be チッチッチッチ
部屋の隅、薄く黄ばみかけた壁にかかった時計の秒針の音がやけに耳につく。
朝から何度となく見上げた文字盤を指す針の先は、先刻見上げてから僅か10分しか経っていない事を教えてくれる。やはり、少なからず緊張をしているのだろうか、と山口は軽く肩を竦めながら周囲を見回した。
もうかれこれ一時間程以上もの間、飽きる事なく部屋の中を『うわ』とか『どうしよう』とかを呟きながら、ぱたぱたという忙しない足音をたてながら室内の端から端へと往復を繰り返しているのはメンバー最年少の長瀬、かしかしと乱れがちなリズムを刻み続けるスティックの軽い音に合わせて首を前後に動かしている松岡は、やけにのっぺりと色を無くした横顔を隠す事なく視線を辺りに泳がせる。
そして、いつもならばそんな彼らに一番に、『五月蝿い』と怒号を落としているはずの国分は、薄い肩を時折ふるりと震わせながら、ぱさりぱさりと雑誌を開いては読みもせずに閉じるという意味のない所作を繰り返している。
誰もが、己の事に精一杯で、周囲等ほんの一筋も見えていない状態。
さもありなん。
全国津々浦々にある小さなライブハウスを点々と回り動員観客数はそこそこの数を誇り、CDデビューもとっくに果たしているとはいえ、と山口は、もう一度室内をゆっくりと見回した。この場所に立てば誰だろうと震えはくるだろうと。
しかし、この状況下で時計の音が特化して聞えるというのも不思議なもんだよなと、半分呆れの混じった溜め息をつくと山口は音を立てぬようにそっと立ち上がった。
さて、とこれからどうしよっか、と山口は後ろ手に閉めた控え室の扉に背を預けて、僅かな灯りに照らされた、どこか薄暗い天井を見上げた。
閉じられた扉の向う側には、高まる緊張になす術もなく、だが、確実に近付いてくるその時に抑えきれぬ高揚感と喜びを持て余している年下のメンバー達の姿。
それを少し離れた場所から余裕ぶった表情で見ているのも悪くはなかったのだけれど、このままでは彼等のはちきれそうな緊張感にこっちまで感化されてしまうのが目に見えている。
それに。
とん と小さな足音を一つ立てて、くるりと体を反転させると人々が行き交う階段を通り抜ける。
「ったく、あの人は、あれでばれてないと思ってるんだもんなあ」
先刻、猫のようなしなやかさでこっそりと音一つたてずに部屋を後にした、もう一人のメンバーの顔を思い浮かべて口角を緩めた。
どこまでも青い空を寸断するように、細く尖らせた厚ぼったい唇からふわりと紫煙が立ち昇っていく。
つと、こそばゆくなったのか、無意識に鼻の上にやった指先に小さく笑う。
今日は眼鏡ではなくコンタクトやったっけ と。
「えらい、ええ天気やわ」
ついこの間までは、空調設備のない部屋の隅で、額から汗を滴らせながらギターをかき鳴らしていたと言うのに。
ふと、吐息をつく程の間も止まる事を知らぬ時は、気がつけば肌を滑る風に甘く優しい、そしてどこか切ない秋の色を滲ませる。
こんなに居心地が良くて良いのだろうか。ふと、そんな疑問を抱かせる程に。
ふと聞こえた微かな音に、城島はんっと喉を鳴らすと、
「どないしたん?」
そんなとこで、と背後の人影に声を掛けた。
「や」
静かに、どこか遠慮がちに開かれた非常扉は、それでも滅多に利用される事がないからか、軋む鉄の重みを消す事をできなかったらしい。
振り返る事なく、ふわりと円を描いた煙が形を歪にしながら空に消える様を追い掛ける視線に、苦笑を浮かべながら山口はその隣に倣うように鉄錆のある手すりに上肢を預ける。
「やっぱり、ここに居たなって思っただけ」
「何やねん」
「ん?高所恐怖症の癖してさ」
好きだよね、貴方、こんな所 と覗き込むように見下ろした遥か先には、数台の車の屋根が規則正しく並んで見える。
「もう、時間か?」
「違うけどさ。貴方、消えてから随分経つのに、一向に戻って来る気配がないから、ちょっと気になってさ」
人が探してみれば、こんなとこで煙草なんて暢気に吸ってるし と軽く責めるような口調に反し、楽しげに眉月のように細められた眼に、城島の口角もきゅっと弧を描く。
「やってな、未成年がぷんぷん煙草の匂いさせとったらあかんやろ」
くっくと笑う横から、また、ぷかりと煙を美味そうに吐き出す薄く開かれた唇。
「そりゃね」
城島が傍に居たならば、恐らく、いや、確実にぴたりとその傍に張り付いて離れないだろう、下二人のひょろりとした姿を思い出す。
「で、ここで一服っちゅうわけやね」
「長すぎでしょ」
そうかあ? そんな、どこか間延びしたような口調の横顔を見ていると、ぎゅっと手すりを掴んでいた掌から力が抜けていく。
そこでやっと自分自身、随分と緊張していたのだと山口は口角を緩めた。そんな事さえも気づかぬ程にテンパッていた自分。
自嘲にも似た笑みをどう受け止めたのか、城島は訝し気な表情でこちらを振り返ったが、そんな山口の様子に言葉を発する事なく、再び視線を高すぎる空へと戻す。
「僕な、ここ、満員のファンの前で、コンサートするのが夢やねん」
「ここ?ドームじゃなくて?」
ちっちぇえなあ 夢はもっと大きく持てよ と笑う山口に
「ここかてライブハウスと違うて、一人ひとりのファンの顔見えへんねんで。ドームなんてもっての他や」
そんだけの人が集まるんやったら、その分、コンサートの回数増やせばええねん と城島がむっと口角を下げた。
そうだね と頬杖をついた山口も今度はあらがう事なく小さく頷く。
暫し、沈黙の落ちた二人の間を擦り抜けて行く心地よい風。
降り注ぐ柔らかい陽射し。
「5年やねんな」
「そうだね」
二人が並んで道を歩きはじめてから とどちらともなく顔を見合わせる。
「あっと言う間やったなあ」
「親爺くせえ」
「煩いわ」
どん と笑いながら腰を横からぶつけてきた山口に、むっと唇を歪めると、城島もどんと山口の腰目掛けて器用に上肢をねじる。
どん、どん と、言葉もない攻防をどれぐらい続けていたのか、くっと緩んだ口元から耐えきれず溢れた笑声が辺りを震わせたのは、ほとんど同時だったろうか。
城島の肩に額を預けて、笑い転げる山口の体を何とか受け止めた城島も、けらけらと笑う。
二人して笑い転げるぐらい何がそんなに楽しいのか、そう問われたら、返す答え等なかったけれど。
「なあ、ありがとうな」
ぽつりと、途切れる事のない笑声の挟間、隠れるように溢れた言葉に山口はぴたりと笑うのを辞めて、目の前で軽く視線を逸らしている男の顔をマジと見る。
「茂君?」
するりと肩の隙間から抜けていく腕は、そのまま手摺に預けられ、反り返るように宙へと乗り出した上肢をふらりと揺らし、綺麗な首筋を無防備なまでに露にして空を見る城島。
「ほんまはな、僕、ここまで来れるて思うてなかった」
「ここまでって、何言ってるの?」
当然の事でしょ と唇を尖らせた山口の表情を城島が見る事のないように、空へと投げ出されたままの城島の表情を山口には伺い知る事はできなかったが。
「小島が辞めた時、もう、終わりかなて思うたんや」
僕、と軽く伏せられた長い睫毛が微かに戦慄く。
年齢も出身も、それこそてんでバラバラで纏り等、何一つ持たない自分達が、ばらばらの夢を持って集うた一人一人の夢は、細く開ければ全ては違う形をしていても、いつしかこよりのように寄り添い、強く絡みあって一つの形を成しているのだと疑いもしていなかった。
「全てが始まる前に、誰かの上に終わりが来るなんて思うても見てへんかったから」
諦める と冗談めかして口に乗せた事はあったけれど と。
確かに、全てが上手く行かなくて、前へ進む事を諦めようかと悩んだ事もなかったとは言わないが。
それでも、その時点で全てを終らせてしまいたいと真実望んだ事等なかった。
「あいつの一生はあいつのもんやから、僕が口出す事やないけどな」
ゆっくりと、歩みは這う児のそれよりも遅く、文字どおり亀の歩みよりも鈍く、時に苛つく事もあったが。
それを断ち切ると告げられた時、どくりと顳かみに響いた音を忘れる事等できやしない。
唐突に目の前に曝された『現実』と言う二文字。
ああ と口角を彩った笑みは、どこか透き通るように切なくて、山口はぎゅっと掌を握りこむ。
「けど、僕かて、自分に会うてなかったら、とうの昔に辞めっとったんかもしれへんよなあ」
求めた夢が遥か天空高くに煌めく光の欠片なのだと否が応にも気付かされ、自分のちっぽけな存在を思い知らされた頃に出会った存在。
「やからな」
「ありがとうな訳?」
「そ」
何言ってるんだか、と呆れたような口調に、城島が照れたように笑う。
「滅多に言わんねんから、文句言わんと聞いとき」
「じゃあ、慎んで、拝聴しとこうか」
せやで、とくっくと笑う城島は、まだ、空を見上げたまま山口の元へと戻って来ない。
「僕なんて、一人やったらきっとなんも出来へんかった」
自分等に会って、初めて動き出した自分の時間。
「他の奴らだって同じでしょ」
貴方に出会って、自分の進む道を漸く見つけた、それまで俺も、俺の未来なんて人任せだったよ と山口が笑う。
「そうかも知れんけど、そんなん今だけや」
いつか、それぞれが本当にやりたい道を見つけるまでの僅かな時間。
それほど長い間やないかもしれんけど よろしくな と淋し気な口調が言葉を綴る。
「茂君?」
一瞬のスポットライトの中でしか息づく事のできない『偶像』と呼ばれる存在は、その光の中何れ程の間生き残って行けるのか等、今の自分達には見えはしないから と。
数多くの先輩達が、グループを組み、自分達と同じように期待に打ち震えながら未来を見つめ、そして、
「いつしか意見が分かれ、あるいは、売れんようになってその道を違えて行く」
と上肢を支えていた片手が空へと伸びて、ほんで、そこで終わりや とぱっと花開くように大きく開かれた。
「あの子らも、それほど経たんうちに僕の手なんかいらんようになるやろうしな。それまでの間かなあ」
綺麗に整えられた眉をぎゅっと寄せた山口が あのね とあからさまな溜め息をふうと音を立ててつくと、こちらを振り返ろうとしないやけに弱気な事を言う男に向かって手を伸ばした。
そのまま、真っ直ぐに目の前に差し出された手にぱんと軽い音を立てて重なった掌をぎゅっと握り締めると、勢いをつけて、城島を引っ張り寄せる。
っと、と小さな声をたてて、手摺に預けられていた城島が漸く山口のすぐ目の前に戻ってくる。
「良かった」
ぶつかった視線の先でにこりと破顔した山口の思いもよらない言葉に城島が目を見張る。
「だってさ、そんな事言い出すぐらいには、貴方も緊張してるってことでしょ?」
この大舞台を前にさ と繋がれたままの手をくるりと回すと、空いていた掌を城島の甲に重ねる。
「山口」
「あいつらは朝っぱらから控え室で緊張しまくってるし、俺は俺で無意識のうちに貴方探しちゃう程、いっぱいいっぱいなのにさ」
こんなところでのんびり煙草吸ってる貴方だけは、全然緊張してないみたいで、ちょっと悔しかった と。
「一つしか変わらないのに、出会った時から茂君、俺なんかよりずっと年上みたいでさ。ずっと追いつきたかったのに、ここでもまた差広げられたなあ って」
「そんなん」
思わず、言葉を返した城島に山口が うん と首肯する。
「だからさ、嬉しかった」
何が と返す事もできず、耳朶が熱を孕んでいくのを感じて、山口の両手から掌を奪い返そうと躍起になるが、見た目よりも強く握りしめられているそれは自分よりも高い体温の間から逃げる事を許さない。
「でもさ、あいつらの前ではそんな事言うなよ」
「当たり前や。そんなん」
思わず見上げた山口の細められた眼が、限りなく嬉し気に綻んで行く。
「なら、いいよ」
ついと引っ張れば、今度はあまりに呆気なく、あっさりと返された言葉と掌。
だが、その裏に孕んだままの熱と想いに照れたような笑みが自然に溢れて行く。
「俺は貴方の庇護者になるつもりはないからね」
「当たり前や。あの子らだけでも手いっぱいやのに、僕、こんな大きな奴までよう面倒みんわ」
「当然だね」
うん 当然やね とぽんと肩を叩いた掌に自分の手を再び重ねて。
「先刻の言葉さ、10年後に聞くよ」
「10年後?」
「そ、5年があっという間だったんだから、10年なんてちょろいもんでしょ」
「ちょろいもんか」
そ、ちょろいちょろい と緩めた山口の頬を凭れるように額を預ける城島の髪がふわりとくすぐる。
「ほったら、頑張ってもらわなな」
10年後、僕が自分に素直に感謝できるようにな と、その感触を楽しんでいた山口の頬にぐりぐりと頭を押し付けてきた城島が、文句を言われる寸前にすっと離れていく。思わず追いかけそうに伸びた手がひたりと止まった。
「あ〜、もう、二人してこんなところにいるんだから。先刻からマネが探してたよ」
がたんっと勢い良く開かれた鉄の扉からひょいと覗いた松岡の拗ねたような表情に、二人は目を瞬かせた後、ゆっくりと顔を見合わせると、くっと肩を竦めて小さく笑い合う。
そんな二人にきょとんとした表情の松岡と、その背後から訝しむような眼差しで覗き込んでいるのは国分とどこか不安げな面持ちを隠しきれない長瀬の姿。
その三人の表情から随分と探させたらしい。
「悪い、今行くわ」
戻り際、ぱんとどちらともなく重ね合わせた掌に包まれたのは小さな言葉。
それは、10年先の未来への約束。
5年前、デビューを目標に歩き出した二人の前に続く遠くて近い夢終着点は、今、10年後の自分達への新たなる出発点となる。