ぎしりと軋む椅子に背を預け、あ〜あ、と小さく溜め息をつく。
新曲の発売に合わせて、どっと増えるイレギュラーの仕事に、変わる事なく訪れるレギュラー番組。
全く持ってありがたいのかそうでないのか、微妙と言えば微妙な気分。
その上、回りを見回しても誰も来てやしない楽屋はやけに閑散として見えて、認めたくはないけど、どこかにぽかりと空いた洞の中に風が吹くような感じになる。
通りすがりのコンビニで買って来た雑誌を捲る指さえどこか緩慢になり、気がつけば同じページばかりが視界の中に飛び込んでくるのだ。
かちゃり
どれくらいそうしていただろうか、どこか軽い、あくまでも軽いのであって、軽やかではない足音と共に微かなノックの音が響き、同時に押し開かれたノブの音。
「なんや、おったんか」
珍しぅ早いんやね と、まだメイク前らしい素の顔のまま、のほほんとした笑みを頬に浮かべた城島が自然な動作で後ろ手で扉を閉める。
「そっちこそ」
僅かに眇めた目で見上げれば、自分程忙しないからな とほてほてと近づくと許しも得ずにパイプ椅子を引き寄せてとすりと座る。まあ、別に誰の許しを得る必要はないのかもしれないけれど、正面でも隣でもなく微妙に二つ席のずれた斜向いっていうのは、どうも納得いかないような、らしいような、と左目は手許の鮮やかな写真の色に向け、もう一方の視線は柔らかな光を受けて淡い影を作り出す横顔に向けられた。
どこの新聞の広告の裏かはわからないけれど、机の上にはらりと置いた数枚の白い紙と右の手に握られたちびて小さくなった赤鉛筆と、細いピンで止められた柔らかい猫毛の隙間から見える小さなヘッドフォン。
一体何処のオヤジが昼間っから競馬、競輪に嵌ってる訳?と思わず聞きたくなるようなその姿に、一瞬ずるりと手が滑ったけれど。
まあ、と持ち直した態勢のまま両方の視線を漸く手許の色彩に戻して口角を緩めた。
あのラインの先にあるのは、どうせ夜っぴいて奏でられたギターの音が吹き込まれたMDがあるのは分かっているのだ。
いつだったか まだ、MD?リーダーだっせぇよ。PODにしたらいいじゃん と首から掛けた掌よりも小さくスタイリッシュなリンゴマークのデジタルオーディオを城島の前に、長瀬がちらつかせた事があった。
「けどなあ」
へえ、格好ええなあ と笑みを浮かべた跡、微かに渋った口調に、
「え〜だってさ、MACの中で編集した奴、入れればいいんだしさ」
と、嬉し気に、ね、ね と自分のヘッドフォンを城島の耳に被せて、良い音でしょと笑う長瀬に、せやねえ と頷いて。
「けどなあ、まだ、形に成りきれてへん音拾うとう最中の音源やから、まだ、生音のんがええんよ」
ちぇ〜 と詰まらなそうに拗ねたような表情になった長瀬に、ごめんなあ と申し訳なさそうに謝っていたことがあった。
別段、アンタが謝ることじゃないと思うけど? そう、言ったら、せやけど、ほんまにええ音しとるしな、折角、薦めてくれた長瀬の気持を鼻っから否定したようなもんやしな、と困ったように僅かに眉を顰めて笑ってたっけ。
アンタはこいつの母親か? と突っ込みたくなったけれど、まあ、この業界では目の前の男が長瀬にとっては確かに親に近い存在ではあるよな と口を噤んだけれど。
ゆるりと、薄く開いた唇が弧を描く。
同時に、何か書き込む鉛筆の音がぎちりと聞えて、綺麗とはけして言えない独特な癖のある文字が、ここからでは見えない記号の羅列を綴っていく。
けして細いとは言えない指先が、忙しなく胸元に止められたリモコンに触れては、伏せられた長い睫毛が小刻みに揺れる。
彼とのつきあいが一番長いメンバーに、照れもてらいもなく天才と言わしめる詞が彼の中で生まれる瞬間。
誰にも侵せぬキレイな、キレイな一瞬の泡沫。
ふと、何かに気がついたように振り返った厚い硝子の向う側、僅かに瞠かれた琥珀の虹彩が透き通った硝子のように見えて、勢い良く逆流した血液に、どくりと波打った心音が頭蓋骨内を震わすように大きく響き渡った。
やば、そんなに真剣に見ていただろうかと、思わず二三度、目を瞬いて態とらしく音を立てて捲られた雑誌が勢い良くぱさりと裏表紙までひっくり返る。
「なあ」
何か用事か? 多分、そう続く筈だったと推察できる台詞の続きは、あまりにタイミング良く、しかも扉が撓む程に勢い良く開かれた扉の音に掻き消された。
「おっはようございます」
人一人通るには十分だろうと思われる扉が小さく見えるぐらい無駄に莫迦でかい図体、今ではゴリラと呼ばれる程にごつくなった、それでも悔しいことに二枚目で通る彫りの深い顔を笑顔で埋めた男が、あ〜リーダー来てたんすかあ とそのまま、勢いを殺す事なく椅子に座る城島に背後から飛びついて行く。
「ああ、おはようさん」
左耳からヘッドフォンを外した城島が、今日は早いんやねえ とふうわりと眦を綻ばせると飼い主に褒められた犬のようにぐいぐいと頬を押しつけている長瀬が 前の撮りがまいたんで、早く抜けられたんすよ と嬉しげにその手許を覗き込む。
「あ〜、これ次の曲っすか」
アルバムの と言う言葉が抜けてるぞ と思わず目が上に寄る。
それじゃあ、まるで、次のシングルがこの人の書いた曲みたいじゃないか。
「まだ、全然纏ってへんのやけどね」
ここがなあ、と指指す部分を覗き込み、へえ、面白いコードっすねえ、で、これが歌詞っすか と城島の肩においた指がとんとんとリズムを刻み、ふんふんと鼻歌を歌い始める。
「まだ、出来てへん言うとうのに」
そんな長瀬を僅かに見上げる角度で城島が戒めるでもなく苦笑を浮かべる。
それはそうだ。
今、メロディラインを辿る男は、我等がTO KI Oのヴォーカルを預かる男だ。
つまりは、今、まさに、今生まれようとしている詞を己のモノとして歌う事を当然とする存在なのだ。
だが、と、先刻からぶすぶすと燻りはじめた熱が、どんと一気に熱くなる。
だって、まだ、その曲は、お前のもんじゃねえだろ?
「うるせぇぞ。長瀬」
だから、まだ、お前が我が物顔で唇の上に乗せていいもんじゃねえんだよ と声にならない思いを込めて、だんっと、怒りをそのままに机に叩き付けられた雑誌の背表紙がこつりと音を立てて、大きく広がった。
「あれ、いたんすか?静かだから全然気付かなかったっす」
へらり。
悪気なんて一欠片もない、まさにそんな表情を浮かべ、ね、と城島の肩に手を置いたまま同意を求める長瀬をじろりと睨み付ける。
「読書中なんだよ。こっちは」
ぱんとページの表面を弾いた拍子に軽く雑誌の端が破れるが、大体がとこすっかりと読む気など消えていた雑誌なのだから爪の先程も気にはならない。
「えぇ〜、でもリーダーの曲っすよ」
ちょっとぐらい、いいじゃないすかあ と剥れたように頬を軽く膨らませる。
「お前ね、ソレ全然理由になってねえから」
10年前ならいざ知らず、今のお前がそんな顔しても可愛い分けねえだろうがよ。と思うのだが、目の前でほろりと眦に皺を刻み込むように頬を綻ばせた男には、さぞやその仕草が稚く見えているんだろうな、と内心でため息をつく。
それでも、
「長瀬、まだ、コレ出来上がってへんしな」
ここにあるのは、まだ『音』でしかなく、『音楽』ではないと諭すような口調で長瀬の後頭部へとよっこらしょと言いながら腕を伸ばして、とんと宥めるように叩くその表情に小さくため息を零すと、パイプ椅子に腰を降ろした。
再び、読む気なんて欠片もなくなった雑誌を意味もなく捲る目の前で飼い主に呵られた犬のように頭を垂れた長瀬が、ちらりと城島を振返る。
折角、山口君よりも先にリーダーの曲が聴けると思ったのになあ、と再びヘッドフォンをかむり、己の世界に没頭し始めた男の横顔に ちぇ〜 と横を向くと、ポケットに手を突っ込んで、肩からだれんと垂れたバッグをぶんと振り回した。
なんだ、とその姿に思わず口角が揺れる。
「何すか」
珍しくそれに気がついたのか、膨れたままの表情が振返る。
「いや、何でもねぇよ」
ぽいと鞄を部屋の隅に放り出すと、城島の一つ横の椅子を挟んだパイプ椅子、つまりは、丁度目の前の椅子に座り込むと、今だしつこく広げられたままの雑誌を覗き込み、
「これかっけぇっすよねえ」
と頬杖をついた。
ああ、そうだよ、お前はそう言う奴だよ。
切り替えが早いと言うか、物忘れがひどいというか。
振り向いて3歩歩いたその頭の中は、今はもう、このやけに格好つけたモデルが来た服一色に変わってるんだろうけどな。
ちらりと流した視線の先では、伏し目がちにメロディラインを追っているらしい城島の中指がとんとんとリズムを刻んでいる。
ホラ、あの人はあの人でもう既に自分だけの世界。
そういう人だよ。
周りにどれだけ人が溢れようとも、誰にも触れられぬ自分だけの世界を持っていて、エアポケットのようなその隙間に入り込むと、周囲がどれ程騒がしくても、閉じられた世界に触れる事ができなくなる。
まあ、尤もそれがこの人なんだと言ってしまえばそれでおしまいなんだけど。
カメラの前では三枚目。
舞台の上ではエロギタリスト。
でも。
こんなに近くにいる『今』
メンバーさえも知らぬ、見知らぬ誰かの顔になる。
なのに。
時折、悔しいぐらいに優しい笑みを浮かべるから。
そう。
一人、ぽつりと離れた場所にたって。
それこそどこのガキだよって言いたくなるぐらい、騒いでいるメンバーを見つめながら。
ぽってりとした唇を柔らかく綻ばし、普通にしてれば人よりも大きな瞳を弓月よりも細めて、幾重もの皺を眦に刻み込む。
そんな表情をするからお爺ちゃんって言われるんだって言いたいけれど、そんな揶揄を唇に乗せることさえ躊躇われる程に、咲き染める笑みは春先の花のように淡くて。
普段は、こんなおっさんなのにね。
「はよ〜」
まだ、初夏になるかならぬかの時節。
季節など関係なくランニングがトレードマークなの?と思わず、聴きたくなる男の登場に自然顔をあげると目の前の長瀬も、おはようっすと吊られるように振返る。
「あれ?俺ラストじゃねえの?」
とぐるり楽屋内を見回して、まだ、現れない最後のメンバーの姿に苦笑を浮かべる。
しょうがねぇな あいつも忙しいしな とぽりと頬を掻くその手に荷物はない。
梅雨だというのに、早朝からサーフィンでもしていたのか、眠たけに小さな欠伸を繰り返しながら、そのまま、かっきり五歩。
今だ、己の内に籠る男の背後にひたりと歩み寄って。
「おはよ、シゲさん」
なんの躊躇いもなく、城島の作り上げた世界の中へととぷりと腕を突っ込む目の前の男と
「ん?ああ、なんや、自分来とったん」
かけられた声にするりと周囲に築きあげられていた堅固な壁をするりと壊す城島に、思わずむっと唇が歪んで行く。
「そろそろ戻んないと準備」
とんとその肩を叩くと、そのまま促すように腕に掛かる掌。
「貴方さあ、髪型とか時間かかるんだから、自分の楽屋にいりゃいいじゃん」
思わず迎えにきちゃったじゃんと僅かに顰められた山口の表情に城島が小さく笑う。
「やって、自分来とらんのやもん」
一人は寂しいやん と素早く手許を片していく。
何が寂しい だと、無意識に歪んだ唇がむっと、への字に結ばれる。
ここに来て、30分余り。
自分の考えに入りこんで、こっちなど一度も振返りもしなかったクセに。
「ほなな、長瀬」
傍らで、帰っちゃうんすか とへたれた表情の長瀬の髪をくしゃりと掻き混ぜて。
「そろそろ、用意せんとな」
長瀬も、男前にしてもらいやあ とほわりと笑う城島をを待つように扉を開けた山口に、今行くわと振返る。
そして。
「太一も、おおきにな」
とん と指の腹で意味ありげに叩いた広告の裏の鮮やかな特売の文字が目に入る。
莫迦じゃねえ。
仮にも、アイドルの俺たちの曲をさ、そんな安売りの野菜なんかと並べるなよな。
大体、回りに誰が居ても居なくても、アンタは自分の世界に入ると周囲なんて関係ない。
だから、どこで曲を書いても同じのはず…だろ?
なのに。
傍におってくれて と そんな嬉しそうに笑うから。
喉にでかかった文句はあっさり霧散する。
「太一君?顔赤いっすよ?」
「うるせぇ!!てめぇもさっさと用意しろ」