Jyoshima & Yamaguchi

ことのは

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空が抜けると言うよりは、果てのない空 と小さな呟きが草の香りを孕んだ風をふわりと揺らす。
気持ええなあ
久しぶりに見る青い空なのだ と城島は、僅かに眼を細めると、ぶらぶらと行き場のない両手両足を大きく広げて、ばたりと空に対峙するように大地に寝転がった。
途端に、ざわりと耳に擦れるのは、草の葉のざわめきと遠くに聞える命の流れ。
気持良い ともう一度繰り返して城島は小さく笑った。
遠くで吠える犬は北登の声か。
当たり前だ。この広い敷地内、所謂、犬という種類は、可哀想に彼しかおらず、他にいるのは大家族の八木橋一家か、大所帯の合鴨隊か。
ゆっくりと頭を巡らし、辺りを見回した時だった。
「いっ」
あ、と思う間もなく、呆れる程によく繁った草の葉が、水作業をしていた所為か随分とふやけていた指先に鮮やかな紅い筋を引く。
「何してるんだよ」
やってもうた と思うよりも先に、貴方は、と怒声と共に伸びてきた日に焼けた手が有無を言わさぬ強さで、ぼんやりと城島が見つめていた指先に連なる手首をぎゅっと握りとる。
「いや、紅いなあ て」
白くふにゃりとした指先にふつりと盛り上がった命の色に、山口が多少呆れたような眼差しを、いとも暢気な感想を漏らす男に向けると、ったくと小さく呟いて腰につけていたタオルの埃をパンと払った。
「ギタリストだろ」
おん とこっくりと頷きながらも、手早く押し付けられた白いタオルにじわりと滲むは鮮やかすぎる紅。
「悪い、ちょっと休憩」
視線を瑕から離す事なく、挙げられた片手が、村のあちこちに散らばるクルーへの合図。
「そんなん」
必要ないと続くはずの言葉は、じろりと眇められた視線に射すくめられたのと、心配をされる事の心地よさも手伝い、城島はほんの少しだけ不本意そうな表情を浮かべながらも、すまんなあ とほとりと苦笑を零した。
ゆうるりと大地に射し込む夕日影に包まれて、目に眩かった緑が暖い色にほとりと滲む。
明日の朝、東京での仕事がない城島と山口は村に泊まり、けぶるような朝の風景を撮影することになっており、一足早くここを後にするスタッフたちを見送ったのはほんの半時程前の事。
夕闇に紛れて家路を急ぐ子供達のような慌ただしい背を見送り、村に漸く訪れたゆったりとしたひと時。
ほとほとと指先を濡らす湧き水の冷たさに、ふるりと背筋を震わせながら、汗を拭うように顔を洗うと飛び散る水滴に構う事なく髪をかき上げて、真新しいタオルに顔をぽそりと埋めた。
昼間、己の指を包み込んだ時の目を射るような白さも、今はどこか青みがかった色を帯び、柔らかなタオルの温もりだけを頬に与えてくれる。
からり。
自分の下駄の音だけが辺りに響く。
ほうっと自然に零れ落ちるのは心地よい疲弊の声。
こんな仕事をしながらも、ほんの少し人が苦手な城島にとって、限られたメンバーと覆い尽くすような自然相手のこのロケが好きだった。もっとも、10数年アイドルをしつづけている人間の感想としてはどうかと思うよそれは、とじろりと一見可愛い三白眼に睨まれそうではあるけれど。
街からの人工の光源がないためか、東京よりも夜の帳が早い小さな閉じられた山あいにある村をぐるりと取り囲む緑の稜線は深すぎる藍に色を染め、触れあう静寂を一瞬の光に包み込む。
夜と昼が触れあう刹那。
世界と己を繋ぐコンタクトは当の昔に外し、厚い硝子の奥でほとりと細められた琥珀の虹彩が瞬きを繰り返しながら、次第に瑠璃に染まりゆく天空に散らばる糠星をぼんやりと見上げた。
「綺麗なあ」
惹かれるように前へと伸ばした腕がゆっくりと天へと軌跡を描き、古の息吹の色の瞳に落ちるは、自然光。
訪れる浮遊感。
すべての柵から解き放たれて行く一瞬。
「なあにやってんの?」
だが、からからと城島のそれよりも幾分忙しい音を引き連れた男の声に、空を彷徨っていた虹彩は、ゆっくりと地上へと降りてくる。
「別になあんもしとらんよ」
そう?と山口は、城島に倣うように水場の前で足を止めると、ひゃあ、気持よいと眦に皺を刻み込むような笑みを浮かべながら、途切れる事を知らぬ水を両手で受け止めた。
己のものとは違う手の中で、弾ける透明な球体が透かしたような淡い鑞の光を帯びて綺羅と空を舞う。
これも綺麗やなあ と城島は口角をふわりと緩めながら、幼子のように水をばしゃりと爆ぜながら顔を洗う男の横顔を見下ろした。
「何?」
そんな視線に気が付いたのか、僅かに鼻先を赤く染めた山口がぐいとタオルで雫を拭いながらゆっくりと上肢を起こす。
「なんでもないよ」
細められ眼を彩る稜線がほろりと揺れて、何かを言おうと開きかけた唇は、食事だと呼ぶ安原の声に、夜露に湿りを帯びはじめた宵の空気を吸い込むように閉じられた。
深い闇にうそりと浮かぶ白い雲を、柱に背を預けたまま、どこか定まらぬ視線のままに追い掛けて行く。
残留組のスタッフも機材を置いてある役所の方へと場所を移し、今頃は夢の中だろうか。
自然に零れるのは音のない微笑。
鼻腔をくすぐる薫りに混じるのは夏の色だと言うのに、夜半を過ぎるとどこかまだ肌寒さを感じるしっとりとした空気の中、夕餉のおりの埋み火がほのかな暖を与えてくれる。
「本当、今日はどうしたのさ」
閉じられた空間を破るみしりという床板の悲鳴に城島がくすりと笑う。
ここでは自分も猫に鈴をつけたようなもんやなあと。
もとより気配を消す気などなかった男が意味を捕らえ損ねて、僅かに小首を傾げながらも、どかりと城島の隣に腰を降ろした。
「いっつも変だけど、今日は特におかしいよ。あなたの行動」
「いっつも変てなあ」
メンバーうちの某誰かの十八番を奪うように軽く突き出した唇が、それでも小さな笑みは崩れることはない。
「仕事中なのにさ、しょっちゅうぼんやりとして」
らしくないね と弧を描く眼が柔らかいコントラストを描く稜線を辿り、そのままつられるように城島の視線の先、アイボリーよりも淡く、白よりも深い月白に染まる天を見あげた。
「あんなあ」
渦巻く雲の色。
「不思議やなあって思うたんよ」
時折、城島の言葉は幼子のようになる。
ぽつりぽつりと心に浮かんだ文字の形をそのまま読み上げるような辿々しさ。それがどこかあどけないと言えば、目の前の男は照れたように笑うのだろうが。
「で?」
そんな彼を見たい気も少々したものの、山口が僅かに口角を緩めるにとどめ、急がせるでもなく、やんわりと先を促すような相槌を打つと、城島はこっくりと頷いて答えるように小さく頬を綻ばす。
「あんな、前にな、長瀬に聞かれたことあるんや」
『俺もリーダーみたいな曲や詞書けたらなあって思うんですけど』
あれは丁度、今よりももう少し夏に近い時節だったか。
何を悩んでいたのか、長瀬のその心内までは推し量る事はできなかったけれど。
「そん時にな、色んな事をここに溜めてったらええんやて僕言うたんや」
とん と胸元を指先が叩く。
「自分の言葉やから、自分が見たもの、感じたものをここに溜めて、それを形にしたらええんやて」
そうだね と細められたままの瞳が城島を写し、綺麗な眉月のような曲線を描く唇に城島もせやろ と首肯する。
「けど、言葉の源は同じやねんよなあ」
「はい?」
え〜っと シゲさん? と傾げられた小首に、城島は幾重もの笑い皺を刻みながら山口を振返った。
「空て言葉、誰が作ったんやろうなあって」
青い空、赤い血、緑の木々。
単純に当たり前のように音にする言葉、と城島が笑った。
「すごいなあって思った」
煌めく雫、降り注ぐ陽光、温かい空気。
「きれいって思う感情も同じやねんで」
僕は僕、ぐっさんはぐっさんやのになあ、と星を捕まえた子供のように目を煌めかせて。人により感じる度合いは違うのかもしれんけどね と小首を傾ぐ。
「なんか、すごいなあって思わん?」
森羅万象、目の前にあるすべての事象を受け止めて、それがいつしか音になり、隣り合う人と人をつなぎ、やがて、姿を変えてそれは新たな貌を作るのだと、子供のような大きな虹彩をこれ以上ない程見開いて、乗り出すように言葉を綴る。
「それをすごいって思える貴方の方がすごいかも」
「そうか?」
苦笑混じりの表情で自分を見る山口に、ほんの少し俯いてそうかなあと眉を顰めた。
「けどさ、名前って、ほら、それを見つけた人がつけたりするじゃん。自分の名前とかさ」
何?貴方何かに自分の名前がついたりしたらいいなあって思ってる訳?くすくすと喉の奥から零れる笑声に、そんなん思わんけどと言いかけて、ん?と何かに気づいたように口元を真一文字に結ぶ。
「何?」
「そういうたら、ここもそんな主旨で始まったんやなかったか?」
その言葉に顔を見合わせて、ああ、と今更ながらのことに大きく頷いて。
「そう言えばそうだね」
と。
日本地図に番組の名前を残せるか? という村づくり実験は、いつしか日本の由緒正しき理科の教科書に引用されても良いのではないか?と言いたくなるような生物の事業の世界を繰り広げ、故郷のあるべき姿を模倣し続けているのだが。
まあ、村はともかくなあ、と笑いながら
「そらなあ、シゲちゃん星とかあったらそらそれで面白いけどなあ」
そうやなくてな と城島は、再び空へと視線を戻した。
「自然発生的に存在する事物にかて名前はあるやろ」
形容詞もそう と掌が月を掴むように空を彷徨う。
「見てみ、綺麗なお月さんや」
だね と訳がわからないままにも相槌を打つ男にそう言う事やと組んだ掌に顎を預けた。
「きれい 言う言葉は誰が作ったかわからん。せやけど、それは僕らの同じ感情を表す言葉として存在するんや」
僕もな、と鼻先を軽く擦り、面映気に俯いて。
「そんな風に心に残る言葉、生み出せたらええなあて思うたんよ」
古から変わる事なく、飽きる事なく繰り返し使われる言葉のように、途切れる事なく歌い継がれる詩のように。
「記録に残るバンドじゃなくて、記憶に残るバンド みたいに?」
いつか城島が言った台詞を繰り返した山口に、城島は困ったように笑う。
「まあ、言うたらそう言う事かもしれんけど」
誰が作った歌か知らずとも、自然、口ずさむような と指先を頬に埋めながら上目遣いに山口を見上げた。
「それは、また、随分と壮大な」
「そ、そうか?」
でしょ と返された言葉に、あかんかあ と照れたような表情で鼻先をぽろりと掻いた。
「あかんってことはないと思うけどね」
ゆっくりと降り積もる記憶の狭間に不定形の形でいいから、押しつぶされる事なく残る存在になりたいと細められる眼が優しくて。
「でも、ソレって意図してやろうとしても無理なんじゃね?」
そんな風に真っ直ぐに『音を楽しむ』事に向かい合う彼をほんの少しうらやましくて、そんな風に躊躇うことなく彼に思われる『詞』が妬ましい。
「そやねえ、いくら名曲を作るて足掻いたかて、『詞』は生まれへん」
どこか悔しげに転がり落ちた言葉に山口が小さく笑う。
「ま、どれだけ焦ってもさ、出て来ないんだったらさ」
これ、と背後からのそりと取り出した盆に乗っているのは、城島が作った『山口モデルの徳利』と普通のものの一回り程大きそうな素焼きの猪口二つ。
「今は、これを楽しまねえ?」
甘く薫るは、この冬に二人が主となって作り上げた『男酒』。
「おお、ええねえ」
取り敢えずは、言葉より腹の方に美味いと言う言葉でも残そか 途端に眦を綻ばせると、城島は摘みでも作るわと立ち上がった。
「美味いの頼むね」
おう〜松岡には負けるけどな と向けられた背を見送りながら山口は、手にしくりと馴染む徳利を傾けた。
美味いなあ と綻ぶほてりとした唇が、酒に濡れて月華に薫る。
ゆるりと猪口を傾けながら山口がゆるりと、美味いねえと答え、蒼い光りに滲む男の横顔に笑みが落ちる。
貴方は気付いてないだけ と。
貴方の唇から生まれた言の葉が何れ程人に影響を与えていることか。
それは、傍らにいる己であり、この人の背を見て育った長瀬であり、この男の一言一句までにも聞き耳を立てる松岡であり、共に言葉を綴ろうと躍起になっている国分であり。
そして、恐らくは数える事の出来ぬ貴方のファン。
その一人一人に貴方の綴る詞がゆるゆると浸透し、降り積む様は春の雪。
今は淡く溶けて目に見えなくとも、詞の雫は、やがて乾いた大地に水が染むように、心の襞を揺らすのだ。
「大丈夫」
「何が?」
不意に肩に回った逞しい腕に、目を瞬いたものの、
「貴方は天才なんだからさ」
「なんやわからんけどおおきに」
すぐ傍らの満面の笑みに、城島の頬もやんわりと綻んで。
大丈夫、誰が気付かなくても貴方の詞は聞いた人の心に残るからと。
それが譬え誰も笑えないオヤジギャグでもさ。
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