TOKIO

夏休み

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「夏休み ですか」
へらりとあまりにも頼りない紙切れを一枚受け取りながら、城島は、そうよ。嬉しいでしょ と応える女性の前で、はあと曖昧な返事を返した。
「夏休み、企画 とかやのうて、ですよね」
案の定薄っぺらなそれは、そっと挟んだ指先でへろりんと柔らかな曲線を描き、淡い反射を残すようにしながら、小さく揺れる。
「あなたも相当の仕事バカね」
くいと恰幅の良い腕を組んで、ほんの少し下の位置からねめつけるような眼差しの小さな眼に、いや、別に、と柔らかく口角を緩めると、城島はゆっくりとした仕草で、手渡された紙を見下ろした。
「せやけど、どないしたんです?」
休み、等という名前のつくものは、一ヶ月に一二度有れば良い方、人様が休みをとるのが当然の、年末年始は朝から晩までびっちりとスケジュールが真っ黒になるのが当然の芸能人。否、そうでなくては、困るといったところなのだが。しかも、売れている間はとことん働け、が信条の業界トップアイドル所属の事務所なのだ。それが急に夏休みを取って良いと言われても とそこまで考えて、城島は、軽く柳眉を寄せると、あのぉ、とほんの少し躊躇いがちに口を開く。
「もしかして、僕ら仕事がなくなった なんて」
「心配しなくとも、5年先まで予約が入ってる状態だから」
テーブルに置かれたボックスから取り出した華奢なシガーを銜え、はっと息を吐きながら優雅な仕草で足を組み替える。
「せやったら、なんで急に」
「世間体」
「はい?」
あまりにも聞き慣れないその言葉。聞き慣れないというのには語弊がある一般的な言葉ではあるのだが、我が道はこの一本と言わんばかりのワンマンで、同族企業の象徴のような会社。しかも、この事務所に所属する芸能人がテレビに映っていない時間は、朝方ぐらい、と言って良いほどに、テレビ画面を占拠している会社に、表立って異を唱えるような強者の芸能・マスコミ関係はないのではないだろうか。だが
「昨今の社会情勢でね、契約社員への冷遇が取りざたされてるでしょ」
「まあ、そうですねえ」
独特のイントネーションで、こっくりと頷いた城島に、どぎついようなルージュをひいた唇をきゅっと歪めると、そういう事よ と僅かに眉を顰めた。そういう事言われても と城島は、はあ、と日本人特有の返事を返した。
「J事務所は、所属しているアイドルを働かせるだけ働かせて、それだけに見合う待遇をしてないなんて言われたくないからね」
せめて、休みぐらいわね ととんとシガーを灰皿に叩き付ける、そのどこか忌々しげな口調に、
「確かに、僕ら契約社員ですけどねえ」
と、売れなくなったらそこまでの とまでは口に出す事なく、城島はにこりと笑ってみせた。
「アンタたちだけじゃなく、他の子たちも折を見て順番に休みを取らせるつもり」
まあ、もっとも、レギュラーやドラマの撮りの最中の子は必然的に、短いか、あるいは飛び石になるけどね と社長の姉であり、副社長でもあるメリー女史は、仕方がないわね と苦笑を浮かべると、そういう事だから、と城島の手の中の紙を手入れのされた爪で軽く弾くと、深く腰を下ろしていたソファからゆったりと立ち上がった。
「話はそれだけだから」
他の子にも話といて、話は終わりとばかりに、机の上の書類を音を立てるようにして揃えると、態とらしい仕草で眼鏡の弦をくいと押し上げ、頼んだわよ、とそのまま視線を手元の書類へと落としてしまった女史の旋毛を見下ろした後、城島は小さく一礼をして、踵を返した。

「一週間の夏休みねえ」
それだけの長い休みをとったのはどれくらいぶりだろうか。デビュー前の自分たちならば、休みたくなくとも、仕事がなくて、休業状態という日々を過ごしてはいたのだが。
今現在は、ありがたいかな、年末年始もお盆もない、忙しい家業。
どないして過ごしたらええんやろうなあ、計画、今からたてとかんとあかんなあ、と何気なく手の中の紙へと視線を落とした城島の悲鳴のような叫びが、メンバーのたむろする階下の会議室まで響き渡ったのは、それからたっぷり時計の針が一周半した後の事だった。

「って、明日から?」

我先に飛び出してきたメンバーの驚いたような表情をちらりと見上げ、城島は、その紙を黙って目の前につきだしたのだ。

 

1日目

どんっと音を立てて取り出したのは、少し小さめの寸胴の鍋。
小さめとは言っても、普通の家庭に普段使いであるか と言えば、ないと応えたくなるような代物だ。ましてや、男一人暮らしの台所にはあまりにも似つかわしくないようにも思える。
ごぉっという音を立てながら、溢れて行く水を見つめながら、何を作ろうかな とちらりと冷蔵庫を振り返る。
煮込み料理、まあ、この時節に作るのは、ちょっとな と思うのだけど、普段、ゆっくりと煮込む時間などとれない生活を送っている城島にとっては、なかなか魅力的な時間の使い方に思えた。

「だから、なんで明日からな訳?」
これ、と差し出された紙を何よソレ、と縁なしの眼鏡の奥で、きょろりと瞳を動かしながらも受け取った松岡の手の中を覗き込みながらの山口の第一声がそれだった。
「ていうか、夏休みってなに?」
「ちょっと待てよ、俺、3日しかねぇの?」
口々に好き勝手な事を言い出したメンバーに、急に騒がしくなった廊下から、メンバー達の待合室になっていた会議室に河岸を変え、とりあえずは、と各々の前に冷えた麦茶が配られる。
「で?」
「で?って何よ」
ずいと身を乗り出してきたのは、メンバーの中、最も休みの少ない国分のぎょろりとした三白眼。
「だからさ、なんで急にこんなもん持ってきたわけ?」
「こんなもんてな」
僕に言われたかて と軽く拗ねたような口調になるが
「可愛く言っても、俺らには効果ないからね」
あっさりと切ってすてられ、別にそういうわけやないねんけどな と苦笑を浮かべる。
「僕かて知ったんはつい先刻や」
メリーさんに呼び出されてな と松岡に入れてもらったお茶をこふりと啜った。
「つまりは、決定事項な訳だ」
「そういう事」
一見、放任され、好き勝手に動いているようには見えて入るが、所詮使われアイドルだ。上の決定事項に、大きく抗えるはずもない。
「太一と松岡はどうしても撮影が外せんかったらしいわ」
ま、仕方ないね と自分の生活を顧みて、浅いため息を一つついて。
「俺、明日っから休みってことっすよね」
下あごに薄らと伸びたヒゲを手の平でぐるりとこすると、長瀬が、うっしゃあ、と一言叫ぶとノーパソを取り出した。
「一週間ねえ」
何すっかな、と文句を言った割には嬉しげに頬を綻ばせ、やっぱ、海かな と携帯をくりくりといじりだした山口に
「早いなあ」
と、ぽつりと零す。
「アンタもさ、人の事羨んでないで、明日から何するか考えてみたら?」
もったいない と頬杖をついた松岡の休みは、2日後から始まる。
「せやねえ、まずは、部屋掃除して、たまっとう選択して」
「だから、いつも出来ないことしろっての」
「そんな休みなら俺に譲れよ」
計画を立てるのは、少し先の二人に、そう言うてもなあ とぽりぽりと頬を掻いて。
「長瀬は、何見とるん?」
「何ってわけじゃないんすけど、道調べてるんすよ」
ラーメン食いにツーリングでもしようかと思って とにかっと笑う。
「どこ食いに行くんだよ」
「まず、北方行って、秋田かな、そのまま北海道つうのもいいかなって」
ぴっと立てた指の方向は、問いかけた国分の鼻先に向けられる。
「お前何日行くつもりやねん」
「一週間」
その言葉に城島はきょとんと瞬きを繰り返し、
「そないに長い時間、つきおうてくれる奴おるんか?」
開かれている高速道路の画面を覗き込んで、小首を傾げる。
「居ないっすよ」
若旦那は、パパになっちゃったからそんなに家開けられないだろうし、急だしね、と事も無げに笑い
「一人で行くに決まってるじゃないですか」
「んな、無茶なこと」
「リーダー、無茶って、こいついくつだと思ってんの?もうじき三十路だよ」
「そやけど、長瀬一人で新幹線の切符買えるか?」
ずっとマネージャー任せやろ?泊まるとこかて、そないに急にあらへんし、といい募る城島の肩をとんと叩いて。
「あのね、シゲ」
「大丈夫っすよ。バイクだから、切符買う必要ないし、泊まるとこなんて、ユースでもなんでも突然行っても泊まれるし」
「やけど、何の準備もしてへんやろ?」
着替えもなんも と指を折る。
「パンツ3枚とTシャツ3枚あればそれで十分でしょ」
Gパンは寝る前に洗えば、朝、乾いてるだろうし、パンツもTシャツも、その都度洗えば良いしね、とぱたんとPCを閉じた。
「じゃ、俺、今日仕事終わったし、バイクメンテしに帰ります」
「連絡だけはこまめにしぃや」
誰にでもええからな、となおも心配げな城島に、長瀬はもう一度にかっと笑うと、明日早いからじゃあね〜と飛び出して行った。
「アンタもさ、アイツのこと見習って、有意義に時間過ごしなよ」
くれぐれも、いつもと同じ事しないように と頭上一つ上からの言葉に、城島は、しゃあないなあ と軽く肩を竦めてみせた。

 

「あれ?」
目を覚ました長瀬の視界に飛び込んできた目覚ましの文字盤の時計は既に、午後を大きく回った所を指している。
「あ〜、昼飯にラーメン食うつもりだったのにな」
ま、いっか、と準備していたリュックを肩に担いだ。

山口は、早朝を指し示す文字盤を半分寝ぼけたような霞んだ視界の中でぼんやりと見つめる。
たりぃよなあ、夕べは、ちょっと飲み過ぎたしな。
なんと言っても夏休みなのである。一日ぐらい、寝過ごしたって、まだ、明日があるのだ。だいたい、小学校の頃から、夏休みと言えば、朝寝坊が定番だったはずだ と再び枕の上に突っ伏した。

こうして彼らの短い夏休みが始まった。

2日目
「何の嫌がらせ?」
大きなスプーンで目の前のブラウンソースベースの煮込み料理を口に一口運ぶと、眉間に寄せた皺はそのままに、国分が低い声で一言そう問うた。
「嫌がらせて」
勝って知ったる他人の家、ではなく、通い慣れたテレビ局の楽屋。
本日の主の許しを請う事もなく、部屋の端に設えられていたポットから、とぽぽと急須に湯を注ぐと、これまた勝手に、伏せられていた湯のみに茶を煎れる。
「大体なんで、アンタがココに居るのか、まだ、聞いてないんだけど」
ぷしりと千切った塩味ベースのパンは、少し味の濃いソースによく合う味だ。
だけどね、と国分は、注がれた水を素直に飲みながら、目の前に座り直した男の横顔をちらりと見やった。

—–二日目—–

朝からのタイトというわけではないが、そこそこ忙しい撮影スケジュール。
昼も大きく回ったぐらいに、漸くとれた昼休憩。出演者初め、スタッフたちもそれぞれに煙草を銜えながら、昼食をとりに出て行く。もちろん、ロケ弁も用意はされていたけれど、近くから大量にとる仕出し弁当だ。少し時間が経つと、じとりとにじむような油が回り、夏向きとは言いがたいそれに多少飽き飽きしている他のスタッフたちと連れ立って、近くの洋食屋にでも出かけようと降りてきたエントランスで、見かけた見慣れた細い後ろ姿に、国分は思わず一歩後じさった。
「ああ、お疲れさん」
話していた相手に、後ろを指差され、ふうわりと綻ぶような笑顔で振り返ったのは、今更どうやったって、見間違うはずもない、あたりまえだ、互いのアレが道に落ちていても見分けがつくと豪語できるだけのつきあいの長さと認めたくないが深さを誇るメンバーの一人。
「なんでいんの?」
「ん?陣中見舞い?」
先行ってますよ と声を掛けるスタッフに、軽く手を挙げて、
「俺に聞かれても困るんだけどね」
とりあえず、行く?上 そう天井を指差した国分に、城島は、せやね、渡したいもんもあるしな と曖昧に笑ってみせた。

「だから、陣中見舞い言うたやろ」
それ、差し入れやん、と指差された先にあるのは、先刻から、国分がせっせと食べているビーフシチュー。大きめに切られた夏野菜と柔らかく煮込まれた牛肉が絶妙で、悔しいかな、美味いのだ。
「他のメンバーが夏休みを満喫しとう中、働かされてる太一のために、わざわざ持ってきたんやんか」
心優しいリーダーやろ、そう、呵々と笑い、なかなか美味いやろ と頬を綻ばした。
「松岡にも?」
その言葉に、城島はぴたりと動きを止めて、苦笑のようなものを浮かべる。
「行っとらん」
「なんでさ」
ぱくり、と大きな口の中に放り込んだジャガイモがほろりと下の上で崩れおちる。
「やってなあ」
そういうと
「芸能界の中でもトップクラスの料理の腕の持ち主やで」
ちょっとくらい美味くできたから言うて、食わせんのは、酷かなあ て思うやろ。
そうぽりぽりと米神を掻くとせやからなし、とからりと笑う。
「そう?んなの気にしなくても、十分美味いと思うよこれ」
「まじ、美味いか?」
良かったあ、ほっとしたわ と胸を撫で下ろした城島に、国分はむうと唇を歪めると目の前のスプーンの上で揺れるソレを見下ろした。
「あんたな、もしかして、自分が食ってもないもん人に食わせてんのか?」
いったいどこのエプガだ とだんと机を叩き付けた。
「や、食った、味見はした、してんけど」
そう言いごもると、もう一度、なあ、と伺うように国分を見て、はあと小さなため息をついた。
「昨日、一日掛けて、それ煮込んだんはええねんけどな」

皿に移し、ビールの缶を開け、いざ、その前に座ったものの、ここ半月ばかりの暑さにすっかりとやられていた城島の胃は、そこから立ち上る香しいはずの匂いにも、何の反応も見せず、逆に表面化する拒否反応に、結局
「サイドメニューの冷や奴だけで満足してもうたんよ」
しゃあないな、おっちゃんは、と自分で自分を貶めるようにして、眦を綻ばした。
「つぅことは、これは残飯処理?」
「ちゃうよ、はじめから持ってくる気ぃではおってんで」
ただ、量がなあ、と国分の目の前に置かれたタッパのサイズを見て、すまんなあ と呟いた。
「山口君にでも持ってってやればいいのに」
喜ぶんじゃないの? と言いながらも、自分と違い夏バテにはほど遠そうな食欲を見せる国分に、せやけどなあ と口元をきゅっと結ぶ。
「あいつに電話でもしてみぃな」
暇?なら、サーフィンでもする? 大丈夫簡単だって、今から迎えにいってあげるからさ。
「そのまんま満面の笑みで、速攻、海につれてかれて、さんざんつれ回されるやろ。あげくの果てには、筋肉痛に陥って、悲鳴上げとう間に、せっかくの夏休みが終わってまうんが目に見えとうわ」
そんなんもったいのうてようせんわ とふるると体を震わせると、
「せやから、あいつから電話がかかってきてもとらへんて、決めてんねん」
握りこぶしを作って、うんと一つ頷いた。
「つか、自慢になんねぇよ。それ」
ま、おかげで俺はご馳走になれたんだけどね、と国分は、白い皿の底が見え始めたそれをぺろりと舐め、大きな眼を綺麗な弧を描くように細めた。
「長瀬も、ラーメンツアー中だっけ」
そう言いかけて、ああ、と国分は携帯電話を引っ張り寄せると、そのまま、これこれ、と画面を繰るようにして城島の目の前に突き出したのは
「ラーメン」
画面一杯に映っているのは、立ち上る湯気で半分画面の曇った熱々のラーメンの映像だった。
「あんにゃろ、メールの中身なしで、これだけ送ってきやがるの」
「ええなあ」
「だろ」
これ美味そうだよなあ と続き掛けた言葉は、心底羨ましげな表情の城島に喉の奥にするりと消える。
「僕には、メールどころか写真もこぉへんわ」
おっちゃん、寂しいわ、そうがっくりと肩を落として。
「ほな、僕、帰るから、それ、頼むわな」
残りも片しといてな、とそのままどこぞのしょぼくれた親父のような背を向けた城島を振り返る事なく、国分は了解と片手を上げてみせた。

◆◆◆

「って、あんたらはいったいなんなんだよ」
城島にひらひらと手を振って、僅か5分後の事。後10分ほどで、マネージャーが呼びに来る時間だ。
「なんだよ。その複数形は」
「なんだって、リーダー」
「あ〜、あの人来てたんだ?」
「なんだ知ってて来たわけじゃないんだね」
体を半分ずらせるようにして道をあけた国分に、おじゃま と言うと、するりとこじんまりとした楽屋に滑り込む。
「ここの局の前のラーメン食いに来ただけだから」
長瀬の奴がさ、ラーメンの写真送ってくるから、どうしても食いたくってさ とぽんと叩いた腹は、ほんの少し膨らみを帯びており、どんなけ食べたんだ、この人は、と国分も何度か訪れた事のあるラーメン屋に思わず心の中で合掌をする。
「てかさ、あんたら二人ともせっかくの夏休みに、人の仕事場に来るなんてさ、よっぽどする事ないんだね」
「や、昨日はさ、一日寝て過ごしちまったけどさ、今日は、早朝から海行ったよ」
けど、だめだね、この季節は、と首にかけていたタオルでぐいと汗を拭い、ソファーから吹き出す風を満面に受けて、ふぃーと気持ち良さげに声を上げる。
「子供っつぅかさ、観光客が、朝、8時すぎたら、浜辺のあたりうろうろしててさ」
危ないし煩いしで、帰って来ちまったら、暇でさぁ、で、こんなとこまで来ちまったとからから笑う。

「で、これ、何?」
「タッパウェア」
見てわかんない?と小首を傾げた国分に、
「や、中身」
聞きながらも、さっさとプラスチックの蓋をぺろりと開き、ふんふんと鼻先をつきつけて。
「食っていい?」
「いいけど」
飯、食って来たんじゃないの?という台詞は、我がJ事務所きっての大食漢に、ごくりと喉の奥に飲み込んで
「うめぇ、あの人また腕あげたんじゃないの?」
なんで、リーダー手作りってわかるんだよ、という心の叫びも、きゅっと閉じた唇の奥、腹の底深く沈んで行く。
「あの山口君?俺、そろそろ、行かなきゃなんないんだけど」
「あぁ〜、そっか、うん、いいよ」
「そういう事じゃなくてさ」
「俺、これ食ったら勝手に帰るからさ」
気にしないで行っちゃって と振り返りもせず手を振る山口に、あぁうん悪いね と切れ味の悪い返事を残し、国分はどこか納得しかねる表情のまま、かたんと扉を押し開けた。
廊下の向こうから、案の定時計を見ながら走ってくるマネージャーの姿に、今行く、と声を掛けて、一瞬、せっせとタッパを空にしている男の背を振り返って、はぁ と一つ大きなため息を零した。

ほんとに、あんたら二人何しに来たんだよ。

夏休み三日目

「だからね、別に心配したとかじゃなくってさ」
そう言うと長い足をゆっくりと組み替えて、葉ずれの隙間から落ちてくる木漏れ日を目映げに見上げる。
「え?あんた、もう3日目でしょ。そうよ。俺は今日から。だから、暇なわけないじゃん。俺ぐらいになるとね、お誘いもひっきりなしなんだけどさ」
その前を通り過ぎている妙齢の女性二人組が、携帯電話に話しかけている男を振り返り、指差すようにして通り過ぎて行く。
先刻から飽きる事なく繰り返される、興味と好意の滲んだその視線に、男はきゅっと口角をあげることだけで応えると、再び視線をじりじりと肌を焼く空へと戻した。
「だけど、アンタが暇してんじゃないかなって。初日から、こもって料理してたって聞いたよ。え?兄ぃよ。兄ぃ。うん、太一君とこで食ったって聞いた」
しっかし、暑いなあ と額にじわりと吹き出す汗を手の甲で拭うと、肺に溜まった熱い空気を吐き出すかのように浅い息を一つついて、場所を移動するためにゆっくりと立ち上がる。きょろりとあたりを見回すと、すぐ近くに見えるのは小さなコンビニの姿。
「だから、気にすんなって。そうそう、4日ある1日ぐらい、つきあったって、ま罰はあたんないと思うわけよ」
しかし、流石に電話をしながら、店はまずかろうとそのまま話を続ける。
「それでね、アンタの好きそうな店、見つけたのよ。別に、アンタのために探したんじゃないって、そう、偶然ね、ダチと入った店がさ、そんな感じかなぁって思ってさ」
「今晩、7時に●●駅前にある本屋ってどう?そ、意外過ぎて、誰も気づかないよ。そしたら、後でね」
了解 と一言返すと、よっしゃあ、と、男はガッツポーズを一つ作った。
「これで、完璧でしょ」
うんうん、と二回頷くと、長いスライドを生かすようにして小さな車道を横切ってコンビニに入った。
「ふぃー生き返るわ。やっぱ」
缶珈琲を1本買うと、ほんの少し名残惜しげな表情になりながらも、自動扉をするりとくぐり抜け、プルトップをぷしりと引き上げて、そのままぐびぐびとコーヒーを飲み干して行く。
「喉はやっぱ潤しとかなきゃでしょ」
準備万端と携帯電話を押し込んだポケットから再び引っ張りだした。
「台詞もOK、喉も完璧」
すぅっと一つ大きく息を吸い込んで、ペアボタン1を押す。
リハも大丈夫だったし、と先刻の自分を振り返り、耳を送話器に押し当てた。
『電源が切れているか、電波の届かない場所に』
流れ込んでくる無機質な声に、ほんの僅か口角を歪めて、
「ったく」
小さく毒づくと、再度ボタンを押して、次は家電へと矛先を変えたが。
『ただいま留守にしております。御用の方は、Pi』
無情に流れてくる女性の声に、両肩をがっくりと落とした。

 

夕べはすっかり飲み過ぎた。
重怠い頭にタオルで巻いた氷を押しあてると、どこか覚束ない足取りでベッドを降りる。
国分の陣中見舞いの後、ふらりと立ち寄った一件の居酒屋で、偶然出会った旧知の友人に、夏休みだと苦笑すると、なら、つきあえ と伸びて来た手に連れられて、翌日の事を考える事なく、河岸を変えること3回。その都度、出会う見慣れた顔に、勧められるままに干したグラスは片手では足りず、
「まあ、楽しかったわな」
そう、呟きながら、ふと携帯を見ると、明滅するサブウィンドウにメールのアイコンが合った。
「なんやの?これ」
差出人は、遠く離れた地を走っているらしい長瀬の名前。
リーダーおはよ、短い一行に添付されているのは
「黄土色の水?」
なんやろ、これ、と深く考える事なくそれを放り出し、改めてグラスに注いだ水を飲む。
飯食うのおっくうやけどな、そうぐちりながらも、冷蔵庫の中、ラップで包まれていたご飯を取り出して、鍋に放り込み、ミネラルウォーターを惜しげもなくどぽぽと注いでいく。
「ま、二日酔いの朝は、梅干しとお粥ぐらいが胃にはええよね」
朝方まで飲んで、よい気分のところを押し込められたタクシー。それがマンションの前についたのは、もう、新聞配達が動き出している頃の事。
そして、今は、 と時計を見上げるよりも先に、ぴぴっと小さな電子音とともに届いたのは、長瀬からの新たなメールに軽く眉を顰め、それから小さく笑みを浮かべた。
「きれい やな」
画面に一面に広がっているのは、先刻見た色とは全く違う水面の写真だった。
青く、柔らかな光を帯びるとように透き通ったそれ。
「青池か?」
なんや、ちゃんと観光もしとるやん と口角を緩め、自然綻ぶ眦をそのままにして、城島はガスコンロに火をつけた。

◆◆◆

「さて」
目の前のほんのりと焦げ目のついたシーフード、サザエにホタテ、エビというなかなかな豪華なラインナップが所狭しと麺を覆い尽くしているラーメン鉢の写真を山口の携帯に送りつけ、緩やかに立ちのぼる湯気を満喫するように、ずるりと音を立てながらそれを啜る。
一度、どっかの彼女に、行儀が悪いと言われた事があったけれど、ラーメンとはこう有るべきだ とわざと音を立てるようにして食べてしまう。それが男らしいとかそういうのではないけれど、麺は音まで楽しむ食材だと思う。
「うめぇ」
相変わらず語彙の乏しい奴だな と端で国分でも聞いていたなら、後頭部でも叩かれそうだが、深い森の木々に包まれた世界遺産の麓の店で、ラーメンを啜っているのは、長瀬一人だ。
サザエの身を器用にくり出して、腸もそのままにちゅるんと吸い込み、その苦みに舌鼓を打つ。その間にも、長瀬は、携帯の画面を器用に繰りながら、JALのホームページを引っ張りだした。

◆◆◆

小さなショルダーを肩に駆け、ほんの少し駆け足になりながら、城島は、飛行場にずらりと並んだ自動チェックイン・発券機の前でカードを放り込むの、一時間ほど前に、ネットで抑えた席を手に入れる。
ちらりと見上げた視線の先で、からからと回る搭乗案内板には、登場予定の飛行機は既に空港についているらしい。
「急がんと」
ずりっと落ちかけた黒縁眼鏡を押し上げて、足早に搭乗口へと向かった。

◆◆◆

彼の行きそうなバーにあたりをつけ、といってもまだ、昼を回ったところだ。店が開いているはずもなく、ちぇっと軽い舌打ちを打つと、もう一度城島の携帯にコールをするが、相変わらず帰ってくるのは、無機質な女性の声。
「何なのよ、一体」
そう、ぼやくと、携帯のアドレス帳を開いた。

◆◆◆

「だからね、リーダー」

梅をたっぷりと乗せた粥を食べ終わり、遅すぎるブランチにぱんと張った腹を摩りながら、今日はどないしょうかなあ と優雅に計画を練り始めた城島の時間をぷつりと断ち切ったのは、唐突に鳴りだした我らが末っ子の長瀬からの電話だった。
「写真、おおきにな」
リーダー何してんの? と掛かって来た声に、青池やろ、そう、返すと、ああ、さっき山口君にも送ったんだよね ラーメンの写真 と楽しげに応え、気持ちよいよ ここ、等と他愛もない会話を交わす事数分。
コンクリートと熱風に囲まれた東京から遠くはなれた東北の地、さぞや涼やかな風が吹いているのだろうと、楽しげな長瀬の口調に頬を綻ばしたが。
「ところでさ、リーダーの携帯●●社で、俺のと一緒だよね」
ころりと展開した内容と、確認するようなその言葉に、ほんの僅か耳から外した携帯のロゴを確かめて、せやね、と応えた城島の口から、次の長瀬の台詞に、はあ?という声が溢れる。
「だからね、リーダー、充電器貸して」
「貸してて、今自分、何処におる思てんの?」
「ん?どこだろ、隣に五能線ての?走ってるけど」
「走ってるて自分なあ」
「あ、やば、もう、電池切れそうだから、電話切るね、じゃ、リーダー、青森空港で待ってるからね」
「ちょぉ、待て、長瀬 って」
だが、城島が叫んだときには、既に長瀬へとつなぐラインはぷつりと途切れ、すぐに駆け直した城島の耳に届いたのは、『電源が切れているか、電波の届かない場所に』という無機質な音声だけであった。

◆◆◆

ったく、と城島は、ほんの少しふらつく足下をそのままに、延々と続くターミナルをへろへろと歩いていた。羽田や成田ほど長くはないが、地方空港とはいえ、降り立った青森空港は、くぐればすぐに搭乗口、という状況の屋久島や奄美大島のように行くわけもなく。
「国内線は苦手やねん」
乗り物に強い奴にはわからんやろうけどな、あがって降りて、ずっと酔いっぱなしや、言うねん、そうごちりながら、周囲のちらちらと振り返る視線にも気づく事もなく歩いて行く。
長瀬の電話を受けてから既に6時間近く。
最初の1時間は、アホかほんま、と取り合う事なくどかりとソファに腰を下ろしたのだが、1時間半後、もう一度、長瀬に電話を掛け、やはり通じないそれに、ほんの少しの焦りを感じはじめる。
自分を遠の昔に見下ろすようなガタイに成長し、TOKIOのヴォーカルを預かるあの男は、その強面な顔からは想像できないほどに純粋で、真っすぐで、考えなしなところが多々ある。三十路近い男につける形容詞ではないけれど、言うなれば、純粋?と語尾上げで、城島は自分に問いかけた。
「じゃ、リーダー、青森空港で待ってるからね」
先刻から脳内を何度もリピートする長瀬の台詞。
「あかんわ、あの子やったら、本気で待っとう気がする」
がたりと立ち上がり、PCの電源を入れたのは、長瀬の電話から2時間後の事だった。

くるくると回るベルトコンベアの前、鞄の出待ちをしている人たちの横をひょこひょこと通り抜け、漸くたどり着いた出口にほうとため息をつき、さて、とあたりを見回した。
『青森空港』は良い。放っておいてもたどり着く。だが、夏休み、青森と言えば、ねぶた祭。ちょうどソレが開催される時期にほど近いのだ。祭りを目当てに到着した人、家族を迎える人等でごった返している空港の景色に、軽く眉を寄せながら、とりあえずは、どないしようか、と壁際に移動しながら、城島は、携帯電話を取り出した。
「今度は繋がるやろか」
周囲を見回しながら、ぴっと受信をオンにすると同時に、ぴぴぴっと鳴りだした電子音。
「あ、リーダー?」
「長瀬か?これ携帯やろ?」
電源大丈夫なんか、 と続いた言葉に、前まっすぐ見て、と言われた言葉に、小首を傾げながら視線をあげた城島に向かって、バスターミナルの向こう側、大きなバイクに腰掛けながら嬉しげに手を振っている男の姿が見えた。

「リーダー今からどうすんの?」
「どないするって、こんな時間やしなあ」
午後の8時を回った時刻。小さな紙袋を手渡した時点で、城島がここまでやってきた役目は終わりだ。最終便ならば、まだ、あるのだが、まだ、乗り物酔いが残ってる体調で、流石に、すぐに飛行機には乗りたくはなかった。
「どっか、近くでホテル探すわ」
明日帰る、とへにゃりと笑った城島の頭に、かぽりと長瀬がヘルメットを被せた。
「何すんの?」
「だって、泊まるんでしょ」
小首を傾げて、
「俺、ちゃんとホテルとってるんすよ」
リーダーの分も、と小さなショルダーをくいと取り上げてしまうと、はいと自分の座席の後ろをぽんぽんと嬉しげに叩いた長瀬に、城島も笑みを浮かべると、しゃないなあ と長瀬の後ろへと乗り込んだ。

 

夏休み四日目

ぷしりとむしったパンの生地からはらはらと無数の粉が白い皿の上に舞い落ちて行く。
濃いバターを練り込まれたのであろう、しかりとした味を持つクロワッサン。その昔、ウィーンでトルコ軍を打ち破ったときにトルコの国旗である月をモチーフとして生まれたパン(伝承)。
「朝はやっぱり米やろなあ」
美味いんやけどなあ、 と幾重もの層になったそれをもうひとかけら口に放り込むと、熱いカフェ・オレでこくりと流し込む。
まあ、明日の朝はしかりとした米の飯を炊けば良いのだし とスクランブルエッグをフォークで、つつくように掬いあげる城島の目の前で、長瀬がうんうんと一冊の雑誌を覗きこんでいるこの場所は、夕べ、長瀬と共に泊まった青森のビジネスホテルの1階にある小さな喫茶店だ。
普段は道行く誰もが利用できる店らしいのだが、朝は宿泊客専用のカフェになる、らしいな と城島はちらりとあたりを見回した。平日のビジネスホテルらしく、そこここでカップを傾けるのは、ぴしりとアイロンの掛かったYシャツに夏らしい絽の背広姿のサラリーマン。
その中で、自分たちはさぞや浮いている事だろう。
だが、自分たちは夏休みなのだ。気にすることもあるまい、と皺のよったポロシャツの自分をちらりと見下ろした。
「やっぱり、こっちの道も方がいいっすかね」
ね、リーダー とあげられた、まだ、ひげもあたってないらしい濃い顔立ちの男が、伺うように視線を寄越す。
「自分がどこに行きたいかやと思うんやけどな」
「そうっすね、やっぱり、奥入瀬渓流は外せないみたいだし、十三湖でシジミラーメンも食べたいんすよね。リーダーはどっちに先行きたいっすか?」
その言葉と共に目の前に押し出された雑誌に、はぁ とため息をついて、嬉々とした表情の長瀬の顔を見た。
「なあ、それ、いつ買うたん?」
「さっき、そこのコンビニで」
と、やっぱりドライブルートだったらまっぷるっすよね、と開いているのは青森全図が掲載されているページだ。
そして、その時に一緒に買って来たらしい、蒸しパンを齧っている長瀬なのだが、既に、二人分のモーニングを平らげた客に、店側もなんの文句ないらしく、逆に珈琲のお代わりを注いだマスターに城島は軽く頭を下げると、長瀬の顔をもう一度ゆっくりと振り返った。
「なんで?」
「買った理由っすか?」
「せや?」
「だって、リーダー、行きたいとこ聞きたかったから」
後ろに乗ってるだけだとつまんないでしょ と事も無げに言うから。
「僕が行きたいとこは、青森飛行場」
方向は真逆やで、ととんとんと長瀬の指さす場所から、離れた場所にある飛行機のアイコンの上を叩いたが。
「え〜、リーダーここまでやってきて、帰っちゃうんすか?」
「あんなあ」
誰の所為やねんと軽く唇を尖らせると
「もったいないっすよ」
帰りの飛行機代、と目の前の男臭い顔が子供のようににぱりと笑う。
「だから、リーダーも一緒に行きましょうよ」
「あのな」
「夏休み、まだ、半分ありますよね」
そういって折り返した人差し指は、はじめから数えても、後ろから数えても、丁度4番目でふらふら揺れる。
「あのな、長瀬」
「だって、まだ、4日あるんですよ。また、リーダー呼びつけなきゃなんなくなるじゃないですか」
「はい?」
「携帯電話」
と言って、指差したのは、机の上でちんまりと畳まれた夕べ一晩充電しっぱなしだった携帯電話。
あんなあ ともう一度呟いた力ない声に、微かに含まれた柔らかな笑みに、決定〜 とTOKIOきっての男前が子供のように破顔した。

◆◆◆

「昨日、長瀬からメールが来た」
そう言って、差し出されたメールの画面には、魚介類たっぷりのラーメンを松岡の目の前にぐいと突き出した。
「俺の方はさ、寿司だったのよ」
そう言うと、鮮やかなまでの艶やかなネタの寿司が並んだ高台ゲタの写真を繰るようにして、画面を見せる。
「店、調べられんだろ」
その前にちんまりと並べられた割り箸に書かれた店の名前と、電話番号に、了解とNoを押す。
その隣で、山口は、どこにいるんだか と、そう小さくごちると、山口もまたぴぴっと携帯の履歴をたどるようにして電話を掛けた。

◆◆◆

頬に触れた風が、じっとりと額に張り付いた髪を攫うように流れて行く。
風を切る というのはこういう事か、と城島は、止められたバイクの後ろにちんまりと座りながら、ふわあと両腕を伸ばしながら、どこまでも青い空を見上げた。
こうしていると、まるで、空に落ちて行くようだ。
全ての柵を断ち切り、この両手を広げたままに、この青の中に幾重もの波紋を描きながら、落ちて行けたなら、さぞや心地よい事だろうと。
すぅと腹の奥を通り過ぎて行くつめたいまでに心地よい空気の塊に城島は、ふと口角を緩める。
目の前の車道を通る車の姿はなく、耳に届くのは葉擦れの音と、鳥の声。
まるで、世界で一人しかいないようだ。
最も、10mも離れていない場所では、城島をここまで引っ張って来た張本人が、店先に並ぶ地場産の果物に目を奪われながら、味見に舌鼓を打っており、遠巻きに、城島に気づいているらしい観光客が、振り返りながらも通り過ぎていくのだけれど。
それでも、広げた両手の先に掴む指は空を切り、瞬いた視線の先に人はない。
ふつり と心の内に浮かんだ泡のような感情に、城島は襷がけにした鞄の内ポケットから携帯を取り出すと、ぴっと電源を入れた。

『おぅ、あなた、どっから電話してんのよ』
松岡がさ、いじけてるよ、そう、1回目のコールで繋がったラインの先から溢れるような力のある声に、城島はくふりと笑みを零した。
「あんな」
あなたと飲むつもりで電話したら繋がらないって と続く山口の言葉を遮るように、城島がぽつりと言葉を落とした。
「気もちええんよ」
空が広うてな、遮るもんが何もなくてな そうほとりほとりと溢れる声に、山口は、うん、と小さく頷いた。
「なんか、言いたなってん」
『そっか』
城島のしゃべるに任し、相づちだけを打っていた山口が、柔らかな笑みの含んだ声で、良かったな とそう応えると、城島は、おんと子供のように大きく頷いた。

◆◆◆

ちぇ と両手に持ったソフトの片方を齧るようにして飲み込むと、小さく舌打ちをする。
ほんの目と鼻の先で、電話に向かって一所懸命、言葉を探すようにして話している男の、長瀬にとっては見慣れぬ幼子のような表情を浮かべたその横顔。
遠いんだよな と足下を石を蹴り、その表情をみたくないかのようにふいと横を向く。
そう、いつだってあの人との間には距離がある。
誘っても振られてばっかりや とテレビやライブのネタのようにあの人は話すけれど、その実、振られてばかり居るのは自分のような気がするのだ。ああ、誘っていないのだから振られるという言葉には語弊がある。だけど。

柔らかな、大人びた笑み。ワンテンポおいたようなゆったりした話し方。
ステージやテレビの中では人なつこい表情で、くしゃりと崩した笑みでいつも躊躇う事なく笑いかけてくれるのに。
秘密めいた日常の向こう側、繋がらない電話、掛けられない言葉、いつだってベールの向こうの横顔は見知らぬ他人のようで。

だから、一日で良いからこの人と二人きりで過ごしてみたい、そう思った。スタッフもメンバーも誰も居ない場所で、素の城島に会いたいと。それは母の腕を強請る子供のような独占欲。
「一日持たなかったな」
腕にはまったごつりとした腕時計が、指し示す時間は、昼をとおに回り、もう過ぐ3時になろうと言う頃。

途切れた声に、視線を戻せば、二つ折りにされた携帯を手に、自分に向けられた琥珀の虹彩。

まだ、大丈夫。
彼らが慌てふためいて、追いかけてくるまでには、まだ、時間があるから。
「リーダー、アイスクリーム買ってきました」

待ちわびるように、大きく振られるその手に、長瀬はにこりと笑ってみせた。

 

かちりと紅く揺らめくそれが、頼りなげに口元で揺れ、その動きに誘われるように上下した煙草の端をゆったりと炎に近づけかけ、何を思ったのか、そのまま掌の奥深くにライターを沈めると、はっとため息を一つついた。
白くけぶるような天を見上げ、そのまま、ひんやりとした空気を吸い込むと、淡い玻璃の空にまだ消え残る星の欠片を抱きしめる。
東京のような咽せる熱気もなく大阪のようなじっとりとした暑さもない、足下を漂う風はすべらかなまでに心地よく、今が何時であるかを忘れそうになる。

誰もおらぬ湖岸にたたずみ、足下の石を湖面に向けて滑らせるように投げ放ったそれは、ぴしゃりと水面に幾重もの波紋を描きながら空を切る。こんな遊びも仕事でしか最近はしたことがなかったと苦笑を浮かべながら、口端で上下する煙草をちらりと見下ろした。

—–夏休み五日目—–

そう言えば、もう、記憶から薄らぐほど昔の話だ。まだ、今ほど嫌煙を叫ばれていなかった喫煙家にとっては良き時代。
それでも、デビューもしておらず、あと成人まで数ヶ月とはいえ、まだ未成年と呼ばれる城島が、ロケ先の旅館の部屋で煙草を吸う事などできようはずもなく、同室の若手の俳優たちが眠りにつく頃を見計らって、一服できる場所を求めて夜の帳に包まれた外に出た事があった。
誰もおらぬ山間の小さな道は、既に秋の薫りが漂い、昼間、煩い程に自己主張していた蝉の声はなく、耳の届くは、リーリーと羽根を震わす虫の音のみ。
夜露が降り始めたあたりには、つんと湿った土の薫りが漂い、肌に触れる空気もしとりとした柔らかさを醸し出す。
そして。
つと見上げた空には瞬く無数の糠星の淡い煌めきが夢幻の広がりを持って柔らかな瞬きを繰り返す。
上京してから、久しく見る事のなかった、故郷の空がそこにはあった。
その圧倒的なまでの空間に、喉の奥深く競り上がるような熱を感じ、同時に息が詰まりそうな切なさが四肢の先まで広がって行く。

声が聞きいと思った。

己の名を呼ぶ、何の柵などもなく、ただ、真っすぐに己の名を呼ぶ優しい声が聞きたかったのだ。

シゲル と。

ああ、と脳裏の奥に響いたその声に城島は小さく呻いた。

 

「シゲってば、こんなとこで何してるの?」

「ん〜、煙草吸いとうなってな、出て来てんけど」
と、湖畔にひそりと立つ東屋のベンチに、ちょこんと膝を抱えるように座っていた城島が頭上から振って来た声に、小首を傾ぐように振り返ると、長瀬が隣で寝とうからなあ、そう、半分落ちかけた煙草を指で挟んだ。
「火、忘れて来たの?」
「や、あんまり静謐な空気やからな、その気がなくなってんけど」
それからもう一度ゆっくりと自分を覗き込んでいる男を見上げて、銀縁眼鏡の奥で、音がしそうな勢いで瞬きを繰り返す。
「こんなとこで何しとるん?」
「ん?あなたとしゃべってるんだけど」
そう言うと、詰めて詰めて とにまりと笑い、城島のお尻を押しのけるようにして傍らに座り込んだ。
「そうやなくて」
「10時間、走り詰めでさ」
眠いなんの、あふりと欠伸を一つ落として伸びをする。
「ちなみに、松岡は、車の中で撃沈中な」
「お疲れさんやったな」
「ん〜、まあ、転がすのは嫌いじゃないけどさ」
流石に、高速道路をこんだけ走り詰めはね、と今度は欠伸をかみ殺す。
「けど、すごい偶然やな」
「んなわけないでしょ」
まだ、驚きを隠せない表情のまま、自分を見つめる城島に苦笑を浮かべたあと、かりかりと顳かみを指先で掻きながら、電話くれたじゃん、そう小さく笑って、山口はようよう色味を帯びて来た空を見上げる。
「綺麗だって言ったでしょ」
昨日の電話で と。
「おん」
「ずっと前にさ、やっぱり貴方が、ロケ先から電話くれたときにさ、すごく空が綺麗だって、泣きそうな声で話してた事、覚えてる?」
「せやったかな」
今まさに思い出していた情景を音にされ、城島は照れくさげに口角を緩めた。

◆◆◆

夜半もとおに過ぎた、人様の家に電話するには遅すぎる時間だったのだが、ほんの少し眠たげな声のまま、すごいね、そう怒る事もなく、羨ましげに応えた電話の主に
「今度は、一緒にみよな」
そう言ったのだ自分は。
自分を思ってくれる人の声を願い、だが、田舎の母に電話を掛け、心配される事を厭い、無意識に掛けた電話番号の持ち主。
わかった、じゃあ、次は、俺、追っかけてくからそこにいてよね そうからりと笑った、まだ、相棒と呼ぶにはつきあいの浅い友人。

◆◆◆

「約束したじゃん、追っかけてくって」
流石に仕事の時は無理だったけどさ、今回はね と器用に片目を閉じて、山口は、ふふっと薄く柔らかな笑みを口元に浮かべてみせた。
「けど、僕が昨日電話したん、こっから大分離れた場所やで」
「いや、そうなんだけどさ」
こりこりと顳かみを掻きながら、のほほんと返してくる城島に軽く口角を緩める。
「昨日の昼間やから、もう、同じ空はあらへんし」
「来て欲しくなかったんなら、素直にそう言えって」
あのね、と、強くなった語尾と僅かに怒ったような口調に、くくっと喉の奥で笑うと、おおきになあ、と眼を綻ばした。
「けど、ようわかったなあ」
ここ とあたりを見回す瞳は柔らかく笑んで、そのまま振り返った甘さに、山口は、まあね、と照れたように視線を外す。
「長瀬がさ、寿司の写真送ってきやがったんだよな」
松岡が店の場所を調べて、貴方からの電話と照合して、向かってる方向を割り出した とどこかのロケと変わらないその行動に、何でもやっとくもんやなあ と城島な小さな吐息のようなため息を一つ吐いた。

◆◆◆

「大変っすよ〜」
陽が昇り、そこここを道ゆく観光客の姿に立ち上がった男に、朝飯を食わせてくれるか聞きに行くわ と宿に戻る城島の山口が連れ立って鄙びた小さな旅館の玄関をくぐったのは、それから30分程青の事だ。がらりと昔ながらの引き戸を開いたと同時に、待ちくたびれていた犬が飼い主に飛びつくような勢いで、がばっと抱きついて来た長瀬に、城島は、きょとんと目を瞬かせた。
「何が大変なん?」
「迎えに来いって」
「誰が?」
「太一君」
「どこに?」
「青森」
「飛行機か?」
「夜行バスっす」
ほらほら と携帯の画面を目の前に突き出され、その近さに滲んだ文字に、見えへん と苦笑を浮かべた。
「ていうか、あれやな、折角の夏休みや言うのに、メンバーのケツ追っかけて、10時間も車飛ばしてくる奴や、夜行バスに飛び乗る奴て、ほんま」
その言葉に漸く顔を上げた長瀬に
「ぐっさん」
「よ、お待たせ」
城島の肩越しから、山口は満面の笑みを浮かべてみせた。

◆◆◆

「とりあえず、お前は、太一迎えに行ってこい」
そう、茶碗に富士山よろしくよそわれたご飯に、舌鼓を打ちながら山口がにこりと笑う。
大体、往復で4時間ぐらいだろ と。
その隣では、まだ、眠たげな、ともすれば落ちそうになる瞼を薄らとこじ開けながら、味噌汁を啜る松岡の姿があった。
「あとでもうちょい寝たらええから、な」
チェックアウトは11時やから飯食うまでは頑張りや と4人分の茶を注ぐのは、ご飯をよそったり味噌汁を頼んだりと先ほどから何くれと世話を焼いている城島だ。
「え〜、また、青森まで戻るんすか?」
だって、リーダーは、と文句を言いながらも、三杯目のご飯をかき込む朝から欠食児童の末っ子に、城島が小さく笑う。
「ここらへん散策しながら待っとうから、大丈夫やて」
ぐっさんらもおるしな、そう、事も無げに告げる城島に、唇を尖らせたのはほんの一瞬の事。
「絶対、待っててくださいよ」
先に、どっか行っちゃったら、絶好っすからね、そう言うと、長瀬はヘルメットとバイクのキーを握りしめた。

◆◆◆

こうして、メンバー5人の夏休みが始まった。

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