とんっと、跳ねるように階段を飛び下りた。
俯き加減で行き交う人々を照らし出すのは、尽きる事を知らぬかのように煌煌とした人工灯。
澄んだ空は紛い物。 流れる雲は疑似映像。
あ〜あ、仕方ねえなあ と、片手の鞄を振り回すかのように伸びをする。
外界を照らす柔らかい光から四角く切り取られた無機質な室内。このどこからみても愛想もそっけもない建物には、両手両足では足りない程の人間が忙しく闊歩していうというのに、足音さえもやんわりと吸い取ってしまう柔らかな床材は、外部から完全にこのオフホワイトの室内を遮断して、閉じられた空間に息づくのは彼と自分の二人だけ。
かたかたかたとどこか長閑なまでの機械音が吐き出すのは途切れる事を知らぬかように延々と連なる紙の渦。
この時勢に と次々とアウトプットされてくる数字の羅列を追い駆けるように映し出す琥珀の虹彩に唇を山型に歪めると、enterkeyをポンと押し終えた小柄な男がゆっくりと伸びをするように椅子を軋ませた。
「なあ」
「何?」
太一ぃとどこか間延びするような、まるでそのタイミングを待っていたかのような声に、それでも欠伸まじりに国分は律儀に返事を返す。
「やっぱり、もう、手遅れかもしれんわ」
寝る間も惜しんで幾度となく繰り返された膨大な試算の結果 と指先が薄い色で印字された紙面をぴんと軽く弾いてみせる。
「そう」
だが、それに返されたのは、欠伸こそ混じってはいなかったが何の感慨も含まぬ簡潔なものだった。
「じゃあ、上に連絡しないとね」
せやなあ、と整髪される事を忘れたような柔らかな髪をかきあげる細い指が、彼の遣る瀬ない心情を表しているのだろうか。
とんと態とらしい音を立てながら書類を揃える仕草も意味のない行動とわかっていたが、そのまま綴る言葉を持たなかった国分は、虚しく流れ続けるモニタの数字をぷつりと消すとそのまま椅子を引き摺るように端末の電源を切る。
「遅くなったけどさ、あんた昼飯どうすんの?」
あ?その言葉に僅かに小首を傾ぐと城島は、壁に葉め込まれた電子時計に視線を流す。
「ああ、もう昼休み過ぎてもうとうなあ」
元より昼休みなんてあってないような時間の過ごし方をしている男が何を言っているのか と眦に薄らと皺を刻むようにからからと笑う、そのくせどこか幼い顔立ちの男に、城島はそれもそうやねんけどな とゆっくりと体を起こした。
「今から買いに行くんもあれやなあ」
そう言えば、何日、行ってなかったっけ と、いち.に,三と指を折る。そのどこか稚気を滲ませた仕草に零れる苦笑。
スーパーコンピューターもかくやと言う処理速度を誇ると言われるその頭脳は一体どこへ行ったのか。本当に日常と仕事にギャップのある人だよなあ と。
「それってさあ、例のコンビニ?」
「せや、ああ、しもた、もう4日も行ってへんわ」
また、来るわ て約束しとったのに、とくしゃりと歪んだ表情を尻目に国分は無駄に広い室内の中央、もし誰かがそのテーブルに脚を引っかけたとして、ひっくり返った卓上の飲み物がコンピューターにまで届かない距離に置かれた珈琲をマイマグカップにゆっくりと注ぐ。最もその心配は、今、目の前でどないしようとうろうろと室内を熊のように歩き回っている男限定ではあるのだが。
「山口君がさあ」
「へ?」
「だから、山口君が心配してたよ」
元々出不精なリーダーが足繁く通うなんて、どんな美人がその店を切り盛りしてるんだって、と城島を振り返る。
「それは心配とは言わんのとちゃうの?」
ああ見えて、あの人は世間知らずのところあるから、どんな性悪女に騙されてるかわかんねえしなあ と続いた言葉は秘密にしといてあげよう と笑うように歪んだ唇の形のまま、こくりと珈琲を飲む。
「だってさあ、昼飯どころか、マジ、いつ飯食ってんの?って人がよ、昼休みを待ちかねるように出てくんだから、心配もするって」
せやけどなあ、と合点がゆかぬように僅かに上がる眦に。
「初めにお日さんに中って来い言うたんはぐっさんやろが」
当人に言ってよと声もなく答えて。
「お日さんってさあ」
大きく切り取られた明るい窓から燦々と零れ落ちる滲むような暖色の光に目を細める。
「マジで日向ぼっこしたらやばいでしょ」
「せやねえ」
どこまでも蒼く見える天の色。
だが、その彼方にあるのは日本列島などすっぽりと覆う程の大きさのオゾンホール。
容赦なく突き刺さる光の渦をやんわりと遮る人工の空は、それでも遥か往にし方(いにしえ)に思いを寄せるかのように青く梳いた陽光を受け入れるのだ。フィルターなしに太陽にあたるなど自殺行為も甚だしい。
「けどさあ、アンタ、マジで一度山口君連れてった方がいいんじゃね?」
「何処へやねん」
「あんたさ、普通この流れで何処へって返事が来るか?」
自分専用のカップに、緑茶を注いだ城島の返事に国分が深いため息を一つ返した時だった。
「シゲ〜」
あ、ほら、噂をすれば とにやりと笑った国分に城島が軽く肩を竦めてみせた。
「どないしたんや?ぐっさん」
だが、しゅんっと開いた扉を潜る事なく、顔を覗かせた山口の分の珈琲を注ぎながら城島が振返る。
「いや、あのさ」
こりっと鼻先を指で掻くと、
「貴方、飯食った?」
とどこか跋が悪気に口角を緩めた男に、城島は、まだやで とにこりと微笑を浮かべる。
「今もその話の真っ最中」
「飯の?」
「いや、ちゃうけど」
にやにやと笑う国分に軽く呆れたような視線をくれたあと、ほわりとした湯気を孕んだカップを山口に渡して、傍らの椅子を引き寄せる。
「で?飯がどないしたん?」
「どうせ貴方の事だろうから、まだだろうなって思ってさ、松岡んとこに頼んじまったんだよね」
シゲの分もさ とほんのりとした甘さが薫るそれを口に含む。
「そら、おおきに、それでなんでそんな遠慮がちになんねん」
「それは、あれでしょ。アンタの逢瀬を邪魔した訳だし?」
で?当然、俺の分も頼んでくれたんだよね、と並んで座った二人の斜向いにどかりと座った国分が楽し気に小首を傾げる。
「え?お前も食ってないの?」
「え?もしかして頼んでねえの」
ひでぇな、言うが早いか携帯を取り出した国分に城島が苦笑を浮かべる。
「心配せんでも、こいつがそないなことするかいな」
せやろ と意味ありげな視線に、山口は叶わねえなあと首をきゅっと筋肉質な肩に埋めて小さく笑う。
「ってことやから」
ごちそうさまあ と両手を合わせたその仕草に倣うように城島も山口にごちそうさんと告げると、未だ眉間に皺を寄せたままの男の横顔にふふと笑みを零した。
「ほな、今度一緒に弁当買いに行こか?」
「マジ?」
いいの? と覗き込んできた山口にくすくすと笑いながら、城島が 長瀬に会ってみたいんやろ?とこっくりと頷いた。
「今日の飯自分の奢りからな、そのお返しに次は僕が奢るわ」
「弁当と松岡のところの飯の値段がイコールかどうか疑問が残るけどね」
当然、俺の分もあるよね と続ける国分に調子ええやつやなと呆れたような声。
「ちょっと待て、いつのまに今日の昼飯俺が奢る事になってんだよ」
「さっきごちそうさんて言うたやん」
な〜 と顔を見合わせた二人に、仕方ねえな と山口は苦笑を浮かべると珈琲をこくりと飲み干した。
ぴーぴーと鳴る呼び出し音に、はいはいと立ち上がるのはこんな時尻が重くない国分の役目。
『ねえ、兄ぃそっちにいる?』
ちいさな画面に映るのは、予想通り、この研究所の近くのレストランで働いている松岡の間延びしたような顔だ。
「おっせえよ。すっかり腹ぺこで山口君かんかんだぜ」
え〜 と聞える声に、テレビモニタの隣のナンバーを押し始める。
「今、開けるから、そのまま上がって来いよ」
『ったくさあ、最初俺、兄ぃんとこ行ったんだよ。出前とるならちゃんと場所迄連絡しろって言っといてよ』
軽く突き出された唇に途端に幼くなった松岡に国分が眦を綻ばす。
「でもさ、どうせ、お前、最後にはここに来る訳じゃん?」
なら、どっちに山口君居ても同じじゃねえ?つうか、飯の皿数見て動けよ と続ける国分に僅かに頬を染めながらも、松岡は傍らを振返る。
『ついでにさ、ここにいる『茂君』って泣いてるデッケェ奴も連れて上がっていいのかな?』
知り合い?と問いかける声に、きょんと目を丸く見開いた城島が、松岡の声に混じり聞こえる『しげるく〜ん』という情けなさそうな声に破顔する。
「ええよ、連れてきたって」
奢らんですんで得したわ、と悪戯な笑みと共に湯のみが手の中で円を描いた