Jyoshima & Yamaguchi

夏休み

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どこか不器用なまでに、それでも己のスピードを変えることなくゆっくりと坂を上って行く一人の男。然程年嵩には見えないが、どこか億劫気に坂を僅かに上肢を左右に揺らしながら歩く姿は、言葉にしたら「えっちら、おっちら」と言ったところだろうか。

遮るもののない頭上からの光に、柔らかい稜線が僅かに熱を孕むように紅くなった頬に深い影を落としている。
はあ、と小さな溜め息ともつかぬ呼吸に、 じんわりと額に浮かぶ無数の汗がつと米神を辿り、連なるように滑らかな頬を滑り落ちて行くのをぐいと手の甲で拭うと、カッと頭上から降り注ぐ容赦ない太陽を振仰いだ。

 

目の前に連なるのは、駅から延々とどこまでも続くなだらかな登り坂。
暑い、しんどい。
先刻から脳裏を過るは、そんなマイナス思考ばかり。
それでも、時折、頬を滑る風に混じる、青臭いぐらいの緑の香りと土の匂いがここが自然という存在に近い場所である事を教えてくれる。そして、それを懐かしいと思う程に、自分は都会の空気に馴染んだ人間なのだと小さく溜め息をつく。
ああ、そう言えば、あの男が、あの街を出ると言い出したのは、そう言えばこんな夏の暑い盛りの一日だったろうか と。

あのさ、と横を向いたままの声に、何か興味深い記事でもあったのか、先刻から薄っぺらなカラー写真の横にちまりと並ぶ活字を追っている城島が、ん〜 と心あらずのま相槌を打つ。
「俺さ、この街出るわ」
まるで、今日の天気を話すかのような自然さと唐突なその内容に、どこかさっぱりとしたような表情でこちらを見上げた男の言葉の意味を捕らえ損ねた城島が手許の雑誌を捲る手を止める。
「へ?」
えっと、何て?と聞返そうかと、小首を傾げた城島の姿に、山口はふわりと口元を綻ばせながらも、うん と小さく頷いてみせる。
「だからさ、俺、ここ、出ようかと思ってる」
「ここ出るて、自分」
けど、と続く言葉に、山口はよっとと小さな掛け声をその場に残して立ち上がると、強すぎる陽光のためか、薄く黄ばんだカーテンをゆるりと捲り上げた。
「ずっと考えてたんだけどさ」
「やって、自分、けど、そんなん、これからどうするんよ」
途端に差し込む光に、切り取られた硝子の向う側に広がるのは太陽を透かしたようなような晴れた空。だが、それを青空と呼ぶものはいるだろうか。どこか薄くけぶるように白く霞んだその空を。
それでも招くように綺羅と零れる光に惹かれるように窓を開ければ、砂とコンクリートの籠った匂いが鼻腔をくすぐり、風という自然現象の名を借りた人工の夏が乾いた空気の籠った部屋を駆け抜けて行く。
「海のさ、近くにでも住んでみようかなって」
何でもない事のようにさらりと耳に届く声に、城島は瞠いていた眼をぱちりと二度程瞬いて、それからゆっくりと山口の視線の先を追うように窓の外を見遣ると、林立する摩天楼の向う側に密やかに佇んでいるのだろう目の前の男を引き付けて止まぬ青い海を瞼裏にそっと浮かべた。

 

 

それは、青天の霹靂と言う程ではなかった。
ポケットから引っ張り出した白いハンカチがしとりと湿りを帯び、じりじりと肌を刺す痛みに足を止める。
いつかそんな日が来る事を自分は知っていたのだと思う。
元より、あいつは四面四角な小さな箱に閉じこもっていられるような男ではなかったのだ。

 

「仕事どうするん?」
それでも、と城島は諦め悪く傍らの山口をちらりと横目で睨む。
「どこでもできるでしょ」
そう、いつかは、こんな日が来るのだと、理性のどこかでは分かってはいたのかもしれない。
そんなもの とあっさりと切って捨てる男に城島はふいと横を向く。
「僕、置いてくん?」
それでも、感情と理性は裏腹なのだ。例え、それを持つものが城島 茂という一個の存在なのだとしても、心と脳は一つであってけして同じものではない。
「しげ」
どこか、拗ねた子供のような口調と陽光の加減か、透き通るような琥珀の僅かな震えに山口はほんの僅か表情を歪め、軽く下唇を噛み締めたが。
「だったらさ、貴方も一緒に行かねえ?」

その言葉の方がよっぽど驚きやったけどなあ とようよう上り詰めた坂の頂上に立つと城島はうっとその両手を大きく空へと伸ばした。

 

「阿呆か、僕が海の傍になんか住んでどないすんねんな」
驚きにきょとんと見開かれた眼がぐるりと辺りを彷徨った後、ようやく目の前の男を映し込んだのはそれから1分後の事。
だが、戸惑いを隠しきれない城島の視線を真っ直ぐに受け止めた山口は
「いいじゃん。魚は新鮮だしさ、きっとメシも美味いと思うよ」
そうだよ、じゅのんと一緒に、俺の事待っててくれたらいいじゃん と良い事を思いついたと言わんばかりに頬を綻ばした。
「嫌やわ。そんなん。大体、知っとうか、海の傍やて、洗濯もん、潮でべたついてよう乾かんのやぞ」
「何言ってるんだよ。今だって、貴方、洗濯機からそのまんま乾燥機直行じゃん」
お天道さんで乾かされへんから嫌や そうぷくりと頬を膨らませた城島に、くくっと喉の奥で笑いながら、ほら、問題なしとその頬を太いしかりとした指先がふにゃりと突つく。
「車かて潮でがびがびになって、すぐに錆びてまうし」
「貴方車持ってないでしょ」
「家かてな、壁もなんもかもすぐぼろぼろになるし」
「賃貸に住んでる人が何言ってるんだか」
それから、えっと と理由を探そうとする城島に、ったく、我侭な人だねえ と呆れたように腕を組む男の方がこの場合は勝手なのではないかと唇を尖らせた。
「ええねん。僕は、この街で十分やもん」
「もんて貴方ね、一体幾つの子供だよ」
そう目の前で綻ぶ頬は、とても楽しそうで、この男が目の前に広がる未来に限りない期待と喜びを持っているのだと嫌が応でも教えられる。
「朝日がさ、海から昇って来る情景、貴方知ってる?」
太陽が昇る前の静寂の時が最も暗い闇に包まれる一瞬なのだ。全ての光の世界から切り離されたと思うその次の瞬間、薄らと海の上に浮び上がるのは細い、眩いまでに煌めく光の帯。あのさ と細められた柔らかな虹彩の中あるのは、限りない空と海への憧憬。
「凄く綺麗なんだ」
そこには一欠けの自分も存在しない。
「僕、そないに朝早う起きられんもん」
一緒に見ようよ とポケットに両手を突っ込んだ姿勢で覗き込んで来る山口から横を向くように顔を背ける。
「 仕方ないなあ、じゃあさ、朝起きろなんて言わないけどさ。代わりに夕陽見ようよ」
こうさ、広大な水平線に触れる瞬間、膨張するように、そして最後の煌めきを放つような夕陽がさ と眼を細めた山口を城島は訝し気に眇めた眼差しでちらりと見遣る。
「自分、一体どんなとこに住む気ぃや。どっかの島か?」
「へ?」
「東と西の両方に面しとう海辺やて」
「え〜っと」
「少なくとも日本海側やない、言う事だけはわかったけどな」
ぽつりと言葉を落とすと城島は、クラッシュジーンズのポケットにねじ込んであった煙草をとり出すとそのまま一本口に銜えた。
「けど、僕は行かんよ」

 

「貴方一人この街に置いて行くのは心配なんだけどな」
そう、頬を挿むようにして覗き込むように額をぶつけたくせに、秋風が吹きはじめたある日、あの男は、じゃあね と片手を城島に振りながら、砂とアスファルトの匂いの街をあっさりと後にした。乗り馴れたRV車の助手席に愛娘のじゅのん一匹を座らせて。
きゅっと唇を噛み締めた城島に行くなと告げる隙間さえも与えずに。
否、元より行くな等と言うつもり等なかったのだけど。
言う必要等ないと心のどこかで信じていたのだ。
嫌だと、行きたくないと頑に言えば、あの男が街を出て行く事を辞めると疑いもしていなかった自分。山口が自分一人置いてこの街を離れるはずがないと、他の誰が自分の傍から離れようとも、山口だけは、自分の傍らから居なくなる事等ないのだと、それは確心にも似た甘え。
だが、あの男は振返る事もなく車のアクセルを踏むと、まるで、一泊旅行にでも出かけるような気軽さで じゃあね と一言だけを城島の上に残して、あの街から出て行ったのだ。

 

昇り切った坂の上。足元から吹き上げる風に混じる潮の香りの心地良さに城島は、それを堪能するかのように瞼を伏せる。途端に、ざわりと一際大きく響くように飛び込んで来る外界の音。
肌に纏いつく服に孕む僅かに冷えた空気。
「まあ、あいつの気持ちもわからんではないなあ」
あれから5年近い年月が二人の上を通り過ぎていった。
「もう、あの街の匂いはあいつからせんのやろな」

ぴぴぴぴ

ほう と空を見上げるのを見計らったように、突然閑静な住宅街に響き渡った電子音に城島は、うぉっと小さな悲鳴をあげながら、鞄の隅っこに押し込まれていた音源を引っ張り出す。
「はい?」
折り畳まれた携帯電話の液晶画面、サブモニタに表示された名前に僅かに眉を顰めながらも、城島はゆっくりと通話ボタンを押した。
『何、貴方、びっくりしてんだよ』
そう、受話器から流れて来た笑いを含んだ声に、城島も眦を綻ばしながら、山口 と吐息のようにラインの向う側に居る、つい一瞬前まで自分の意識の全てを支配していた男の名を紡ぐ。
「そんなん、突然鳴るねんもん」
びっくりして当然やろ と零れるのは軽く拗ねたような口調。
『あのね、電話なんてさ突然に鳴るもんだろ?鳴る前に、今から鳴りますよって予告された方がびっくりするじゃん』
「そんなん言うても、って、なんで自分、僕がびっくりしたん知っとうん?」
『そりゃ、貴方のことならね、手に取るようにわかるよ』
さらりとてらいもなく告げられた言葉に思わず二の句が継げなくなったらしい城島の様子に山口はくすくすと笑いながら って言いたいところだけどさ と言葉を続ける。
『まず、右足を後ろに引いて』
「は?」
と聞き返しながらも思わず素直に右足を引いた城島に、それを軸足に、次はくるりとターン と楽し気な声の指示のままに振返った城島の視界の中、見慣れた、そう5年前、あの街を出る時にも彼が乗っていた愛車が飛び込んで来る。
「ぐっさん」
途端に破顔した城島が、車道を横断するのも待ちきれぬかのようにきょろりと辺りを確かめながらも、真っ直ぐに駆けてくる姿に山口は頬を僅かににやつかせながらウィンドウを降ろした。
「どないしたん?こないなとこで」
珍しく、子供のような嬉し気な表情を隠そうともせず窓枠に飛びついた城島に、それはこっちの台詞と山口が笑う。
「貴方こそ、どうしたんだよ。こんなとこで会うなんてさ」
びっくりしたよ と続いた言葉に
「え〜、あ、ちょぉ、オフやったからな、久しぶりに海でも見たいなて思ってん」
跋が悪気にきゅっと眉を顰めると、自分は?と誤摩化すように聞き返すと
「偶然だね。俺も久しぶりのオフだしさ、ちょっとドライブでもしようかなって思って」
これ、と山口がハンドルをぱんと叩いてみせる。
「そっか、せやね、折角のオフやもんな。自分が家に閉じこもりっきりのわけないわな」
ふっと、一瞬表情が強張ったかと思うと、次の瞬間には、いつものように三日月よりも細く綻んだ眼が、山口を僅かに映し込んだ。
「で、今から誰か迎えに行くん?」
一歩後じさるように車から離れた城島に、山口の手がドアノブに架かった。
「まあ、東京の方まで一人迎えに行こうかと思ってたんだけどさ」
「そうかあ、ほしたらいつまでも足留めしたあかんわな」
そう言うと、軽く片手を挙げるともう一歩、車が発進するのに邪魔にならぬだけの距離をとろうと後じさる。
「じゃあな」
あの日、山口が城島に告げた言葉を唇に乗せて。

「あのね、シゲさん」
そんな城島に、口元を綻ばしながら、大きくドアを開いた。
「折角のオフなんだよ」
「せやで?自分もやろ、だから早よせんと」
「そう、貴方が早く乗ってくんないと車出せないんだよね」
「はい?」
「折角偶然、二人一緒のオフだからさ、貴方をドライブに誘いに行くところだったんだけど?」
その言葉に、俯きかけていた城島の顔が不思議そうに山口を捕らえた。
「ええのん?」
「折角の夏休みじゃん。一緒に、海に沈む夕陽、見に行こうよ」
それからふうわりと綻ぶ笑みはさながら雲居に顔を出した陽光のようで。
その笑みに、照れたような笑顔を浮かべながらも山口差し出された掌を
「綺麗な夕陽見に行こか」
城島は、躊躇う事なく握り占めた。

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