Jyoshima & Yamaguchi

波紋雪

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しゃくりしゃくりと音が鳴る。
色気も素っ気もない黒い長靴の底は都会で履くものとは大分違い、滑りにくい仕様になっているのだと教えてくれたのは明雄さんだったか。
ほっと吐く息が白いのは東京も村も何ら変わりはないが、陽光から隠れるように消え行く都会の雪と違い、がっしりと大地に根付く白い雪は一見儚く、だが、驚く程に生命力に満ちている。
雪に生命力は変やけどなあ、と城島は、今も自分の足がぐしゃりと踏み付けて潰れた雪の跡を振返った。 。

まだ大地全てを覆い尽くす程までには積もってはいないが、薄らと舞うように降り積む雪花は、茶色く朽葉色に染まっていた土を清らなまでに染め上げていく。

不思議やなあ。
都会では と片頬を凹ますように浮かぶどこか苦みを帯びた笑み。
これだけの、そう心のなかで愚痴ながら、ふうわりと帽子のように地面に被る雪を軽く爪先で蹴飛ばすだけで元の地の色が見えるぐらいの僅かな積雪で、アスファルトの道は凍り付き、24時間休む時を知らずに眉を顰める程の排気ガスをまき散らしている数々の大通りが、まるで人々の死に絶えた廃墟のように閑散とした街と化すのだ。
大都会・首都、そんな大それた冠を頂くこの日本というちっぽけな島国の中枢とも言うべき場所やのになあ。
口を開く事さえままならぬ冷たさに、溢れた溜め息さえも凍りつきそうだと城島はきゅっと唇を閉じたまま、雪の上をほろほろと歩いて行く。

元来、寒がりの城島にとって、目覚めると共に眼前に広がる雪景色と言うものは、暖かな室内から硝子の窓越しに見つめる場合に限り、ああ綺麗やね と感嘆の声を上げるぐらいですむのだが、いざ自分がその中に足を踏み出すとなれば、それ相応の勇気と覚悟が必要になる。
そらまあなあ、ごそりと取り出した煙草の先にほとりと灯った紅焔の一瞬の温もりがかじかんだ指先を暖め、細めた琥珀の瞳の上を白い煙がゆらりと流れて行く。
雪路対決・雪路運転・真冬に暖房のないソーラーカーでの北海道、東北巡りツアー等など数多く、また、物好きにも雪の中深くに潜って何時間もメンバーを待っていた という実に阿呆らしいとしか言い様がないロケもこなしてはきた。
ああ、ライブは別もんやけどな、と口角を緩める。
あれはどれ程周囲が雪に埋もれようとも、そこが寒風吹き荒ぶ北の大地であろうとも、心が燃えとるから寒さは気にならへんわなあ、そうは言いながらもライブ会場に辿り着くまでのもこもこと上着を着込み、風を避けるように背をいつもにましてきゅっと猫のように丸めて歩いている姿を見たならば、どこぞの誰かは三白眼を釣り上げて、しっかり寒がってんのに強がるなよな と顔に似合わぬ低い声で文句を言いそうやけどなあ、と唇から肺に溜った紫煙を吐き出した。

鳥の声さえ届かぬどんよりと重く垂れ込めた灰色の空の下、糸のように細められた虹彩に映るのは、手の中の煙草の灯りだけが鮮やかな色彩となるモノトーンの世界だけ。
こうしていると全ての音が雪に吸い取られ、立ち止まればまるで全ての世界から取り残されたような錯覚に陥る。
空もなく、道もなく、あるのはここまで歩いて来た自分の辿々しい足の跡。
それさえも、再び降り出した羽毛のような白い花片に然程の時を待つ事なく埋もれて行くのだろう。
見上げれば無数に津々と降り積む天の声。
「真っ黒や」
鼻の先に落ちる冷たい欠片は、どこまでも透き通る白く、指先で触れる暇もなく儚く消えてしまうと言うのに。
何故、ここの雪はこんなにも逞しく思えるのだろうか。

しゃく

無造作に踏み出した一段低い場所は、秋口まで青々とした葉が繁る畠のあった場所のはずだと、てかりと黒光りしたビニル靴の先できゅきゅっと茶色が見えるまで雪を押しのける。
だが、あんなにも鮮やかだった緑が、燃えるような赤が、一風毎に朽葉色に姿を変え、初めて、この村で冬を迎えた時、ゆっくりと色を無くして行く無情に思える景色の移り変わりに、ああ、村が死んで行くのだと思った。
だが、足跡一つない雪の上を子供のように駆け回った昼間が終わり、暖色の光を無くした村の情景に、幼子の感傷のような淋しいと言う呟きに、農業の達人にして人生の大先輩である明雄さんは、いともあっけらかんとした表情でからりと笑ったのだ。
地面は眠っているだけだあ と窪んだ眼をきゅっと細めて。

天から舞い降りた上質の布団に守られて、地中深く眠る植物は地上をざわめかす寒風の痛みを知る事なく、ゆっくりゆっくり眠っているのだと。
道を閉ざし、家を壊し、人々を暗い空間に押し込める雪という自然の脅威。
だが、それは己が自然の一部なのだと言う事を忘れたために起こるのだとどこか淋しげな表情が印象的だった。
雪がなくては、この清廉なまでの水が湧き出る事もなく、この土地に緑が芽吹く事はないのだ。
ああ、そう言えば、冬、山に積もった雪解け水がその地面に流れ込み、山の豊かな恵みを地中深く長い旅をして辿り着いた海はミネラルが豊富でとても豊かな漁場になるのだと何かのテレビで言っていた事を思い出す。

村を初めて、6年。
テレビの企画の一環、ただの仕事の一部。
だが、と城島は無意識の内に伸ばした掌の上、溶ける事なく降り積もる一粒一粒の結晶に瞳を細めた。
自分が芸能人というカテゴリーに括られるようになってから一昔半。
作られた画面の向う側で生きる自分達は、夏の盛りに冬服を纏って撮影し、年末に紋付袴姿でカメラの前に立つ。それを奇異なものだと思わないぐらいに、自分の中の時間軸はぐにゃりと歪んでいた。

だがそんな乾ききっていた自分に、この村は、日本という名の小さな島国の豊かさとこの国独特の自然が持つ四季というものの美しさ教えてくれた、同時に、美しさの裏に孕んだ厳しさと激しさそして紛う事なきその優しさを。
この手が、この足が、この体が、城島茂という一個の存在が、今肺が吸い込むこの空気に、指先を擦り抜けるこの水に、そして足が踏み締めているまさにこの大地に。己達を取り巻く自然によって生かされているのだという紛れもない実感。
ああ、違う。それは清らかな水が湧き出るよりも鮮烈に溢れ出る感情。
その度に零れるものは、情けないかな、ただ、すごいという畏敬の念が孕んだ一言だけ。
リーダーは沢山の言葉知ってるもんね そう僅かに尊敬の念を滲ませた邪気のない瞳の色を思い出し、あかんねえ と口の中でこそりとごちる。
本当においしいものを食べたとき、美味い以外に何も出てこないのだと困惑した苦笑でインタビューに答えていた食べ歩き番組をレギュラーに持つ俳優さんが答えたぐらいやから、まあ、しゃあないやろ。

東京=TOKIO

それが自分達の閉ざされたフィールドであり、自分達の名前。
「なあ、僕らはあんたらに比べたらまだまだちっぽけで取るに足らない存在やけどな」
降り続ける雪に埋もれ、外界から閉ざされるように壊れ行く都会にはなりとうないなあ、と小さく笑う。でき得るなら、今この凍えるような瞬間さえも、この足下深くゆっくりと根を張りながら土壌深くにある養分を吸い続け、新たなる目覚めの時を待っているそんな存在でありたいと、睫毛に積もる氷によって白く閉ざされていく視界を振払うようにぱりりと音をたてながら瞬きを繰り返す。

どれほどそこに佇んでいたのだろうか。黒い長靴の先はすっかりと雪に埋もれ、分厚い手袋の先に積もる雪は、溶ける事を忘れたように幾何学的な美しさもそのままに、深緑の指先にしんしんと降り積もってる。
だが、不意にその雪の重ささえも楽しむように広げられた掌を見つめていた城島の髪や肩をしとどに濡らしていた雪が降り止んだ。いや、止んだのは城島の真上だけ。
目の前では変わる事なく白い花弁が地面を尚も深く覆い尽くすように降り続いている。
「ったく」
温かな手が冷えきった手に触れた瞬間、きゅっと顰められた眉に、城島は僅かに苦笑を口角に乗せながらも押し付けられた傘の柄を握りしめた。
そのまま、言葉もなくぱしぱしと髪や肩、背中を痛みを覚えるぐらいの強さで叩いていく目の前にある不機嫌そうな表情の男の伏せ目がちな表情を見下ろした。
「風邪ひいて寝込んでも知らねえからな」
寒がりのくせに と続く低く怒りの籠ったような声や軽く剥れたような唇も、触れる掌の優しさにやんわりと溶けていく。
「いつ来たん?」
「先刻、松岡と一緒のロケバスでついた」
粗方城島についた雪を叩き落とすと、まだ湿り気を帯びた髪をハンカチでぐいぐいと拭い上げながら、山口は城島の真っ赤になった耳朶をつねり上げる。だが、痛みすら通り抜けるような寒さに城島は何も感じないらしく、不思議そうな眼を山口に向けるだけ。
「大変だったんだからね」
ほら、と両肩を掴みくるりと半回転する視線の向う側、霞のような紗を縫うようにほとりと灯る指先程の黄色い灯り。
「雪路で渋滞して、予定時間より大分遅れてついたかと思ったら、先に来てるはずの貴方の姿がないでしょ」
背後からぐるりと喉元に巻き付けられたカシミアのマフラーの持ち主は温かな手を持つこの男ではない。
「あいつ、荷物も置かずに捜しに行こうとするから、頭殴りつけて役場に置いて来た」

だって、山口君 きゅっと尖った唇に、山口は軽く眉をひそめてみせる。
「あの人、傘も持たずに出てったんだよ?」
街中を歩くに適したブーツを脱ぎ捨てて、ゆっくりと長靴へと履き替える男の後頭部を一瞬見下ろしたものの、次の瞬間には松岡の薄茶色の虹彩は、がたがたと風に鳴る扉の向う側を彷徨っている。
「だから、お前はここにいろ」
俺が捜してくるから、と山口は傍らに出してもらったダウンパーカーを羽織ると黒い大きなビニル傘を手に持った。
「でも、二人で捜した方が早いじゃん」
「で?次に、道に迷ったお前を捜しに行くのか?」
「何よ、兄ぃ、俺が迷うとでも思ってる訳?」
心外な、とふんと鼻先で息をしたもののじろりと睨み付けるような視線に思わずぐいと顎をひき、惑うように瞳が伏せられる。
「そんなことは思ってねえけどさ、迷わなかったとして、どっちがシゲを先に見つけるかわかんねえんだぞ?」
先に帰り着いた方がやっぱり心配してまた出て行く事になるに決まってる と手袋で感覚が鈍った指先を扉に掛けた。が、が、がらり と、湿り気で膨張した扉を力任せに開く同時に途端に吹き付ける寒風。
「そんな顔しなくてもすぐ見つけてくるから心配するなよ」
そう自分よりも高い位置にある心配げな表情を崩そうとしない弟分の頭をがつりと叩くと山口は後ろ手で扉を勢い良く締めた。

「芯からあったまるもんでも作って待ってろ って言っといたから」
大きめとはいえ、男二人が入るには多少の窮屈さが残る傘の下、いつもよりも着膨れた肩がさりさりと擦れ合う。
「あったかいもんなあ」
「野菜いっぱいの味噌汁か、ああ、明雄さんが酒粕持って来てくれてたから甘酒ぐらい作ってんじゃねえ?」
そらええなあ、と頬が触れあいそうな距離でくすくすと笑う城島の頬に僅かながらも戻ってきている赤味に山口も漸く口角を緩める。

墨絵のような影に包まれた景色を背景に音もなく降り積む雪の中、ぎちりぎちりとどこか辿々しい足取りで積雪を踏みしめる二つの足の音。

あれ、と城島がゆっくりと歩いていた足をふと止める。
数歩先でそれに気付かななかった山口の驚いたような表情が振返った。
「シゲ?」
視界の遥か遠く、ひょいと大きくなった明るい橙色の中、鶏のようにひょこひょこと回りを見回す黒い影に強張っていた口角がほろりと緩んでいく。
なんやあ、と声にならぬ言葉は風に舞い、前で待つ男の耳には届かない。
一歩歩く度に、近付くものは小さな暖色。
ほんの少し見る角度を変えただけで、押しつぶされそうな寂寥感は霧散して、無彩色の世界にじわりと広がる水彩画の柔らかさ。
思わず、疎かになった足元が雪に取られ、蹴躓いた城島は雪の中に埋もれるよりも先に伸びて来た弾力のある塊にきょとんと目を見開いた。
「ったく、危ねえなあ」
分厚い布地をとおしている所為か、それとも冷えきってかじかんだ神経の所為か。
思わず縋ったその熱は、どこか覚束無く、掴んでいるはずなのに確固たる存在としてそこにはない。
だが、山口の腕は、まごう事なく城島の掌の中にあるのだ。
なんや、とくっくと絶えきれぬように喉の奥から零れ落ちる笑声。
「何だよ。貴方、寒さの為におかしくなった?」
「ちゃうよ、ちゃうけどな」
なあ、と縋った手をそのままに、傾いだ傘を二人の上に差し直すと、逆に山口より一歩先に歩き始める。

閉鎖的な空間、遅い来る寂寥感。
だが、目をそらしているのは自分自身。
ほんの少しでいいから、角度を変えれば、そこにいる誰かに気付けるのだと。

「次の甘酒は、村特産の酒粕で作れるとええなあ」
振返った城島に、山口も、そうだね、と笑みを浮かべた。

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