抜けるような高い空に時折吹き抜ける風はとても青く、大地にそよぐ木々は夏の名残を思わせる程にあざやかで、ゆっくりと枯れ逝く一葉を戯れに大地に落としては、かさりと乾いた音を辺りに響かせる。
肩に食い込む馴染んだはずのギターの箱が何故か今日はやけに重たく感じ、城島は短く切りそろえた髪を軽く毟るような勢いで掻き混ぜた。
この世界に入ろうと決めてから3年の月日が走り去り、もうすぐ己の世界に一つの区切りが訪れる、そんな時節。
自分の行きたい道はここにしかないと決めて立っているはずなのに、先を競うかのように未来を選び取り、自らの手でその扉を開く為に、傍らを駆け抜けて行く輩の背を見るたびに、ただ掌を握りしめて唇を噛む。
目の前に聳え立つ黒ずんだ壁さえ、ちっぽけな己を拒んでいるようなそんな錯覚に陥ってしまう。
「情けな」
知らず知らずのうちに歩みを止めていた己の両の足を叱咤すると太古の香りを孕む琥珀を思わせる瞳をきゅっと細めて、人の出入りの激しい自動ドアの前に立った。
たんたんっと爪先が軽やかにリズムを取り、傍らで同じように腕を振り上げた少年を振り返る。
「だからさ、そこでこう、で、この指先をだな」
綺麗な弧を描くように反る掌が5本、天を目指すように並び、その次の瞬間、振り下ろされた腕と逆の手が前見ごろの辺りで円を描く。
音楽もなく口ずさむリズムで振りを合わせる少年達は、先ほどから何度も同じ所を繰り返しては、自分達のパートが揃うようにと躍起になっている。
「で、先輩がそこで前を滑って行くから俺たちはぶつからないように一歩後ろに下がるんだよな」
よ〜っしゃ、完璧 その言葉に、思わずガッツポーズを作る幼い笑顔。不安を隠しきれずに隣の友人に振りを見直してもらう泣きそうな表情。
そこかしこでそんな同じような光景が見られる広くはない楽屋は、まるで幼稚園のお遊戯教室のように笑いが絶えることはない。
「んじゃそういうことで」
肩に掛けたタオルで汗を拭うと、未だまじめに振りを見直すJr.の面々に軽く手を挙げ、山口はするりとその人込みを擦り抜けていく。目指すは、部屋の後ろに設えられた小さなテーブルの上。
林立する缶ジュースを一本失敬して、ふひ〜 と気の抜けるような息を一つ吐いた。
ここに集うたJr.達には今日はこれから、先輩であり、今人気絶頂のアイドルグループ光 ゲ ン ジのステージで踊るという大仕事が待っている。
初めてステージに登る者、踊る度に緊張で振りを忘れる者。
芸能人の卵達は、明日の自分を前で歌い踊る先輩達に己の姿を重ね合わせて、今日もステージに登るのだ。
明日こそは、自分が。
そんな想いが強ければ強い程、ほんの一瞬の暇さえあれば、誰もが覚えたばかりのダンスのトレースを繰り返す。
山口もそんな卵の一人だった。
「あれ?」
そんな誰も彼もが鏡を見つめ、己を映してはぎこちない笑顔を作る中、一人だけぼんやりと窓の外を眺めている少年がいた。
少年と言っても、年の頃は山口と変わらないぐらいか、むしろその落ち着いた雰囲気からは年上にさえ思えるのだが。
サッシの窓枠に頬杖をつき、薄く開かれた窓の隙間から、細められた眼は偽りの己ではなく、目の前で頼りな気に揺れる薄く茶け始めた葉を写し、時折、指先がリズムを刻むように硝子の窓を小さく叩いている。
とんとんとん
それは周囲を憚るように本当に微かなものだったが、趣味でベースを弾く山口にとってはあまりに馴染み深くて。
「ねえ、貴方、こんなとこで何してるの?」
気がつけば、周囲を気にすることもなく振り回される腕の中をかいくぐり、どこか物憂げに感じるその横顔に声を掛けていた。
「何て、時間潰しとうねんけど、あ、もしかして邪魔やった?」
慌てて硝子を叩いていた指をきゅっと握り込むとがたりと音を立てながらパイプ椅子から立ち上がる。
すると、 悔しいことにほんの少し見上げる位置になった目線に山口は苦笑を浮かべた。
「あ、そうじゃなくて、ここJr.の楽屋じゃん」
だから、と柔らかな癖のある髪が彩る頭のてっぺんから、しっかりと蝶結びに結ばれたスニーカーまでを一瞥する。
「これでも僕もJr.やねんけどな」
自分と同じ その視線に何を感じ取ったのか、何処か居心地悪げな答えに山口は、慌てたようにごめん と呟いた。
「いや、貴方がJr.に見えないって訳じゃなくて」
自分を含めて背後でひたすらステップを刻むJr.たちは、明るいオフホワイトをベースにした鮮やかな赤いラインが印象的な揃いの舞台衣装を身に纏っている。反して目の前の少年は、白いTシャツの上にラフなジーンズの上着を羽織り、色抜けのしたジーパンを無造作に履いているのだ。
訝し気な視線の意味に漸く気がついたのか、自分の格好を見下ろした少年は、ぽりっと頭を掻くと
「僕、ダンス踊らんから」
は?思わず聞き返した山口に、少年と青年の端境期を思わせるどこか不安定な笑みを浮かべた。
「それで、貴方はギター弾く訳?」
ゆっくりと言葉を交わすにはあまりに騒々しい楽屋を後にして、二人は自動販売機の置かれた小さなソファのあるスペースに移動していた。
「そ、ダンスできへんからって、社長にバックバンドしてこい言われて」
と、傍らに置いてあるギターケースを軽く叩くと、綺麗な弧を描くように眼を細める。
はいっと差し出された紙コップをおおきにと両手で受け止めた、城島と名乗った少年がふうっと息を吹きかけると表面に幾重もの漣が弧を描いては消えていく。
「ダンスできないって?どういう事さ」
Jr.なのに? そう言うと、どかりと勢い良く、ちんまりと体をきゅっと縮込めて腰を下ろしている城島の横に座り込み山口は微かに俯き加減の顔を覗き込む。
「貴方、さっき、東さんに憧れて事務所に入ったって言わなかったっけ?」
「言うた」
「少年隊を見て、うちの事務所入って、で、なんでギターなんだよ」
「やって、すごい格好ええなあて思うて、僕の進む道はこれや〜て思うたまではええねんけど」
奈良の片田舎やで、と撫で肩の双肩を一層落とすと、程よく冷めた珈琲を一口こくりと飲む。
「芸能人の所属事務所なんて、知っとうわけないやん」
芸能界=東さん=うちの事務所 言う等式しか成立せえへんかったんよ と情けなそうな表情は、年上だと告げたはずの彼の細い面立ちをどこか幼く見せる。
「そんなもんかね」
「そ、世間一般の15歳なんてそんなもんやで。さっきかて、自分等踊ってるの見て、僕おるのなんや場違いやなあって落ち込んどったとこやし」
「へ、なんで?」
やって、と少し照れくさそうに鼻先を仄かに染めて
「自分、めっちゃ格好良かったやん」
周囲の子らに、ダンス教えとったやろ と真っすぐに山口を見る瞳に微かな羨望が滲む。
もし、自分が彼だったなら と。
今の自分は月を取ってくれと泣いて強請る頑是無い子供のようなものなのかもしれない。
どれほど、両手を伸ばし空に向かって足掻いても、頭上に広がる世界はあまりに遠く果てしなく、地面を這いずり回るちっぽけな己という存在は、大地の上で多々良を踏むことしかできずにいる。
アホなこと言うとらんと、ちゃんと自分の将来見定めんとあかんよ そう、一度は反対した母の手を振り払い、この東の地に夢を求めて3年が過ぎ去った。
はやいもので今年が終わり、来年、桜の花が咲く頃に自分は高校を卒業する。
期限を切っての上京ではなかったが、それでも、目の前に迫った一つの生というものの中に存在する時間の区切りに違いはない。
母一人、子一人という環境で、よくも母が自分を送出してくれたものだと今更乍らに思うのだ。
自分が望み、ただ無我夢中で進んで来た道。
ならば、この道の行く末を見定めて、その終わりを見極めるのも自分自身しかない。
そう、学生という親の温もりに甘えることが許される子供の時間はもうすぐ終わる。
これ以上母に迷惑を掛け続ける訳にも行かず、高校の教師からは顔を合わせる度にせっつくように進路を聞かれ、ありがたい事に何社か面接の話しをつけてくれるとまで言ってくれているのだ。
もう、潮時なのかもしれない。
それでも、もし、自分が目の前の彼だったら?
あれ程、伸びやかに綺麗に踊る彼だったならば、ものにならぬかもしれないギターに縋りつくこともなく、もっと早い時期にデビューできていたかもしれない と微かな希望を持って果てしない空を見上げてしまう。
目の前の彼の太陽のような笑みを見た時、ああ、人には分というものがあるのだなと思わされたと言うのに。
アイドルになるために生まれて来た存在というものは確かにいるのだ。自分のようになんの取り柄もなく、人を惹き付ける内面からの輝きの欠片一つ持たぬものは、何れ程頑張って足掻いてもそこまでどまり。
伸ばした手の先は、己の背丈までしか伸びはしない。この指が雲を掴む事等あり得ないのだと。
こん と山口の指先が城島の傍らに大切に置かれたギターケースの蓋を軽く叩いた。
一見、とても綺麗に見えるこの箱は、目を凝らせば驚く程使い込まれている事が見て取れる。
本当にギターが好きなのだ。宝石の琥珀を思わせる吸い込まれて行きそうなアンバーの瞳の持ち主は。
ギター弾くねん そうどこか照れくさそうに、だが、隠しきれずに喜びを垣間見せる笑みに、面白そうだから、有名になりたいから、芸能人になると言う事をそれほど深く考える事もなく、友達に誘われるままに事務所に飛び込んだ自分が情けない程にちっぽけな存在に思えた。
ほうと吐息を付くように傾けられるカップを包み込む両の手のきっちりと切られた形良い爪は、ギターを弾く為だろうか。
確かに、一瞬ごとに成長し続けている10代にとって、1年という年の差はとても大きい。
だが。
綺麗な稜線を描く線の細い大人びた横顔に視線を奪われる。
事務所に入り、日々、飽きる事なく繰り返されるダンスとヴォイスレッスン。
右に行けと言われれば何の抵抗もなく右に行き、左を見ていろと言われれば素直に左を向いた。
別段、山口が根が素直な訳ではない。ただ、言われるままに動いていれば、そこにある全てが大人の与えた言葉の責任の上にあり、何があっても自分の罪ではない。ただあるものは、にこやかに笑みを浮かべて、はいと頷いていれば、いつかデビューさせて貰えるだろうとそんな甘い性根と無意識のずるさ。
この落ち着いた眼差しは、今、自分の見つめる未来のどれ程先を見ているのだろうか。
「俺、ベース弾くんだわ」
ん? ふと溢れた一言に、驚いたように見開かれた瞳は、三日月よりも細く綺麗な弧を描く。
「自分、多才やねんなあ」
羨ましいわ 僕、ギターしかあらへんのに と軽く尖った厚ぼったい唇が、先ほどまでの大人びた表情から一転して、どこか可愛らしさを醸し出す。
この瞳の見ている先を、見てみたい。
「ね、バンドやらねえ」
衝動のように湧き上がった想い。
「ん?バンド…ぉ?」
裏返った語尾に、口角をきゅっと歪めて。
「そ」
自分でも何故突然そんな事を思ったのかは判らないけれど。
口に出したら、ああ、それが正しいのだ と何故かそう感じた。
「や、やって、自分、あんなにダンスうまいのに?」
何いうてるんよ と、先刻よりもひとまわり眼が大きくなったように見える。
「だって俺、ダンスがやりたくて、ここに入った訳じゃねえもん」
ま、楽器をやりたくて入った訳でもないけれどと心の内で付け足して。
自分自身の中に『何か』という目的がなかったのならば、今、目の前の存在を目標にすることだって問題はどこにもない。
「でも、自分、僕のギター聞いた事あらへんし」
「うん、だから聞かせてよ」
貴方の音、そう告げる悪びれもない満面の笑み。
だが、尚も諦めが悪く視線を彷徨わせる城島の頬に手を掛けると、覗き込んだ琥珀色の表面に写り込んだ山口の顔が満足げに笑う。
「先輩、いるでしょう。丁度、今年デビューのさ」
尤も、彼等はロックバンドの格好をして演奏するフリをしているだけだと噂には聞いたけれど と瞑った片目に、城島が苦笑を滲ませる。
前例があるのだから、自分達がバンドを作るという事に事務所が反対する訳がないでしょと。
だが、
「約束できへん」
「なんでさ」
途端に、むっとした表情の山口から僅かに視線を逸らせる。
「音、聴いたら、自分、幻滅するかもしれんやん」
躊躇いもなく目の前に差し出された掌を握りしめてしまったら、自分はもう一度夢を見てしまう。
中学校を卒業する時に、手が届くと信じたはずの『夢幻』は、大きく横たわる現実の隙間から垣間見る事も出来なくて。
何度、行き場のないこの指を握りしめたかわからないのに。
夢は叶うものだと疑いもしていない山口の瞳を信じてしまう。
だが、同時に、確かにあった『形』が霧散して、掴んだと思った存在に背を向けられる事が恐くて。
「貴方、俺が幻滅するような腕な訳?」
そんな腕で舞台に立つなんて随分と莫迦にしてねえ?その音楽を頼りに踊る俺たちのこと。それとも、貴方も先輩達と同じで格好だけで、中身ないんだ?と口角が嫌味なぐらいににたりと嘲う。
「弾けるわ。弾けるけど」
挑発的な表情をきっと睨みつけた強い視線は、瞬き一つする間に掻き消えていく。
「じゃあ、問題ないじゃん」
「けどや」
眉間に刻まれた幾重もの皺。
軽く尖ったままの唇。
情けなさそうな視線が上目遣いで山口を見上げてくる。
「言ったよね。ギターしかあらへんて」
こくり 微かに、だが、しかりと頷いた迷い子の子供のような表情。
「でも、逆に言えば、ギターだけは貴方にはあるんでしょ?」
微かに小首を傾げた城島が、言われた言葉を読み取るように数度瞬きする。
「ギターだけは他の誰にも負けないって自負があるんでしょ?」
下を見れば自分の足下。
上を見れば、そこに広がる無限の空。
そんな事は山口だってわかっていた。
まだ、走り出すどころか歩く事も出来ずに、よちよちと地面を這いずる赤ん坊のような存在の自分達を。
それでも。
「それは、他の誰にも負けないぐらいに好きなんでしょ?」
今、一番大切なのは、何ができるかではなく、自分が何がしたいのか。
「東さんに憧れてこの事務所に入って、それでも、歌でもダンスでもなくギターを選ぶぐらいにさ」
あ、という形に開かれた唇が、ゆっくりと歪に歪んで行く。
今の自分に精いっぱいで、同じ場所から一歩も前に進む事の出来ない自分が歯がゆくて。
紗に包まれた視界を突き進む事ができなくて。
忘れていた。
ギターしかないのではなく。
ギターがあるから自分はここまでやってこれたのに。
そんな単純であたりまえの事さえ見えなくなって、『母』を言い訳に、『腕』を理由に逃げ出そうとしていた自分。
「うん、好きや」
ほとりと溢れた笑みの柔らかさに、山口が微かに頬を染め、思わず視線をそらせるほど、邪気のない嬉し気な微笑。
「だったら、いいじゃん」
一緒にやろうよ。
改めて差し出された厚い掌をゆっくりと見下ろした細められた眼が一層細くなり、頬の肉がきゅうと上がって行く。
「けど、やっぱり、約束でけへんわ」
「なんでだよ」
ぺしりと掌を叩いた自分よりも薄い手が、そのままぽん山口の肩を叩くと、城島は伸びをするようにソファから立ち上がった。
「騒がしなって来たからそろそろ出番ちゃう?」
傍らのギターケースをそっと肩に掛ける。
「商売道具忘れたあかんわな」
そのままくるりと向けられた背に、慌てたような山口の声が城島の名を呼ぶ。
「城島君!!」
「やって、僕、まだ、自分のベースの腕知らんもん」
おいそれとはOKできへんやろ、悪戯っ子のような楽し気な口元に嬉し気な光を帯びた琥珀の瞳が山口を振り返り。
「やから、ステージ終わったら、合宿所の僕の部屋集合な」
ぽんと放物線を描いて掌に飛び込んで来た鍵の刻印は203号。
「僕、この後一つ仕事入っとうんやわ」
踵を返して、廊下を駆けていくその背を暫し呆然と見送って、やられた と山口は天井を見上げる。
初めて出会った相手に共に未来を歩もうと告げた自分と、初めて言葉を交わした相手に自分の部屋の鍵を躊躇いなく預けた彼と。
どちらの方が単純で、どちらの方が夢見がちな浪漫ティストか。
楽屋の扉が開き、わらわらと飛び出してくるJr.の一人が名を呼ぶ声がする。
「おう〜、今行く」
この瞬間、歩きはじめたまだ形さえも見えない自分達の夢の欠片を失う事をないように、銀色の鍵をそっとポケットに押し込めた。