きゅっと踏み締めた足の裏でさりさりと哀れなほどに崩れゆくは砂の山。
耳朶に届く切れることなき波の音。
寒さから逃れるようにいつもよりも丸くなった小さな背が、細められた視界の中を幼子のように駆けてゆく。
六花
一年で最も太陽の恩恵が短い日って終わったんだっけ、と茶色いダウンベストに突っ込んだままの手を出すこともなく、はあと毀れるため息を隠すこともなく、日が暮れるのが本当早いよな と意識を散らすように見上げた空を覆うのは、どこまでもどんよりとした冬曇り。
重苦しいまでの深い灰色をそのまま写し取ったかのような海は、黒く渦巻く波間に舞い散る飛沫が白い光を放っては、瞬く間に深すぎる闇へと吸い込まれていく波の音しか聞こえぬ世界。
これが数カ月前であったなら、名残の暑さから逃れるように涼を求めて海辺を散歩する老夫婦や過ぎ行く夏の思い出に縋るかのように湿りはじめた花火に歓声をあげる少年たちの賑やかな声が聞こえたろうが、足下が大地に触れる度ずりりと神経を這い上がるような寒さに身を震わせるようなこの時節、こんな場所を好んで歩くは冬の海の荒波を求める命知らずのサーファーか、よっぽどの物好きだけだ。しかも、数m先さえも海岸沿いの蛍光灯を頼りに漫ろ歩かねばならぬ宵闇に包まれている海に出る者はそう多くはいないだろう。
つまりは物好きなんだよね とほんの数歩前で波打ち際に佇んで飽きることなくじっと足下を見下ろしている影に、山口はホッと丸く形作った唇から白い息を吐き出した。
「邪魔してええ?」
ざんと耳朶を震わす海鳴りが日常の音になりつつある海辺の家のドアを遠慮がちに叩いた城島に、山口がわずかに眉を上げてみせたのはほんの半時ほども前ではない。
何、遠慮してんのさ と受け入れるように大きく開いた扉を潜ることなく、ちょぉ、海が見たなってな 手の中の荷を山口の腕に押し付けるとそのまま波の音に惹かれるようにふらりと歩き出す薄い背中。
「シゲ」
思わず玄関にあったサンダルを突っかけ、叫んだ声に返ってきたのは、それ、土産な と笑いながら揺れる見なれた手の甲。だがそれさえも、壁に阻まれすぐ様視界から消え去るそのかけそなさに、山口は城島曰く土産である麦酒缶をビニルごと冷蔵庫に突っ込むと自宅をつっきるように海に面したベランダ、視界の効かぬ夜目にもうすらと白く浮かび上がる背を追いかけるために愛しい娘一人をその場に残し、家を後にしたのだ。
兄ぃはいいよね、いつだったか、弟分の一人が頭一つ分高い位置で、唇をちょんと突き出した拗ねた表情で言っていたことがあったか。だってさあ、あの人、兄ぃには頼ってるって感じじゃん?その時そう続いた言葉に感じたものはくすぐったいようなほん少しの優越感。
だが、現実はどうだ?何かあった?そのたった一言さえも唇にのせることができずに自分はただこの人の背を見つめているだけ。
飽きることなく途切れることを知らぬ波と戯れるように、わっと小さな悲鳴とともに打ち寄せる波を避けるように離れては、また、ととっと元の場所へと駆け戻る。時折、避け損ねたのか、はたまた故意なのか、逃げ損なった海水の洗礼を受けたスニーカーは、しとりと湿りを帯び、場所によっては薄鼠色に姿を変えている。
「濡れてもうた」
やんわりと眉月よりも細められた眼を幾重もの皺で彩るような表情で、かかかと明るい笑い声を立てながら振り返る本の少し高い位置の柔らかな面立ちは、昨日別れ際に見たものとなんら変わることのない穏やかなもの。
だが全てを覆い尽くすその表情に、行き場のなくなった手を遣る瀬無い思いのまま、ぎゅっと握りしめながらも、ただ、頑是無い幼子のような無邪気さを装うその影に、山口は、ちぇ と粒さえも見えぬ砂地を蹴飛ばした。
どれくらいその場で波の音を聞いていただろうか。
「昔なあ」
「うん?」
漸く、自分へとまっすぐに向けられた言葉に、山口はこちらを向きもしない背へと視線を移すと
「おかんに聞いたことあるんよ」
「むっちゃん?」
そこにあったのは、いつしか立ち上がりポケットに両手のひらを突っ込んで、光の見えぬ灰色の虚空を見上げる茫洋とした横顔だった。
「おん」
「なんて?」
「サンタクロースはうちにこおへんの?て」
その場に流れていた雰囲気にそぐわぬその突拍子もしなかった内容に、はい?と裏返ったような声に、城島はくすくすと笑いながら山口を振り返った。
「幼稚園でな、クリスマス会があったん」
「ああ、よくやるよね」
そういうの と、城島との距離を詰めるようにその隣に並ぶと、それで?と軽く首を傾げるようにして先を促す。
「そしたらな、真っ赤な衣装と白い髭のな、サンタクロースが園児に一人一人にプレゼントくれたんよ」
初めて見たサンタクロースという人物と手の中にしかりとした重みをあたえるプレゼントに目を真ん丸くしていた幼い城島に、隣にいた子がこそりと耳打ちをしたのだ。
「サンタさんな、クリスマスにはもっとすごいもんくれんねんで」
ほんまびっくりしたわ と細められた眼に映るは星一つ見えぬ空ではなく、邪気のない幼い子供の見た夢か。
「まあ、奈良の寺の付属幼稚園でクリスマス会やる言うんも考えたらえらい話やけどな」
貰ったものは金額の張らぬクリスマス仕様のお菓子のブーツだったが、その靴の中には、期待と甘い憧れがそれ以上に詰まって重かったと城島は手のひらを握りしめた。
サンタクロースというものが一体何なのか等、幼い自分は一欠片も理解などしていたかったけれど、それがとても素敵なものなのだとただそう感じて。
赤い服と白い髭の、自分に向かってこぼれそうな笑顔を向けてくれた好々爺にクリスマスの夜にもう一度会えるのだと、ただ、嬉しかった。
「うちには煙突あらへんからなぁ」
だが、頬を僅かに紅潮させ、引きずったためにくしゃくしゃになったブーツの端をしかりと握りしめた幼い頃の自分の夢は、母のあまりにもあっさりとした一言にばっさりと切り捨てられたのだ。
「やって」
「絵本、幼稚園で見てきたんやろ?サンタのおじさんは屋根の上の煙突から家の中入ってへんかたか?」
「入っとった」
大きく頷いた我が子に な、そやろと一つ頷いて
「それにな、うちはキリスト教ちゃうからな。サンタさんは来うへんの」
ごめんな と両手を合わせた今よりも随分と若い母のどこか切なげな表情が脳裏を過る。
「なんや、すごい悲しくてな」
その時、心に誓ったんよ と城島は山口にちらりと視線を流すと口角を眉月のようにきゅっと歪めた。
「絶対大きなったら煙突のある家に住んだるてな」
「なんか微妙に夢があるのか、ないのかわかんない決心だね」
「そんときは本気やったんやけどな」
だから、早く大人になりたかったのだ。
「けどなあ、今思たら僕はサンタクロースになりたかったんかもしれん」
思わず似合わねえ と呟いた山口に城島は唇をきゅっと歪めてみせた。
「だってさあ、あなた俺らにお年玉だってくれたことないのにさ」
そうからからと笑ってみせる山口に、そらそうやけどな と城島も頬を緩ませるようにクスクス笑う。
「あんなあ、この間な、ドラマ見て思うたんよ」
笑いを薄く引っ込めると、ちょんと半歩海辺に近寄り、光のない海と空の間を探すように城島は前を見据えた。
「それって?」
言葉のかわりに自分を指すぽてりとした親指に城島はわずかに頷いてみせる。
「僕らはこの子らになんかしてやれたんやろうかて」
食べるものも乏しく、目の前にあるはずの夢も希望も描くことさえ許されず、子供としての権利である学ぶことも遊ぶことさえも奪われて、自分を振り返る間を与えられることもなく大人になることを強要された子供たち。
「空襲におうて目の前に突き付けられたんは惨いまでの『死の現実』だけやった」
その上、僕は戦後間もなく、家族を守ることもできず死んでもうた と足下を吹き抜ける風よりも微かな声が、夜の海に静かに落ちる。
「でもそれは」
「ん、頭ではわかっとう」
そう、あれはドラマなのだ。城島が最後まで彼女たちにその手を差し伸べてやれなかったのは彼の所為ではなく、創られた脚本の上に描かれた筋書きでしかない。
でもなあ、あの子らに僕はなんも残してやれんかったんかなあ て思たら、やけに切なくなってな、
「サンタはこうへんよ て言うたときのおかんの気持ちがほんの少しわかった気がしたんよ」
「そっか」
おん、頷きながら、城島はくしゃくしゃになった煙草を一本引っ張り出した。
慣れた仕草の手の中で、ぽうっと灯った灯りが一瞬辺りを橙色に染め、闇に浮かぶ煙草に灯った蛍火のような淡さだけが残る。
「やのに、僕はその時の夢もよう叶えてへん」
「しげ」
「そこまで考えてな、ふと思うた」
僕は、僕がここにおることで誰かに何かを与えることができとうんかな て、と吐息のように白い煙をほっと吐く。
頼りなげに空に昇るその様は、どこか寂しげだ と山口は眉を寄せた。
「芸能人になって、三十路半ば過ぎた今でもアイドルやて言い張って」
やけど、ほんまやったらとうの昔に結婚をし、子供を育て、家族というものを持っていたのかもしれないのだ。そう束の間の現実であった幻想の花岡家のように。
「僕は、一体何をしとるんやろう。ごめんな、そう思たら、来てもうた」
アイドルと呼ばれ、ミュージシャンとしてライブをし続けた自分達の半生が、この世界に落とした『夢の欠片』を確かめたかったのだ、と城島は、覗き込んできた山口を上目遣いで見上げるとそのまま肩口にこつりと額を押し当てた。
「なあ、僕らが駆け続けたこの17年間には何か意味があったんやろうか」
自の家族さえも作れずに、我が子に夢一つも与えずに、ただ、我武者らに『自分』だけが生きている今という現実だけが横たわる。
「あのさ」
ひと呼吸つくように息を整えた後、ぽんと柔らかく揺れる髪をくしゃりと掻き混ぜるように山口は目の前で震えるたよりない頭部をぽんと叩いた。
「確かに、俺らには子供もいないしさ、守るべき家族もいないけど」
その分、同じだけ大事なものをたくさん見つけてきたじゃん と。
「大事なもん?」
「まずメンバー」
そういうと城島が見えていないのを承知で一つ親指を折ってみせる。
「曲、CD、ライブに、長寿番組。そして日本中どこに行っても俺たちを待っててくれるファンでしょ」
ほら、沢山あるじゃん、と山口は己の頬を僅かに傾ぐように城島の頭に押し付ける。
「確かに、世間一般の人が言う幸せの形じゃないかもしれないしさ、自分の子供に夢を与えるってことはできないかもしれない」
おん と声もなくそれでもしかりと頷く振動を感じて唇を綻ばす。
「けどさ、俺らは不特定多数の人たちに夢を与える仕事じゃん」
俺らの曲を聴いて励まされたとメールを貰ったことがある。
あなたたちの姿を見て、明日も頑張ろうと思ったというファックスを読んだことがある。確かにそれはあまりにちっぽけで世界中の人に夢や希望を与え続けてきたサンタクロースには叶わないかもしれないけれど、確かに自分達が歩いた足跡なのだ。
「誰かの顔を見て、両手を差し出して抱きしめてあげられたら、それはそれですごいことだし幸せなことだけどさ」
俺たちは、TO KI Oだからこそのできる形のない希望や夢を、確かなものとしてるんだと俺は思うよ。
「町子もさ」
「え?」
「貴方がずっと町子の書く小説が好きだって言い続けたから、あの戦争の直中も、あの子は話を書くことを辞めなかった。貴方を失い、働く母親を助けて妹たちを育てるために、上の学校に進むことも諦めて仕事についたかもしれないけど、それでも町子は夢を諦めることはなかっただろ?」
ほら、と山口は、顔を上げきょとんとした眼で自分を見つめている城島に柔らかい弧を描くように笑みを浮かべて見せる。
「貴方と同じ」
「僕?」
「そ、夢、決して諦めなかったろ?」
デビューをするには遅すぎる年になっても、と。
「夢をさ、見ることを忘れない貴方の子供だから」
彼女は小説家になることができたのだ。
おおきになあ そう呟くような声とほろりと綻ぶ花のような笑みに、
「寒いと思ったら、雪じゃん」
僅かに鼻先を赤くした山口が、白い花の舞う空を見上げた。
「風花やろか」
釣られるように空を見上げた城島は、海とは逆の山の空を振り返りながら、くしゃんと小さなくしゃみをするから。
本の少し慌てながら、帰ろう そう差し出した掌に重なる自分のそれよりも薄い指。
ぎゅっと握りしめると、どこかぎこちない面映げな笑みを浮かべながら、込められた確かな力。
「村以外で見るの久しぶりやわ」
ホワイト・クリスマスやねえ と続く言葉に、そうだね と繋いだ掌を引き寄せた。
音もなく海に降り積む儚い六花。
大輪の花も香りもなき不香の花。
さざめく海面に触れる間もなく消える雪花は、儚いほどの切なさで、見る人の心を震わせる。
幻想の中に息ずく偶像(アイドル)は、大地に降り積む雪のようなものかもしれない。震える大地をあたためるように降り積もり、いつしか暖かな光の下、消えてしまうひとときの憧憬。
だからこそ、心の景色の一部になり永久に降り積むのだと。