Jyoshima & Yamaguchi

春の雷-らい-

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さくりと土に突き刺さる鍬の先、見る間にじわりと土の色が一段深くなる。
あれ、と小首を傾げるよりも早く、露になった項に落ちる天の涙。
ゆっくりと仰ぎ見た空は、ほんの少し前までは青い光を帯びとったのになあ、と不満気に肩をすくめる間もなく音を立てて降り出した大粒の雨に、わっと悲鳴をあげかけた城島の体は伸びてきた腕に掴まれて、気が付けば引き摺られるように畑を駆け出していた。

 

 

 

ぱんぱんと軽快な音を立てながら手早く髪や肩を弾くように叩いて行く男を片目にみつつ、背後のざらつくような壁に背を預けながら城島は僅かにあがった息を整えるように肩で息を繰り返していた。
「すっかり濡れちゃったね」
雨足はえぇよなあ と片方の口端を器用に歪めた笑みとも苦笑ともとれる微妙な表情の男がゆっくりと振返る。
「ほんまやなあ」
山口の言葉に己の柔らかな癖のある髪を数本、束ねるように指先に巻き付ければ、ふるりと揺れる毛先に、盛り上がるように光る雫が一つ。
目の前で曇天を見上げている男のシャツもしとりと濡れそぼり、暖をとるために重ね着をしている意味等すでにそこにありはしない。
「ほら」
風邪引くよ と山口は自分の首にかけてあったタオルを取り上げるとぼんやりと雨を追うように視線を動かしていた城島の髪を混ぜるように拭き取りはじめた。
「ええて」
自分かてまだ濡れとるやんか と軽く頬を膨らませた城島にくくっと喉の奥から笑いが漏れる。
「何笑とんねん」
「だってさ、今の貴方、お風呂に入れられた後の長毛種の猫みたいになってるよ」
いつもふわふわの髪だからよけいさ へしょりと細い髪を纏わりつかせた膨れたまんまの頬をちょんとっつっついた。

ぽつりと時折、軒の先から落ちる雫を見上げる。
然程強くはないが、暫くの間、止む気配をみせそうにない雨足に、二人は乾いている地面に腰を降ろした。
「けどさあ」
「ん?」
「ちゃんと春になってきてるんだよね」
まだ、水車小屋の隣、赤茶けた枝の先に揺れる新芽は、頑なまでに小さくて、春の暖かさなど山の向うの霞よりも淡く感じていたのだけれど。
「この間までだったら、あ、降って来たって空見上げたら雨じゃなくってさ」
暗くもない曇り空の中から、薄い光を纏うように舞い落ちて来るのは黒く儚い冬の花。
だけど、と枝先に滴る雫を指で拭うと、掌を額に翳した仕草のまんま空を見る。
「今は、ちゃんと雨なんだよね」
ほんの数日前には、東京や大阪でも雪が降ったというのに、ここにはしかりと春の兆しが見えるのだ。
「雪やったら、雨宿りなんかせんとそのまんま作業しとったんちゃうか?」
濡れる言うたかて直接やないし、そうぼやくようにきゅっと絞り切った髪をはらりと解くと、弧を描くように揺れた髪が光を弾く。
「そりゃそうなんだけどさ」
やっぱり春っていいよね 水も温み始めるし空気は優しい感じがするしさ。そう瞬きを繰り返す虹彩の奥に見えかくれするのは、春休みを待ちきれない幼子を思わせる淡い笑み。
「一年中水ん中入っとう男がよう言うわ」
綻ぶ頬をそのままに山口が城島を振返る。
「そうなんだけどさ。春になると、海の色も変わってくるし、海の中の温度は変わらないとはいえ、やっぱり違うよ」
それにさあ、ギャラリーは増えるけど、この時節はまだ、海の中まで入って来ようって言う奴もいないしねとからりと笑う。
「なんやねんな。結局は海がええんやんか」
春も冬もどっちにしたかてとくすくす山口につられるように笑みを零した城島に山口は軽く肩を竦めてみせた。
「ええ、だってなんかよくね?春ってさ」
子供のように尖った唇に小さく笑い、せやね と眼を細めて僅かに頷いた。
「貴方、春、嫌いだったっけ?」
そのどこか曖昧な答えに、返された訝しむような面持ちに、城島はつと指先を伸ばして降り注ぐ慈雨を受け止めた。

「嫌いなわけないやん」
春を好きだと躊躇う事なく言い切る男の横顔に、城島はもう一度小さく言い訳のように呟いた。
嫌いなわけやないんよ ただ と。

緩やかに温む水、芽吹く緑、咲き染める花の色。
春がこんなに優しい季節なのだと気付いたのはいつだったのだろうか。
雪も融けぬうちに、畑を起こし、土を耕す。冬のうちに考えた作物をどう育てるか想像しながら始まる作付けの準備。
ライブが行われる時期だと言う事を差し引いても、いつも季節の先取りをしながら生きている自分達が体で春を知るこの時節を自分は心待ちにしていると思う。

だが、元来潔癖性の気来があった自分は、幼い頃、春という時期があまり好きではなかったように思うのだ。
学年が変わる春の訪れは、仲良くなったクラスメートとの別れを無理遣りに教え混み、一年をかけて漸く馴染みはじめ、己のものとして受け入れる事ができるようになった席から自分を蹴りとばし、挙げ句の果てに再び与えられるのは、見知らぬ誰かが使った古びた机。それが何れ程苦痛であったかなど、まあ、この男にはわかることはないだろうが。
ああ、そういえば、春先になれば遠慮なく飛び始める花粉達に、ぐずぐず言い出す鼻先は現在進行形で憂鬱の種の一つ。

「お前もそういつまでも夢ばっかり見てられんやろ」
なあ、城島、そう言って、現実を鼻先に叩き付けられたのは、まだ、高校最後という名の冬も迎えぬ時だったけれど。
春には高校も卒業やしな と強面の、だが、人一倍生徒思いであった坦任教師の言葉は、母一人、子一人であった自分の耳にとても痛かった。
親御さんにいつまで心配かけるつもりなんや?はよ、進路決めんとあかんやろ?と心配気に顰められた表情は未だに忘れられはしない。
テレビの中の世界でしかなかった芸能界を目指して、繰り返される週末毎の上京。それが何れ程親の負担になっているのか等、僕子供やし知らんねん、と笑って目を逸らす事など、デビューの話の目処もない自分にはもう許されぬのだと。

初めて、母の言葉に逆らうように見つけた小さな夢は、春先に解ける雪よりも淡く儚く消えゆくのだと。
あの時程、春の訪れを怯えた事はなかった。

春が喜びの季節など、誰が決めたのだ?

なのに、 と城島は雨垂れの中に濡れる事も気にせぬ風で掌を差し出したままの男の横顔を見やり、小さく溜め息をついた。
「城島君、もう時期卒業だね、高校終わったらこっち出てくるんだろ?」
散り往く春と言うものがこの世にはあるのだと、思いもしない満面の笑みだった。
待ち遠しいね。早く春になればいいのに。
躊躇いもなくさし出された掌を、握り返して良いものか、惑う間もなく掴み取られていた己の右手。

「シゲ?どうした?寒い?」
黙り込んだままの城島に慌てて羽織っていたシャツを脱ぎかけて、濡れてるわ と顔を顰めるとそのまま空いた左手を城島の背に回して、引き寄せるように体を寄せた。
「ぐっさん…」
「すこしはぬくいでしょ」
呆れたような声にも悪びれた様子もなく、とんとその肩に頬をおしつけて小さく笑う。
「ほんま照れもてらいもないな」
「今更でしょ」
せやね と城島も揺れる髪に頬を預けるように目を伏せた。
あの時、この手を握り返した時、初めて、春が終わりを告げる季節ではなく、全ての始まりなのだと知ったのだ。

「あ、雷」
軒下だとやばいかな 中入る?そう伺うような視線の先では、僅かな青空が隙間からちらりちらりと見え隠れするように流れて行く灰色の雲。
「心配ないやろ。虫出しの雷や」
すぐ止むわ と笑った横顔に、じゃあ、もう本格的に春だね とゆっくりと伸びをするように立ち上がる背をまぶし気に身上げながら、城島もきゅっと丸まっていた背を大きく伸ばした。

春、始まりという名を持つ季節まで、後僅か。

–end–

 

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