違う事が起こるのだと期待をする幼い自分。
停電を心配するかのように机の上に出された懐中電灯も、夕飯よりも随分早い時刻に作られた握り飯から立ち昇る湯気にさえも。
「すごいどきどきしとった」
びうびうと吹きすさぶ強すぎる風に、屋根が飛び、薄っぺらな壁が崩れるのではないかと布団を頭の上から被って震えて眠った記憶より、強く残る記憶の中の鮮やかな感情。 なかった?再度小首を傾げる城島に、山口も何かを振り返るように視線を彷徨わす。
「そういえば、俺もさ、こうさ」
傘広げて、と山口が両手で傘を持つ格好をしてみせる。
「塀の上からとか飛び下りるんだよ、風が、ぶおって吹き上がる瞬間狙って」
よく叱られたよなあ 危ない事するなって。
「今考えたらえらい不謹慎やけどな」
顔を見合わせてくすくすと笑いながら、城島は、また窓の外へと視線を戻した。
母一人、子一人であった小さな家の中。 がたがたと風に窓が煽られる度に何れ程あの人は心細かった事だろう。 そんな母の心情を慮る事等せず、窓の外、飛んでいく木の枝を見上げ、すごいで、とわざわざ実況中継までしていた自分。
「で?急接近中の大型台風に、シゲさんは昔を懐かしんでた訳だ」
「ちゃうわ」
確かに、がたがたと悲鳴を上げる窓ガラスに、今は誰も住んでおらぬ懐かしい家へと想いを馳せていたのは事実だが。
「村…な」
ひたりと城島の背を覆うように硝子に触れた掌に、きしみが微かに消える。
「ここらへん通過予定、朝方じゃん。明日のロケの頃には、大分収まってるんじゃない?」
雨は多少残っているかもしれないが。
「台風一過の晴天かもしれへんけど」
なら、問題ないじゃない と何事もないような返事に、城島は軽く唇を尖らせた。
「でも、今からひどうなるねんで」
まだ、海上で停滞しているはずの台風の余波で、これだけの突風が吹くのだと。
「今、ここに吹いてる強風がこのまんま村行ったら」
先日、訪れた時、太く、そう目の前で硝子を叩いている指よりも太く育った胡瓜や、後数日で熟れるであろうほんの少し緑を残した艶やかなトマトを思い出す。
「明日、全部地面に落ちてへんやろか?」
「そうだなあ」
その言葉に山口の眉も寄り、覗き込むように雲の渦巻く空を見上げる。
「5人揃て村行くん、もう時期やろ?」
声もなく、頷く山口の、腕の間から城島も空を見上げた。
「全部落ちとったらあいつらも悲しむやろな」
「去年の放映な、ヤス君、一人で走り回っとったやろ」
強くなる風に長丈米の廻りに杭を張り、真夜中、止む事を知らぬ雨に細い棒を片手にビニルハウスへ行き、天井の水を落として。 特に、昨年は台風の当たり年だったから と伏せられた睫が微かに震える。
「いっつもそうや。精君が村におってくれたときかて、そうやった」
確かに自分達が合羽を被り、補強等に走り回った事も一度や二度ではないかもしれない。だが、雨が降ろうが、雪が積もろうが、村以外の仕事を言い訳に、自分達は『今』ここにいるのだ。
「仕方ないじゃん」
仕事なんだから と宥める山口の口調は子供を戒める大人に近く、城島は苦笑を浮かべたが。
「うん、それは、わかっとうよ」
そう、仕方がないのだ。 理解はしているのだ。 何れ程この手が土に触れようと、この足が、田の泥に紛れようとも、所詮、あの『村』も仕事の一環でしかないのだと。
それでも。
「僕が見つけて、皆で選んで」
そりゃ、山口が見つけて来た土地よりは、土も良く水源にも恵まれた土地ではあったかもしれないが。 それでも 何年も手入れのされていなかった村は、稲を育てるには水はけが悪く、畠を耕すには大きな石がごろごろとした荒れ地であった。
「僕らが見つけて、水引いて、土、起して」
何もない土地だった。 あったのは、古びた家の土台と朽ちかけた桜の木が1本ぐらいだったろうかか。 そんな大地に、いつしか古い家が建ち、 一頭だけだった子ヤギが大所帯の家族になり、小さな合鴨達ががあがあと列をなして闊歩して。 頭が重く垂れる程に稲が育ち、たわわに夏野菜が実り、昨年は南の地でしか育てられておらぬ砂糖黍までも収穫できた。
「自分等で育てて来たはずやのに」 何もできへん と唇を噛み締める。
ぱたん ぱたん 大きすぎる音とともに、窓を打ち付け始めた大きな雫の周囲に小さな飛沫の跡をつける程に大粒の雨。
曇りがちな窓をゆっくりと伝い落ちる雫を追い掛ける顰められたままの瞳。
この横顔を知っている。 メンバーの誰かが心ない世間にバッシングされた時。 仕事が上手くいかなかった時。 そして、彼自身、家族の過去を興味本位に書き立てられた時。
どこか淋し気な、そして静かな怒りを孕んだ眼差しで、黙って拳を握りしめていた。
「守ったられへん」
ぽつりと零れ落ちた言葉は振りそぼる雨滴の激しさに消え入りそうなか細い声だったけれど。 貴方が当人の気持ちを一欠片も顧みようともしない周囲に怒っているのだと思っていた。 でも、貴方は、自分に怒っていたんだと今更乍らに気付かされる。 足掻いて苦しんで、それでも他に行く宛などなく、ただその場で立ち尽くすしかないメンバーに、差し伸べた手の力のなさに、貴方もまた苦しんでいた。
「シゲ」
目の前で揺れる猫毛のようにふうわりとした髪をくしゃりと掻き混ぜて、山口はそのまま勢い良くぽんと頭を叩いた。
「なん?」
「行こう」
この手が育てて来たTOKIOも村も。
「これっくらいの嵐に負けるような柔だとは思わないけどさ」
言いながらも、散らばっていたシャツや携帯を勢い良く鞄の中に放り込み、そのまま城島の鞄もひょいと肩に掛けた。
「ちょお、山口」
「俺、この雨の中、家まで帰るの鬱陶しかったんだよね」
ほら、と突然の展開についていけず、呆然と座ったままの城島の腕を引っ張り上げて。
「丁度、車で来てる事だし」
心配なんでしょ?片目を軽く瞑ってみせると、ぱちくりと目を見開いていた城島が、面映気に鼻の上に皺を寄せ、はにかんだ笑みを見せる。 「ええの?」
「どうせ、後数時間で、村に向かうんだからさ」
それが少々早くなってもたいしたことないんじゃね?、返された笑みに、 「おん」 城島も勢い良く立ち上がった。
「お疲れ〜 って、ちょっと二人ともどこ行くのさ」
放り出してあった上着を持ち、ノブに手をかける寸前に開かたドアの向こう側、メンバー内でも、一際大きな瞳の持ち主がくりんとした眼で、二人を見上げている。
「お帰り、お疲れさんやったな 太一」
「わりいけど、俺等、先帰るわ」
そのまま、一歩近付いた山口に、国分が思わず身を引いて横に寄る。
「あ、マネにな、僕ら、今から村行っとうから、明日の朝の迎えいらん言うといて」
「って、お〜い、ちょっと」
したら、お先と、廊下を子供のように我先と駆け出した背に溜め息を一つ。
「俺も明日、村なんですけど〜」
嵐の後のように誰もおらぬ静かな楽屋に呆れたように天井を見上げた。
「ま、山口君の気持ちもわからないでもないけどさ」
村の田圃とメンバーを一緒くたに考えるのはどうかと思うよ そう呟いた国分の声は、篠つくような雨の中、車を走らせる二人に聞こえる事はなかった。