まばゆい光が大地に注ぎ、滴る緑が伸ばした指にほとりと落ちる。
梅雨と呼ばれる時節になってから数週間。
昨年よりも天の恵みを受ける事の少なかった稲の頭は、昨夜からの雨で漸く元気を取り戻したかのように、そよ吹く風に細い葉先きを棚引かす。
こころのさんぽ
その日は、平素の人口密度から考えれば、珍しい程にその小さな村は賑わいを見せていた。
「シゲ」
傍らで、畝に座り込んだ城島と頭を並べて稲の鋭い葉の上を滑り落ちる白露に目を細めている男はさておき、村役場で保原たちと嬉し気に言葉を交わしている背のひょろりとした男は、映画やスペシャルのドラマや特番の大役を終え、一息をついたところであるし、メンバーの中、誰よりもレギュラー本数の多い小柄な男は、数日放りっぱなしであった登り窯が気にかかるらしく、昼食を終えるとともに早々に姿を消している。
そしてもう一人。
「リーダー」
ふと頭上から振って来た声に顔をあげると、先刻まで食後の運動とばかりに柴犬の北登とじゃれていた長瀬が城島の顔の上に影を作るように立っていた。
「どないしたんや?」
つい先日まで、映画やスペシャルドラマ、突然決まったTVドラマの撮影等で、村に来る事が、いや、このバラエティ番組のロケに参加する事自体が稀になっていた末っ子のどこか嬉しさを隠せない表情に城島の口元にもやんわりとした笑みが浮かぶ。
「俺、リーダーに教えて欲しい事あるんすけど」
彫りの深い面立ちの中、長い睫が落とす綺麗な影を映す真っ直ぐな瞳に、山口はすっと立ち上がると城島の肩を軽く叩いた。
「んじゃ、俺、役場、戻ってるわ。撮影までまだ間があるからさ」
スタッフには言っとく そう片手を挙げた山口の背に
「ほな、頼むわ」
そう声を掛けると城島はゆっくりと立ち上がり、それでも随分と高い位置にある長瀬の顔を見上げた。
「もうちょいいけるみたいやから」
言いながら見回す視線の先は、木立の繁る里山への道。
「北登、散歩にでも連れて行こか」
久しぶりやもんなあ、くるりと向けられた薄い背に、はい と長瀬がにこりと満面の笑みを浮かべた。
ゆったりと吹き抜けて行く暑い空気を孕んだ風。
鼻につく噎せ返る青臭い香り。
乾いた土埃を立てながら、二人の周りを駆け回る小さな北登。
ここは来る度に違う表情を見せる。
昨日見た店が、今日は違う店構えに変わっている。
そんな目紛しい意味ではなく、と細められた眼差しが一日一日、深みを増して行く梢の色を楽しむように指先で突くように触れる。
「で?長瀬は何が教えて欲しいんや?」
「俺、リーダーの詞、すげえ好きなんすよ」
「そら、おおきに」
ほんの少し驚いたように瞠らかれた瞳は、いっそう柔らかく細められ、長瀬を映し込んだ。
「俺もリーダーみたいな曲や詞書けたらなあって思うんですけど」
ん? 途切れた言葉に、城島はふと足を止めて、俯いてしまった長瀬を下から伺うように覗き込む。
「けど、俺、リーダーみたいに頭良くないし、リーダーは俺と違って凄く沢山の事知っててるし、で、」
「で?どないしたん?」
また、ゆっくりと歩き出した足の歩みは遅かったが、長瀬も、北登に引っ張られる振りをして、その背を追うように とんと一歩踏み出す。
「太一君も、最近色んな本読み出したって聞いて、やっぱり、俺も本とか読まないといけないのかなって」
でも、と一所にじっとして何かをする事が苦手なメンバーは、釣り上がった眉をへしょりと下げて、情けなそうな面持ちで城島の答えを待っている。
「せやねえ、確かに色んな事知る事は大切な事やけどなあ」
ちょお、座ろか、ぽんと腰を叩くと、ほんの少し開けた若草の敷き詰められた地面に、よっこいせ と城島が座り込んだ。
「せやけどなあ、自分は自分やろ?僕やないんやから、僕みたいな、なんて言わんと自分の書きたい想いを詞にしたらええんちゃうんかなあ」
おいで、そうまっすぐに差し出された自分のものよりも僅かに小さな掌に、長瀬は口角を嬉し気に緩めてその手に引かれるままに、城島の隣に腰を下ろした。
広い空やなあ、梅雨の中休みと呼ぶには雨が少なく、乾き気味の大地に憂いを覚える程に青く抜けるような空を見上げるように四肢を大地に大きく預ける。
昔やったら、ただロケの事だけを考えて、空が晴れる事だけを望んでいたけれど。
「綺麗やろ?」
「はい」
草叢についた腕を支えにするような態勢の長瀬も、降り注ぐ陽光に目を細めながら、倣うように空を見上げる。
「すげえ、きれいです」
綺羅綺羅と落ちてくる光の粒はあまりに眩く、白を重ねるように青が滲んでいく。
「なあ、長瀬、自分、この空見てどない思う?」
「え〜と、青くて綺麗…かな?」
掴むように伸ばされて行く城島の掌を追い掛ける瞳に浮かぶ困惑の色。
「せやね。青うて綺麗」
抜けるような空の色、薄くけぶった雲さえ微睡むような心地よさやな、肩肘を地面につくと半分起き上がった城島が、今度は、まだ柔らかさを持つ下萌えをそろりと撫でる。
「ほな、自分、この草の色、言うてみ」
「みどり…色」
また、正解 と眉月よりも細い弧を描く稜線が綺麗な笑みをほとりと零す。
「からかってんすか?」
軽く膨れた末っ子の横顔に城島が声に出してクックと笑う。
「ちゃうよ」
そう言うと城島は、梢の葉を指差した。
「あれも、長瀬、緑色やろ。せやけど、今自分が言うた『緑』とは違う色や」
若草色、萌葱色、若緑、オリーブ、深緑 一言ごとに音を区切り、合わせるように指し示す先で揺れる緑葉の色。
「さしずめ、あの色は深緑やろか」
な、と、素直なまでに指先を追っていた長瀬に微かに小首を傾げてみせた。
「確かにな、『知識』は大切やと思うよ」
本を読む度に、新しい言葉を一つずつ覚えていく。
「けどな、いくら自分が若草色言う名前を覚えても、それを見た事なかったらそれは必要な時に出てこうへんやん」
言うとう意味わかるか?
どこか顰め面のままの長瀬を、笑みを頬に浮かべたままの城島が振り返ると、見上げる位置の男前は、微かに横に振りかけた頭を止めると、暫し考えた後、どこか曖昧に小さく頷いた。
「若草色言う名前を知らんでも、この色の事、長瀬は表現できるやろ?緑、言う言葉以外に」
「柔らかい黄色がかった緑」
「うん、そういう事やねん」
沢山の言葉を知る事は大切、でも、と空を彷徨う指先が掴む蒼い空気は、どこまでも優しく。
「大切なんは、ここにどんなけストック持っとうか言う事ちゃうかなあ」
ゆっくりと胸元に引き寄せられた両掌はポンと自分の胸部を叩いた。
「この村に来て、遮るもんのない空見て、春先から色を増して行く木々を見て、初めて僕らは空の色と緑の色の多さに気いつくねん」
それと同じ。
色んな言葉を覚えるより、目の前に溢れている森羅万象、様々な事象に触れて初めて自分達は物事の成り立ちを知るのだ。
「これに触れて、出たばっかりの芽は柔らかいんやなって新しい事を一つここに貯めるんや」
木々の幹に触れて、桜と楓の樹皮の厚さの違いを確かめる。
そうやって、ゆっくりと自分の中で少しずつ形を変えた何かを貯めて行くのだ。
「そう言う意味ではな、長瀬は僕よりもよう物事知っとると思うんよ」
まだ、中学を出る前から、他の子供が知り得る事もない程、沢山の人々に触れ、多くの世界を見て来た。
「沢山のドラマ出て、色んなロケ行って、その度に長瀬の中には、一つずつ心の中にストックが溜って行くんやで」
「凄いっす」
思わず、自分の胸を抑え、長瀬は手許を見下ろした。
「うん、凄いなあ」
こん中には、他の誰にも見えへんけど仰山のストックが溜ってるんやで、大切にしいやと長瀬の甲の上から、自分の手をそっと重ねた。
「せやから、長瀬。自分は僕のような詞書く必要性はどこにもあらへんし、書けるわけがないやろ?」
僕に長瀬が書く言葉が書かれへんのと同じや。
はい、返された満面の笑みに、城島もまた綻ぶように笑みを零した。
かさりと草を踏み締める音と突然振って来た影に、城島は伏せていた瞳をきょろりと動かして、顔のすぐ傍のスニーカーに連なる男を見上げる。
「ったく、何やってんの?」
午後の容赦ない強さを誇る陽光を遮るように覗き込む男の顔は、深い影を落とし城島からは見えなかったが。
「山口」
「いつまでも帰って来ないから、心配したよ」
そう顔を顰めた山口の手には、北登の鎖がしかりと握られている。
「やって、動けんへんねんもん」
草叢の中に大の字の形で寝っ転がる城島の腹の上に、頬をぴたりとくっつけて眠る長瀬の寝顔に山口は苦笑を浮かべる。
「すっげえ、気持ち良さそうに寝てるな」
「せやろ」
なんや可哀想で起こされへんかってん と視線を山口の足下、ちょこんとお座りをしている茶色の塊に向ける。
「おおきにな、ちゃんと山口呼んで来てくれて」
「本当、びっくりしたよ」
待てど暮らせど戻って来ない、年嵩と年下の姿に時間を追うごとに心配は募るが、始まってしまった午後からの撮影に野良仕事から抜け出す事が出来ずに苛ついていた矢先の事。
長瀬が連れて行ったはずの北登が一人で里山へ続く道から、駆け戻って来たかと思うと、只管、馴れているはずの山口に吠えついたのだから。
「スタッフもその様子に心配してたけどさ、取り敢えず俺だけ様子見に来たんだわ」
「助かったわ」
「で?どうすんだよ。俺だってコレは持ち上げられないぜ」
貴方ぐらいなら、問題ないけどさ と指差す先は、無邪気なまでに惰眠を貪る末っ子の横顔。
「あかんか?」
はあっと、首だけで支えられていた頭が疲れたように再び地面に落ちた。
「でさ、長瀬寝てから貴方もずっとその状態な訳?」
何故か城島の手が伸びた辺りに散っている小さな葉を拾い上げながら、山口は長々と寝そべっている長瀬の体躯とは逆の位置に座り込んだ。
「ん〜、しゃあないから、それで遊んどった」
「何、これ?」
「草笛、せやけど葉っぱが悪いんか、よう鳴らんねん」
照れたような苦笑混じりの声に、山口はふ〜んと小さく答えるとそのまま指で挟んだ葉を唇に軽く押し当てる。
ぴ〜♪
途端に、周囲に響き渡るくぐもったような高い音に、城島が拗ねたように唇を尖らせた。
「なんで鳴るねん」
自分、なんかしたん? ぷくりと膨れた頬に、弧を描いた楽し気な笑みが返される。
「見たままじゃん」
これだって、貴方が吹いてた葉っぱでしょ?
だが、城島が指先にあたった葉を吹いても、すうすうと空気が抜ける音が聞こえるだけ。
「そっち貸して」
じゃあ、交換 と小さな葉を交換するが、山口の唇の下からは高い音が響き、城島はやはり息の音。
「なんか腹立つわ」
あ〜と大きな溜め息に山口が陽光のような笑みを浮かべて城島の額にかかる髪をくしゃりと掻き回して。
「仕方がないじゃん。その方が貴方らしいし」
そう、器用に物事をこなす山口をいくら羨んだとて、自分のこの手は、山口の手になる事はない。
腹の上、すかすかと寝息をたてる長瀬の彫りの深い横顔を見つめて、その頬に落ちている葉をはらりと払い落とした。
どれほど不器用だとしても、城島 茂という自分の手は今この掌なのだ。
長瀬に言った事は、それはそのまま常に自分に言い聞かせている事を少し形を変えただけの事。
「さてと、ほな、そろそろ僕らも仕事に戻らんとな」
「そう言う事」
陽に翳すように伸ばされた掌を掴み録る山口の手に、己の体重を軽く預ければ、起き上がった腹からころりと太腿まで転がる長瀬に二人は顔を見合わせて、こそりと笑う。
「長瀬、そろそろ起きろよ」
それ以上お前の重たい頭が乗ってたらシゲの腹が潰れるぞ〜
ゆっくりと開かれて行く眠た気な表情に降り注ぐ光は、夏と春の端境期を彷徨って、それは自分を探しあぐねる人の姿を思わせる。
不安定な時期を乗り切った先の自分を見つける為に、また、一つ自分だけの『何か』を心に貯めようと。
ほな、 新しいストック探しに行こか そう言って城島は長瀬に笑いかけた。